日出城(ひじじょう)は、現在の大分県速見郡日出町にあった城。江戸時代を通して、木下氏が居城した。明治初期の府藩県三治制下において日出藩の藩庁が置かれた。大友氏の豊後国支配時代、大友氏配下の大神氏が日出城を拠点とし、文禄2年(1593年)の大友義統の改易の後は速見郡の郡代となった豊臣氏家臣の毛利重政が日出城の城代となっているが、この日出城は現在残る日出城とは立地が違うとされている。現在残る日出城は1601年から1602年(慶長7年)8月に日出藩の初代藩主木下延俊が、義兄であった細川忠興の支援を受けて築城した。細川忠興が縄張りを行い、木下氏家臣の穴太理右衛門(「穴太衆」参照)が野良積みの技法で石垣を構築した。築城の際の人柱伝説が残る。別名「暘谷城」と呼ばれるがこれは、3代藩主の木下俊長が 中国の古書、『淮南子』から引用して名づけたと伝えられる。1874年(明治7年)の廃城令において廃城処分となり建物は競売にかけられた。本丸に開校した暘谷学舎(現在の日出小学校の前身)の建物に利用された望海櫓と鬼門櫓(後述)を除いて建物は破却や移転によって撤去された。そののち、1921年(大正10年)日出尋常小学校の校舎建替えに伴い望海櫓は取壊し、鬼門櫓は中村家へ引き取られ移築された。その内、二の丸に所在する徳永家に移築されていた裏門櫓(鐘櫓)が2000年(平成12年)に解体保存され、2010年(平成22年)に二の丸に移築復元された2013年(平成25年)には鬼門櫓が二の丸の町立萬里図書館(当時)の敷地内に移築復元された。城は、別府湾に突出した南端の台地に本丸、その東・西・北三方をコの字に囲むように二の丸、その東に三ノ丸を配置した梯郭式平山城で、本丸には三重天守と5基の二重櫓、平櫓1基、大手門から多聞櫓(長屋)を隔てた南部に御殿が建てられていた。1602年に建てられた天守は、付櫓を付属する複合式の破風のない層塔型で、初重が南北9間半、東西8間、2重目が南北6間、東西5間、3重目が南北5間、東西4間。外観3重、内部は3階であった。このように最下重が上重の逓減を逸脱して大きく造られており、小倉城天守や名古屋城大天守などと同じく、望楼型から層塔型の天守に移行する時期の特徴を持ったものであったと考えられている。
出典:wikipedia
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