シャルル2世(, 823年6月13日 - 877年10月6日)は、カロリング朝西フランク王国の初代国王(在位:843年 - 877年)である。後にカール2世()として西ローマ皇帝を兼ねた(在位:875年 - 877年)。禿頭王(le Chauve, der Kahle)と呼ばれる。ルートヴィヒ1世(ルイ敬虔王)と2番目の妃ユーディトの子で、ロタール1世、アキテーヌ王ピピン1世、フランク王ルートヴィヒ2世の異母弟に当たる。823年6月13日、フランクフルト・アム・マインに生まれた。840年にルートヴィヒ1世が没すると、フランク王国ではロタール1世、ルートヴィヒ2世、そしてシャルル2世の3兄弟による領土をめぐっての争いが起こった。まず842年、ルートヴィヒ2世との間で対ロタール1世のストラスブールの誓いにより同盟を組んだ。翌843年に3兄弟は王国の領土をそれぞれ分割することで統治することとなった。ロタール1世はフランク王国中部と西ローマ皇位、ルートヴィヒ2世は東フランク王国、そしてシャルル2世は西フランク王国という具合である。これがヴェルダン条約である。しかし、国内の貴族勢力の統制に苦しみ、さらにノルマン人(ヴァイキング)の侵攻に苦しめられて、その治世は多難を極めた。統治の初期には、845年にブルターニュ公ノミノエ(Nominoë)によって建国されたブルトン軍に(ルドン近郊のブルターニュ東部、国境付近)で破れ、851年に再びでブルターニュ公エリスポエ(Erispoë)軍に破れブルターニュの独立を承認した。869年、兄のロタール1世(ロタール1世は855年に死去)の子のロタール2世が死去すると、シャルル2世は同年9月9日メッツのステファヌス教会でロタリンギア王として戴冠された。しかし、その翌年、東フランク王ルートヴィヒ2世がロタリンギアに対する相続権を主張したため、シャルル2世は東フランク王ルートヴィヒ2世と再び領土交渉を行ない、870年にロタリンギアを中心とした兄の遺領を分割し、ロートリンゲン西部とプロヴァンスを獲得した。兄の遺児でロタール2世の後を継いだルートヴィヒ2世(ルイ2世)には、イタリアの領有と西ローマ皇位のみを認めている。これを、メルセン条約という。こうしてここに、現在のフランス、イタリア、ドイツのもとが作られたのである。そして875年、西ローマ皇帝ルートヴィヒ2世が死ぬとすかさずイタリアに侵攻して同地を併合し、教皇ヨハネス8世の支持を得て、同年クリスマスの日に西ローマ皇帝カール2世として戴冠を受けた。876年、兄の東フランク王ルートヴィヒ2世が死去した。遺領は兄の三子に分割相続されることが決定していたが、シャルル2世はこの機に領土拡大をもくろみ、アーヘン、ケルンと侵攻した。しかし同年10月8日、ルートヴィヒ3世を中心とした三子の連合軍にアンデルナハの戦いで敗北した。翌877年、反対勢力の鎮圧のためイタリアに入ったものの、甥の東フランク王カールマンの大軍がアルプスを越え近づいてきたため撤退したが、その帰国の途中、10月6日サヴォワで死去した。。後を子のルイ2世(吃音王)が継いだ。シャルル2世のあだ名は皮肉として使われたものであって、実情を表してはいないとされる。というのは、彼は実際には禿げておらず、むしろ毛深かったというのである。この説は、シャルル2世に敵対する者のうちに、この誹謗の対象にしやすい特徴について言及した者がいない、という事実によって支持される。しかし、シャルル2世の廷臣で発言がよく記録に残っているものの中に、彼が毛深かったと言った者がいるということもない。そして、『フランク王の系譜』は記述を869年から始めており、皮肉の跡など見当たらない書物であるが、この書ではシャルル2世を「Karolus Caluus」=「シャルル禿頭王」と呼んでいる。確かに10世紀終わりまでに、ランスのリシエやシャバンヌのアデマールが彼を真面目な文章で「シャルル禿頭王」と呼んでいる。もう一つの解釈として、シャルルが初め領土を欠いていたことに基づいた、とするものがある。「禿」はこの場合、兄が副王となってもしばらくの間、彼が領土を持っていなかったことを冗談めかして言っていることになる。842年、オルレアン伯ウードの娘エルマントルド・ドルレアンと結婚、9人の子女がいる。870年、ヴィエンヌ伯ボソ(後にプロヴァンス王)の妹リシルド・ド・プロヴァンスと結婚、成人した1女がいる。
出典:wikipedia
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