三里塚芝山連合空港反対同盟(さんりづかしばやまれんごうくうこうはんたいどうめい)は、新東京国際空港建設およびそれに伴う土地収用などの活動に反対して結成された住民の団体。1966年より、新東京国際空港建設およびそれに伴う土地収用などの活動に反対して結成された地域住民の団体である。略称は「空港反対同盟」「反対同盟」ともいう。空港予定地内に土地を持つ地主の農民を中心に、成田市三里塚および芝山町の農民らが結集し、『青年行動隊』をはじめとして『老人行動隊』『婦人行動隊』『少年行動隊』を組織し、投入された機動隊と対峙してきた。団結小屋を建設し、その一方で接収されていない農地での営農を手助けした。反対同盟は、新左翼の支援を受け、機動隊員3名が死亡した東峰十字路事件を起こすなど、過激な実力闘争などを行ってきた。保守派、日本共産党、日本社会党の一部、社会主義労働者党(社労党、現在はマルクス主義同志会などに分かれている)などは、このような運動を批判し続けてきた。なお、活動家を成田市議会と芝山町議会の議員に当選させた。また、1978年の成田空港管制塔占拠事件直後を含め、自由民主党も含めた国会議員や運輸大臣とも、直接対話を行った。芝山町長選挙では、候補者を立てた。2015年現在の芝山町長は、元「反対同盟」の活動家、相川勝重である。1966年8月22日に、新東京国際空港の建設およびそれに伴う土地収用に反対して結成される。同年6月より、新東京国際空港建設予定地が、富里村(現在の富里市)から、成田市三里塚および芝山町に変更されることで話し合いが進められ、同年7月4日に閣議決定される。土地収用に向けた政府側の動きに対して、成田市三里塚および芝山町の農民を中心とする地域住民が団結して、同年「三里塚空港反対同盟」および「芝山空港反対同盟」が結成され、両者が合同して「三里塚芝山連合空港反対同盟」結成となった。当初の代表は、戸村一作であった。同年8月27日には、土地の名義人を元の地主ばかりでなく、付近住民の共有の名義にして、売買や土地収用の手続きを煩雑にする「一坪共有地運動」が展開される。同年12月26日には、成田市天神峰に、最初の団結小屋を立てる。その後、実力闘争を展開するが、1967年8月より、新左翼諸派の支援を受け入れる。10月10日、測量実力阻止で逮捕者と機動隊員側、同盟員側双方に重傷者を出すこととなる。同年12月15日、実力闘争および新左翼の支援受入れを批判してきた日本共産党関係者の排除に踏み切る。1968年には、より逮捕者やけが人を続出することとなる。1970年には、三次にもなる強制測量阻止闘争を展開する。1971年2月22日の第一次行政代執行の際には、機動隊員側、同盟員側双方に多くの重傷者を出す。同年9月16日の第二次行政代執行の際には、警備に当たっていた機動隊を襲撃し、機動隊員3名を殺害(全身火傷・殴打により死亡)及び、多数の重軽傷者を出す事件を起こす(東峰十字路事件)。この事件で、後に「反対同盟」の青年行動隊員が多数逮捕され55名が起訴され、3名が無罪、他の52名に執行猶予付きの有罪判決が下った。実刑判決が下った者はいなかった。1972年3月12日、「反対同盟」が妨害工作として、芝山町岩山に高さ100mの「岩山鉄塔」を完成させる。1973年11月、代表の戸村一作が、参議院議員全国区選挙出馬を表明する。1974年7月7日、戸村一作が33万票を集めながらも落選する。1977年5月6日、「岩山鉄塔」が仮処分にて政府の手により撤去される。新東京国際空港は、施設が建設され、滑走路も一本だけだが実現し、1978年3月30日が開港予定日とされる。同年3月1日、「反対同盟」は「3月開港阻止決戦突入」を宣言する。同年3月26日に成田空港管制塔占拠事件が起こり、通信機器が壊され、活動家らが多数逮捕される。同年4月に日本経営者団体連盟(日経連)会長の櫻田武、日本商工会議所会頭の五島昇、参議院議員の秦野章、「反対同盟」代表の戸村一作が会談する。同年5月20日に設定されていた開港予定日を一年先送りすることと、その間、「休戦」とすることについて、なんとか条件を一致させた。同年5月10日に、戸村一作と福永健司運輸大臣の会談がなされたが、話し合いは平行線となる。新東京国際空港開港が、再度設定された開港予定日の5月20日に実現する。なお、戸村一作は、1979年11月2日に死去する。北原鉱治が、次の代表となる。新東京国際空港も、開港という「既成事実」が定着し、二期工事により予定されていた未成の二本の滑走路建設に向け、政府が対応することとなる。「反対同盟」も、「廃港」というスローガンは死守するものの、「二期工事阻止」の課題が出てくる。「反対同盟」設立時直後の「一坪共有化運動」を、二期工事空港予定地敷地内の土地を1人1万円で共有するという「一坪再共有化運動」が提起されるものの、二期工事敷地内の農民の多数の反対となる。「一坪再共有化運動」を進める勢力と、それに反対する勢力が出てくる。1982年12月16日、「一坪再共有化運動」推進派により、「三里塚芝山連合空港反対同盟大地共有委員会」が発足する。1983年3月3日に、「一坪再共有化運動」推進派は、芝山町千代田公民館で、「幹部会」名義で北原鉱治事務局長の解任を決議し、3月8日に新代表として熱田一を選出し、マスコミより「熱田派」とされる。「一坪再共有化運動」反対派は、同じ3月8日、成田市天神峰の現地闘争本部で、実行役員会を開き、「幹部会」なる機関を認めず事務局長解任は無効であるとし、「幹部会」メンバーで事務局次長である石井新二の除名をきめ、マスコミより「北原派」といわれる。両者で、暴力事件が起こるが、翌年1984年1月と7月に「中核派革命軍」のメンバーが、「熱田派」とされる活動家を複数襲撃し重傷を負わす事件にエスカレートする。1985年10月20日、「北原派」の活動家と機動隊が衝突し、多数が逮捕される闘争「10.20成田現地闘争」となる。この闘争が「反対同盟」の最後の実力闘争となる。1987年9月4日、「北原派」の同盟員の一部が離脱し、小川嘉吉らの「小川派」となる。「熱田派」は、政府との話し合いの方向で動き始める。1990年1月30日、江藤隆美運輸大臣と公開会談が持たれる。1991年4月9日、地域振興連絡協議会が空港公団、千葉県、ならびに反対同盟の「熱田派」「北原派」「小川派」に、公開シンポジウム参加を申し入れる。「熱田派」は、「強制収用放棄の再確認」を含む五条件を提示する。「北原派」と「小川派」は拒否する。1991年11月21日、反対同盟「熱田派」が参加する「成田空港問題シンポジウム」が実現し、以後1993年5月まで15回開かれる。最終的に、国側は、謝罪し、話し合いによる解決と強制手段の放棄を確認したとされ、土地収用採決申請などの強制執行手続きを取り下げたとされている。1995年8月9日、「小川派」の小川嘉吉は、行政訴訟を取り下げ、事実上「小川派」の活動は終了する。1997年12月7日に、「熱田派」の元活動家の相川勝重が、かつての態度を翻し「2000年までに成田国際空港平行滑走路完成」などを公約に、芝山町長選挙に当選する。2002年4月17日には、2本目の滑走路である暫定平行滑走路が運用となる。2006年1月15日、分裂した「反対同盟」の代表だった熱田一が、空港敷地内にある自宅敷地と、所有権を持つ「横堀墓地」を売却することを表明する。なお、「北原派」とされている「三里塚芝山連合空港反対同盟」、「熱田派」とされている「三里塚芝山連合空港反対同盟大地共有委員会」は、2015年現在も活動を継続している。2013年1月5日、熱田は93歳で死去した。活動家元活動家劇画各団体サイト
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。