ベルトラン・ジャン・ルイ・ガショー("Bertrand Jean Louis Gachot" 、1962年12月22日 - )は、フランス国籍の元F1ドライバー、実業家。1991年ル・マン24時間レースの優勝者である。フランス国籍だが、ライセンスをベルギーで取得しているため、資料によってはベルギー人ドライバーとして紹介されていることもある。レーサー引退後は、エナジードリンクを製造・販売する飲料会社、Hype Energyを買収し、オーナー兼CEOを務めている。ルクセンブルク生まれ。父は欧州共同体(EC、現EU)の高官。そのためか、ヘルメットにはECの旗がデザインされていた。15歳の頃にカートからキャリアをスタート。1983年 ウィンフィールド・レーシングスクール 1984年ベルギー&ベンルクスFフォード1600シリーズ参戦 ブランズハッチFフォードフェスティバル3位 1985年RAC/TTイギリスFフォードチャンピオン 1986年イギリスFフォード2000チャンピオン・ヨーロッパFフォード2000シリーズ2位 1987年イギリスF3シリーズ2位 1988年ヨーロッパF3000シリーズ5位 1984年からベネルクスFF1600に参戦、3年連続でチャンピオンを獲得する。1987年にはイギリスF3、1988年には国際F3000と着実にステップアップした。1989年にオニクスからF1に参戦する。この年はF1のレギュレーションが大幅改正され、史上最多の1レースあたり39人のエントリーがあり、新参チーム・ドライバーには予備予選が厚い壁となっていた。ガショーもその例に漏れず最初の6戦は予備予選不通過であったが、地元の第7戦フランスGPで予備予選をトップ通過すると、予選も11位に入りF1デビューを飾る。決勝は13位完走。これ以降全戦予備予選を通過し、1レース以外は予選を通過するものの、なかなかレースで結果を残せず、チームに対して不満を漏らしたことにより、オーナーのジャン=ピエール・バン・ロッセムの逆鱗に触れ、第12戦イタリアGPをもって解雇された。その後、リアルに移籍したが2戦とも予選落ちに終わり、同時にチームも消滅した。1990年は日本のスバルの水平対向12気筒エンジンを搭載したコローニから参戦。このエンジンは非常に重い上に信頼性もなく、全くまともに走れず。シーズン途中でコスワースエンジンに変更してからは辛うじて予備予選は通過できたものの、この年は予選を1度も通過できなかった。翌1991年が、ガショーのレース人生にとって最高、そして最悪の年となる。F1新規参戦のジョーダンからエントリーしたが、この年のマシンである191は参戦初年度とは思えぬ高性能を見せ、予備予選・予選はおろか決勝でも度々好走をみせる。第5戦カナダGPで5位に初入賞。この後もイギリスGP・ドイツGPで連続6位入賞。ハンガリーGPでは自身唯一のファステストラップを記録する。さらに、マツダから参戦したル・マン24時間レースでも優勝を経験した(後述)。しかし、1990年12月10日に発生していた些細なトラブルにより、ガショーのレース人生は暗転する。ジョーダンチームのスポンサー役員との会合のためロンドン市内のホテルに向かっていた際に、車の前に割り込んできたタクシーと接触し運転手と口論になり、相手の顔面に対してとっさに車内にあった痴漢撃退用催涙スプレーを噴霧した。先述のハンガリーGP後にサウスワーク刑事裁判所にてこの件の裁判が行われ、過剰防衛の罪で禁固18ヶ月、禁止薬物の所持で6ヶ月追加という実刑判決(陪審員による10対2という大差での有罪判決であった)を受け、即時に刑務所に収監された。この護身用スプレーは恋人の車のドアに備えてあったもので、購入地のフランスでは合法だったが、イギリスの法律ではクロロベンジリデンマロノニトリルなど、いわゆる「催涙ガス」の所持・使用が禁止されていた。この処罰の重さに対してガショーに同情する声があがり、収監を受けイギリス国内やグランプリ開催中のスパ・フランコルシャンパドックでも"GACHOT WHY?"と銘打たれた釈放を嘆願する支援キャンペーンが支援者によって展開され、チームメイトのアンドレア・デ・チェザリスをはじめアラン・プロスト、ネルソン・ピケ、イヴァン・カペリ、ティエリー・ブーツェンやエリック・ヴァン・デ・ポールなども揃いのメッセージTシャツを着用しデモに参加、当事者であるタクシー運転手もデイリー・ミラー誌のインタビューに「洋服代を弁償してくれればそれでよいのに、こんな騒ぎになって彼が気の毒」と同情的な回答を述べたが、控訴審開始までの仮釈放申請が却下されたためにガショーはロンドン南部のブリクストン刑務所に収監され続けた。控訴審を経て2ヵ月後にようやく釈放されるものの、ジョーダンには復帰できず。ベルギーGPでガショーの代役としてジョーダンに乗ったミハエル・シューマッハが衝撃的なF1デビューを果たしたことから、ガショーの存在は関係者から薄れてしまっていた。シートを失ったガショーが出所後に日本GPを訪れた際、ベネトンに移籍していたシューマッハから「あなたに起こったことを本当に気の毒に思います。できることがあったら何でも言ってください」と慰められたという。1991年の最終戦オーストラリアGPでは、足を負傷したエリック・ベルナールの代役としてラルース(ローラ)からスポット参戦した。1992年はラルース(ヴェンチュリー)のレギュラーシートを獲得し、新人片山右京のチームメイトとなった。チームは破産から再出発したばかりで、マシンにジョーダンほどの戦闘力はなかったが、モナコGPでチーム唯一の1ポイントを獲得した。また片山右京とは「チーム一、身長差のあるコンビ」と言われていた。1993年はF1参戦を計画するパシフィックに移籍したが、資金難により1994年からの参戦となった。この年はCARTにスポット参戦した。1994年から1995年までパシフィックでF1に2年間参戦したが、弱小チームゆえ目立った成績を残せず、1995年末にチームの撤退が決まると、ガショーもF1でのキャリアを終えた。1991年のル・マン24時間レースには、ジョニー・ハーバート、フォルカー・バイドラーと組んでマツダからエントリーし、日本車初、さらにロータリーエンジン唯一の優勝を飾った。ル・マンには1994年~1997年まで出場した。1994年と1995年はホンダのNSXをドライブした。1996年と1997年には全日本GT選手権に参戦し、トヨタ・スープラをドライブした(1997年はセルモに所属)。1997年を持ってレーサーを引退した。1997年にガショーは、前述するHype Energyのフランスにおける販売代理権を獲得し、飲料ビジネスに参入。引退後本格的に同ビジネスを手がけるようになり、2000年には同社の経営権を取得しCEOに就任した。2014年現在も同社CEOを務めている。
出典:wikipedia
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