F6F ("Grumman F6F Hellcat") は、グラマン社が設計しアメリカ海軍が第二次世界大戦中盤以降に使用した艦上戦闘機である。アメリカ海軍の本命は1940年に初飛行したF4Uであったが、実際には開発時期が遅いこちらが艦上戦闘機の主力となった。愛称のヘルキャットとは、直訳すると「地獄の猫」であるが、「性悪女」「意地の悪い女」という意味がある。グラマン社によりアメリカ海軍の主力艦上戦闘機となったF4Fの後継機として開発された。開発は1938年3月から開始された。開発当初の社内名称はG-35であり、ライト R-2600(1,600馬力)エンジンを搭載する計画であった。1940年にはF4Uが初飛行しており、良好な飛行性能を披露していた。アメリカ海軍はそれぞれエンジンの異なる試作機の製造を要求し、G-35を拡大し、P&W R-2800(2,000馬力)エンジンを搭載するG-50を開発することとなった。元は複葉機として設計を開始したF4Fが主脚を胴体格納式とした(複葉機時代から引き込み脚を採用したグラマンの伝統)のと異なり、最初から単葉機として設計された本機は、F4Fの流れを汲む機体であるものの、主脚が一般的な単葉機同様の翼内格納式となった。このG-50は、1941年6月30日にXF6F-3として試作機が製造された。太平洋戦争の開戦に伴い、1942年1月7日には、試作機が完成していないにもかかわらず、1,080機の量産契約が結ばれた。R-2600 サイクロンを搭載したXF6F-1の初飛行は1942年6月26日のことで、R-2800 ダブルワスプを搭載したXF6F-3の初飛行は7月30日である。XF6F-3は8月17日にエンジンの故障により墜落したため、XF6F-1のエンジンをR-2800 ダブルワスプに換装して実用化の試験に使用した。急降下時に機体後部でフラッターが生じたが、構造を強化することで解決された。P&W R-2800-10とブローニング M2 12.7mm 機関銃6挺を搭載してF6F-3 ヘルキャットとして量産が開始され、この初量産型F6F-3は1942年10月3日に初飛行した。しかし、この機体も後に発動機P&WR-2800-10Wに換装した。そして、F6F-3後期型のカウリング、エルロン、風防、尾部を若干設計変更し、防弾装備のより強化されたものがF6F-5である。XF6F-2とXF6F-4では、それぞれターボチャージャーを搭載し高空性能を向上させた試作機も製造されたが、速度の向上を重要視したアメリカ海軍には評価されなかった。F6Fは、F4Fの設計思想を引き継いでいるが、細部の改良と長所の強化から性能の向上が成されている。F4Fがパイロットから頑丈さを評価されたことを確認し、F6Fも優美なものではなく、単純でありながら頑丈に作られた。機体の形も製造しやすいことを目的として、骨張った形状となった。後方にスライドして開くレイザーバック型のキャノピーを装備したため後方視界は決して良好ではなかったが、広いコクピットが優れた前方視界をパイロットに提供した。直線的で直角に縁取った主翼は、ヒンジを軸にして前方が下になるように捻って折りたたむことができる。この機構は、グラマン伝説によると、ルロイ・グラマンが愛用していたクリップとガム状消しゴムを元に考え出されたと言われている。F4Fと違って主翼の位置が中翼配置ではなく低翼配置になり、脚部の構造にも影響した。F6Fは主脚を後方に引き込みながら、90度回転させて主翼に収めた。F4Fではパイロットがクランクを使って手動で胴体に主脚を納めていたが、F6Fでは尾輪も含めて油圧で作動するようになった。これは、主脚の引き込みを面倒がっていたパイロットに歓迎された。初めてF6Fと交戦した零式艦上戦闘機のパイロットは、この低翼のためすぐにF4Fとは違う機体だと判別できたと述べている。防弾フロントガラスの他、96kgに及ぶ装甲がコクピットに張り巡らされた。同様の装甲が、燃料タンクとエンジンにも施された。胴体内には227リットルの燃料タンクがパイロットの座席下にあり、両翼にはそれぞれ331リットルの翼内燃料タンクを配した。これだけでF4Fの2倍に近い燃料積載量を確保できたが、さらに胴体下に容量568リットルの増槽を装備することもできた。全般的に言えば、野心的な新技術・新設計は盛り込まれず、F4Fの設計思想そのままの発展形であった。特に主脚を胴体に収容するためあえて太くされたF4Fまでの胴体設計主法が、主脚を主翼に収納する本機においても、そのまま踏襲されている。そのため斬新な設計により高性能を示しながら、種々の問題を抱え「航空母艦に搭載されるための機体設計をしなかった欠陥機」とさえ称されたF4Uと異なり、早期に艦上戦闘機として実戦化された。癖がなく未熟なパイロットにも扱いやすい操縦性と、生残率を高めるパイロット背面の堅牢な装甲板、自動防漏タンクなどの装備に加え、見た目に反し日本軍搭乗員にも一目置かれるほどの良好な運動性能があり、格闘戦を得意とする日本の戦闘機を撃破するには最適の機体で、折畳み式の主翼を備え一隻の航空母艦に多数が搭載可能であったこともあって大戦中盤以降、機動部隊の主力戦闘機として活躍し、日本の航空兵力殲滅に最も貢献した戦闘機となった。F4Fの経験を踏まえての、無難で堅実な設計が、期せずして対日本機に最適の性能を発揮する事になったのである。弱点は2,000馬力級の戦闘機としては低速だった事であるが、それでも零戦や隼など、日本の1,000馬力級戦闘機より明らかに優速であり、必要にして十分であった。限られた出力の発動機で最大限の性能を発揮するため極力まで軽量化された零戦に対し、大出力の発動機を得て余裕のある設計がなされたF6Fは全く正反対の性格の戦闘機であり、日米の戦闘機設計に対する思想の差を象徴しているとも言える。F6Fは、一般的に零戦に対抗するために急遽開発された機体であるように紹介される事があるが、上述のように開発時期からいっても、新鋭機F4Uの“保険”としての制式採用経過からも、新技術を採用しない保守的・堅実な設計だった事からも、これは誤りである。機体設計思想は零戦とは正反対の性格の機体である。レーダーを搭載したタイプのF6Fは、TBFアベンジャーと組んで、対潜攻撃のハンター&キラー戦術におけるハンター(捜索担当)機としても活躍した。また単座艦上戦闘機でありながら、レーダー装備の艦上夜間戦闘機(F6F-5N)としても運用された。一部の空母が夜戦専用空母にさえなったという。前述の通り、あくまでF4Uの「保険機」であったため、基本性能に勝るF4Uが艦載機として太平洋戦争終盤に配備されるようになると徐々に第一線からは引き揚げられ、第二次大戦が終結すると急速に退役した。終戦の報を受け、搭載していたF6Fを海に投棄して帰投した護衛空母もいたことが当時の搭乗員のインタビューとして記録されている。戦後は後述のF6F-5Kが朝鮮戦争で実戦使用されたのみであるのに対し、F4Uのほうは第1世代ジェット戦闘機とも互角に渡り合い、1960年代末のサッカー戦争でもホンジュラス軍とエルサルバドル軍のコルセアが干戈を交えた。第二次世界大戦終結後はフランスをはじめとする西側諸国に売却され各国で運用された他、少数のF6F-5が無線操縦の標的機F6F-5D、飛行爆弾F6F-5Kに改修された。またF6F-5はチェスター・ニミッツの指示で1946年に組織された海軍アクロバット飛行隊『ブルーエンジェルス』の最初の機体として利用された。米軍の公式記録によれば、太平洋戦争におけるF6Fと日本軍機(零戦並びにその後継機中心)のキルレシオは19:1とされており、圧倒的な戦績を残している。海軍部隊が空中戦で撃墜した6,477機の敵機のうち、4,947機はF6Fによって撃墜されたものである。海兵隊が運用した陸上基地のヘルキャットを加えると、この数は5,156機に達する。ただし、こうした空戦記録は、アメリカ海軍に限った話ではなく、自軍の戦果を過大に見積もる傾向がある。実際には撃墜していない敵機を、撃墜したと誤認する場合が多いためである。1945年3月19日に生起したF6F、F4U、SB2Cから編成された米艦上機160機と、第三四三海軍航空隊の紫電改58機との空戦では、米軍は撃墜50、日本軍は撃墜58を主張した。実際の損害は、米軍14機喪失、日本軍15機喪失にすぎない。F6Fは大柄・大重量ながら2,000馬力級のエンジンを搭載していたため、軽量ゆえに海面上昇率に優れる零戦と比較しても、ほぼ同じ海面上昇率であった。また、ズーム上昇は頑丈さゆえに急降下で速度を稼げるF6Fの方が零戦よりも優れていた。さらに、急降下性能、武装、防弾性能、横転性能、旋回性能も、時速400km以下の速度域以外では零戦より優れていた。一方で、低速に陥る格闘戦では零戦に対して不利であったため、米軍は零戦との格闘戦を回避するよう戦闘マニュアルでパイロットに指示していた。だが1944年6月の硫黄島における第三〇一海軍航空隊との戦いでは、経験を積んで自信をつけたためか、積極的に格闘戦を挑むF6Fの姿が目撃されている。また、零戦とF6Fが1対1の格闘戦を行い、双方弾薬を射ち尽くして引き分けた事例もある。コルセアの初飛行はF6Fよりも約2年早く、最高速度もF6Fに勝っていた。しかしながら着艦性能が悪く艦上戦闘機としての運用には難があり、F4Fの後継の座はF6Fに譲らざるを得なかった。なお、その後は改良によってF4Uも艦上戦闘機としての運用が可能になり、F6Fを置き換えて大戦末期から戦後にかけてのアメリカ海軍の主力戦闘機・戦闘爆撃機となるが、運動性が高いF6Fを「手強い相手」としていた日本機のパイロットからは、むしろF4Uは相対的には易しい相手であった。このほか、日本海軍に鹵獲され、日の丸に塗装 ヨ-801という機番が書かれて、横須賀海軍航空隊に配備されていたF6F-5が1機存在する。1945年(昭和20年)1月4日午前、台湾中西部飛行場に対する爆撃と写真偵察の任務を帯びたTBMアベンジャー艦攻6機を護衛する空母ランドルフ搭載の第44戦闘飛行隊のT・ワーデル中佐指揮のF6F-5編隊の一機であるチャールズ・ヴァレンタイン・オウガスト中尉操縦のF6F-5がエンジン不調の為、虎尾海軍飛行場近くの畑に胴体着陸した。機体はその後整備隊によって極めて良好な状態で回収され虎尾神社境内の森に運び込まれ、一般公開されたがその後の消息は不明である。その7ヶ月後終戦を迎えたためオウガスト中尉は解放され収容所を出て無事本国に帰還出来た。
出典:wikipedia
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