モーツァルトの舞曲では、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの舞曲を作品リストにし、舞曲作品について述べる。1768年以前にザルツブルクで作曲したとされる作品である。父レオポルトが作成した『作品目録』に記録が残るのみで、現在紛失している。1771年または1772年頃にザルツブルクで作曲されたと推測される作品。楽譜に関する資料がないため詳細は不明だが、2回目のイタリア旅行の間に作曲されたものといわれている。1769年にザルツブルクで作曲された作品。完成した日付は1月26日と記載されている。自筆譜は紛失している。1770年及び1771年にザルツブルクで作曲された作品。本来は20曲であった。最初期に作曲されたメヌエット作品とされている。自筆譜が紛失しているため、作曲年代は1769年,1770年/71年,1771年/72年と諸説あり正確には不明で、また筆跡の研究から偽作と判明し、その候補としてM.ハイドンが挙げられているが確証はない。1772年の6月にザルツブルクで作曲された作品。1773年の12月にザルツブルクで作曲された作品。同年のクリスマスから年末にかけて行われる舞踏会のために作曲されたと考えられている。1773年にザルツブルクで作曲したとされる作品。本来はクラヴィーアのための作品で、現在その稿のみが現存する。1783年の夏頃にザルツブルクで作曲したとされる作品。譜面の材質などから多くの諸説がある。いずれもトリオがない短いメヌエットである。1784年の初頭にウィーンで作曲された作品。舞踏会のために作曲されたもの。1788年の12月24日にウィーンで作曲された作品。宮廷の主催によるレドゥーテンザールの舞踏会のために作曲されたもの。1789年の12月にウィーンで作曲された作品。1791年の1月23日にウィーンで作曲された作品。同年の謝肉祭で催される宮廷舞踏会のために作曲されたもの。1791年の2月5日にウィーンで作曲された作品。出版された当初はK.599とK.604と組み合わされて『12のメヌエット』とされていた。1791年の2月12日にウィーン作曲された作品。出版された当初はK.599とK.601と組み合わされて『12のメヌエット』とされていた。1787年の2月6日にプラハで作曲された作品。モーツァルト自身によるピアノ編曲版も存在する。1787年にプラハを訪問した際に、ヨハン・パハタ伯爵のために作曲したものとされている。全体は切れ目なく続けて演奏される。1788年の1月27日にウィーンで作曲された作品。宮廷の舞踏会場レドゥーテンザールのために作曲されたものである。1788年の12月6日にウィーンで作曲された作品。1788年から1789年の謝肉祭で行われる舞踏会のために作曲されたといわれている。1789年の2月21日にウィーンで作曲された作品。作曲の動機は不明である。1789年の12月にウィーンで作曲された作品。宮廷の舞踏会場レドゥーテンザールのために作曲されたもの。1791年の1月29日にウィーンで作曲された作品。晩年のモーツァルトが盛んに作曲したドイツ舞曲の1曲で、第5番『カナリア』は知られている。1791年の2月5日にウィーンで作曲された作品。第3番の『ライエル弾き』は知られているが、この第3番だけなぜか「K.611」の番号が与えられている。1791年の2月5日にウィーンで作曲された作品であるが、K.602の第3番に含まれる作品である。1791年の2月12日にウィーンで作曲された作品である。第3番の『そり滑り』がよく知られている。1791年の2月28日にウィーンで作曲された作品である。本来は管楽のアンサンブルのための作品とされているものの、編成について記録が残されていない。なお弦楽合奏版、ピアノ版のみが現存する。1770年の4月13日または14日にローマで作曲された作品。1776年にザルツブルクで作曲された作品。疑作とされている。1790年の1月頃にウィーンで作曲したとされる作品。自筆譜はなく、『新モーツァルト全集』では新作ではないとして除外されている。1776年にザルツブルクで作曲された作品。同年の謝肉祭のために作曲されたものと考えられている。1777年にザルツブルクで作曲された作品。原曲はクラヴィーアのための作品である。本来12曲の曲集であったが、現在は4曲のみが現存し、クラヴィーアの形として記譜されている。1784年の1月(またはそれ以前?)にウィーンで作曲したとされる作品。弦楽と管楽のパート譜が別の紙に書かれており、これは後から管楽を付加したものと考えられている。1788年の1月にウィーンで作曲された作品。皇室の宮廷作曲家として仕事を始めた時に作曲されたもので、この作品はその最初に作られたものである。全体は32小節で非常に短い。1788年の1月23日にウィーンで作曲された作品。同じく皇室の宮廷作曲家として仕事を始めた時に作曲されたもので、K.534と同じ1月に成立している。1788年初め頃にウィーンで作曲された作品。本来はクラヴィーアのために作曲された『6つのコントルダンス』の中の作品である。1789年12月にウィーンで作曲された作品。その3か月前の9月22日、コーブルク・ザーフェルト公という元帥はルーマニアでトルコの軍勢を撃破して勝利し、その功績を祝すために作曲されたもの。1791年の2月5日にウィーンで作曲された作品。宮廷舞踏会のために作曲された。1791年の2月28日にウィーンで作曲された作品。タイトルはパスクヮーレ・アンフォッシのオペラ『女の勝利(婦人たちの勝利)』からとられている。自筆譜は現存するが完全な状態ではなく、54小節以降が欠落しており、その部分は発見されていない。後に欠落した部分をエリック・スミスによって補筆されている。1787年から1788年または1791年頃にウィーンで作曲された作品。最晩年の作品とされていたが、近年は少し以前の作品ではないかとする説が有力となっている。第1曲にオペラ『フィガロの結婚』の『もう飛ぶまいぞ、この蝶々』が引用されている。1783年または1791年頃にザルツブルクあるいはウィーンで作曲された作品。楽器編成には2種類の版が存在する。1790年から1791年頃にウィーンで作曲したとされる作品。作曲年代は1788年の説もある。未完及び断片のみで、楽譜は23小節以降は中断され、またヴァイオリンのパートのみが記載されている。1788年10月頃にウィーンで作曲したとされる作品。楽器編成は不明で、第2ヴァイオリンのパート譜のみが現存する断片のみの作品。全体は32小節である。
出典:wikipedia
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