小野 晋吾(おの しんご、1975年4月7日 - )は、静岡県駿東郡長泉町出身の元プロ野球選手(投手)、指導者。静岡県駿東郡長泉町出身。御殿場西高校時代に甲子園に出場。1993年のドラフト6位でロッテが指名したが「プロとしてやっていける自信がない」と発言し入団を一時拒否したが、水谷則博スカウトの必死の説得により入団。当時の背番号は63。先発ローテーションに定着、4月23日のオリックス・ブルーウェーブ戦から7月9日の日本ハムファイターズ戦まで日曜日に9連勝し、かつてチームの先輩であり大投手の村田兆治が呼ばれた「サンデー兆治」に因んで「サンデー晋吾」と呼ばれる。6月には月間MVPに選出される。オールスターに選出され、長崎県営野球場で開催された第3戦に先発するが、清原和博(当時巨人)に本塁打を打たれ負け投手となった。この年、13勝5敗で最高勝率のタイトルを獲得。背番号を63から、村田兆治がつけていた29に変更(球団発表は2000年11月5日)。4月8日にダイエー戦で93球で完封勝利を挙げる。しかし翌年以降は腰痛など故障に悩まされ、満足な成績が残せない期間が続いた。5勝8敗の成績で終わったが、防御率は3点台だった。不本意な投球が続き、わずか2勝に終わった。主に中継ぎとして32試合に登板し、4勝3敗防御率3.45の成績を残した。この年の先発登板はわずか6試合だった。先発、シーズン後半からは中継ぎとフル回転しシーズン10勝(先発で7勝)を挙げた。規定投球回到達はならなかったがチーム31年ぶりのリーグ優勝・日本シリーズ制覇(日本一)に貢献した。9月13日、楽天戦で5年ぶりの完封勝利。先発ローテーションを守り2001年以来の規定投球回到達。打線の援護に恵まれず7勝止まりながら1年間安定した投球を見せ、防御率2.66はリーグ5位であった。4月20日の楽天戦から8月5日の日本ハム戦で勝利投手になるまで11試合先発していながら勝てずに苦しんだ事も響き、7勝に終わった。このシーズンも防御率3.25と安定しながら前年同様勝ち星に恵まれなかった。この年は規定投球回には到達しなかった。故障もあり、防御率6.50 5勝4敗と不本意な成績に終わった。オープン戦では不調だったものの、シーズンに入ってからはローテーションを守り続け防御率3点台と復調して8勝をマーク。バレンタイン監督の配慮により10月3日の日本ハム戦では中継ぎで5イニングを投げちょうど3年ぶりの規定投球回に届き、「最低限の目標だったが、うれしい」とコメントした。この試合で清水直行も1イニングだけ投げて規定投球回に到達し、監督は「大きな努力を払ってきた2人にできるささやかなお礼」と述べた。開幕からローテーションを守り3連勝するも、4月21日対楽天戦で臀部を怪我し、二軍調整を余儀なくされる。5月25日対阪神戦で復帰するも、初回にクレイグ・ブラゼルの打球が右肩に直撃し、僅か16球で無念の降板、再度出場登録を抹消された。6月27日に再登録も背中の違和感で7月11日に再々抹消。8月10日に一軍復帰後は中継ぎとしてチームを支えた。シーズン後の契約更改で3年契約を結んだ。この年は19試合に登板し、そのうち11試合に先発した。同年は4勝5敗の成績で終わった。15試合に登板し、12試合に先発したが、2勝5敗とさらに成績を下げた。この年は一軍での登板がないまま、9月19日に今季限りでの現役引退を発表。翌20日に引退会見を行った。10月6日の本拠地最終戦となった対オリックス戦の試合後に、同じく今季限りでの現役引退を表明した薮田安彦と共に引退セレモニーを行い、マウンドに立ち打席に立った福浦和也に対し三球三振に打ち取り、ファンへの挨拶の後ナインに胴上げされ、グラウンドを1周した。2014年からはロッテ球団の東海地区スカウトを務めていた。2016年から千葉ロッテマリーンズの二軍投手コーチに就任することになった。最大の武器として荘勝雄コーチから伝授されたというキレ味鋭いシュートがクローズアップされることが多いが、本人は「多くの人がシュート投手として見てくれていると思うけど、スライダーあってのシュート。今でもスライダーの方が自信がある。シュートはあくまで見せ球」と語っている。
出典:wikipedia
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