雲ケ畑(くもがはた)は、京都市北区の鴨川(賀茂川)源流域の名称である。京都市北区北東部の山間地域に位置し、右京区、左京区と接している。かつての三つの村(出谷村、中畑村、中津川村)が雲ケ畑地域を構成しており、面積は19.5平方キロメートルと、京都市北区域の5分の1を占める。悲運の惟喬(これたか)親王が都をしのんで眺めるため山頂に桟敷(さじき)を作ったとされる、北区最高峰の桟敷ヶ岳(さじきがたけ、895.9m)や北限の石仏峠を擁し、観光客だけでなくハイカーの来訪も多い。山間地域であるため、場所により高低差が顕著に見られる。標高は出合橋付近248m、岩屋橋付近306mであり、岩屋山志明院に至っては450mを超える。賀茂川の源流域に沿い広がる雲ケ畑は、近世まで朝廷との結びつきが強固だった。平安京造営に際してはこの地の木材が用いられたほか、主殿寮・仙洞御料(せんとうごりょう、上皇の所領地)として、木材や鮎などを始め、端午の節句には菖蒲(しょうぶ)を献上する「菖蒲役」を務めていた。薪炭や鮎などを朝廷に献上する供御人の活動地でもあった。平安時代前期に、時の権力者の圧力で皇位継承から遠ざけられた惟喬親王が、隠棲して出家した場所としても有名である。雲ケ畑の村人に慕われた彼にまつわる話が数多く伝えられている。明治中期から大正にかけて「御猟場」(ごりょうば)が設けられるなど、東京奠都の後も皇室とのかかわりを保ち続けてきた。若狭国へ至るかつての鯖街道の経由地としても知られる。賀茂川に沿う雲ケ畑街道や満樹峠(まんじゅとうげ)越えの林道、そして「尾桟敷」を越える林道を経てたどり着く、京都と丹波国を結ぶ交通の要所でもあった。実際、弘仁年間(810年 - 824年)に山城国に編入されるまで、この地は丹波国桑田郡山国郷に属していた。1874年(明治7年)に、雲ケ畑地域の三つの村が合併して愛宕郡雲ケ畑村となった。1890年(明治23年)に、雲ケ畑村の区画に含まれていた十三石山(じゅうさんごくやま)が上賀茂村へ変更されたのち、1949年(昭和24年)には京都市上京区に編入。1955年(昭和30年)に分区され、新設の北区に含められた。市電北大路橋を起点として雲ケ畑に至る「雲ケ畑バス」を始め、この地は昭和初期から公共交通機関の路線内に組み入れられ、その後長らく京都バス雲ケ畑線が、京都市内中心部と雲ケ畑地域との間を結んでいた。しかし、京都バスは「乗客が年々減り、運行を続けても赤字が膨らむばかり」として、2012年(平成24年)3月31日限りで撤退し、同年4月1日より「雲ケ畑バス もくもく号」が運行開始された。明治以前、百年間の立木売却記録によると、雲ケ畑の山林はほとんどが雑木林であった。里人は山年貢を納めるために雑木伐採を行ったものの、主要産物はあくまで薪や炭で、可能な限り択伐をすることで天然林を守り続けてきた。1916年(大正5年)に「雲ケ畑施業協同組合」が設立され、林道開設と併せて造林が進んだ。戦後の復興期に乱伐されはしたが、同時に杉や檜などの造林も進み、1974年(昭和49年)には造林面積が663haに達した。1999年(平成11年)には、林業に関する情報発信や、地域の住民交流を目指して「雲ケ畑林業総合センター」が開設された。岩屋山志明院ゆかりの薬王菩薩が降臨し、疫病退散のためこの付近に薬草を植えた。その草花の咲き誇り、香りたなびく様子が、まるで「紫雲」のようであったとの伝承説がある。他に、出雲氏の作った集落「出雲ケ畑」の「出」が取れたとする説も残る。雲ケ畑は賀茂川の水源地である。従って、この地が汚染されると、下流の京都御所、ひいては京都の街一帯に幅広くその影響が及ぶ。そこで、雲ケ畑の住民はこの水をけがさないように心得て生活をしてきた。昭和30年代までは、死者の埋葬(穢れとされていた)に際しても、この地を避けて持越峠を越えた真弓集落まで運び、そこで埋葬の段取りを済ませていた。かつては、おむつをゆすぐこともできなかったという。現在でも、地元農協の女性部では「手作り廃油石鹸」の使用を奨励し、生活排水をきれいに保つよう努力している。雲ケ畑の森林のおよそ3分の2は「水源かん養保安林」に指定され、伐採の許可が必要なのはもちろん、伐採量も厳しく制限され、賀茂川の治水に貢献している。雲ケ畑街道沿いには産業廃棄物処理施設や仮置き場が点在している。その中に1980年代以降、無許可の野外焼却をしていた業者や、産廃土砂を賀茂川へ流出させていた業者の存在が指摘されており、行政からの指導、措置を求める声が上がっている。山間部の雲ケ畑地域では、2010年(平成22年)4月時点で、71世帯177人が暮らしている。直面する課題は少子高齢化の急進と、さらなる人口減少が懸念されることにある。地域内に交番、郵便局や医療機関などの生活施設も、日用品を購入できる商業施設もなく、地域全体が市街化調整区域に指定されているため、若年層を始めとする住民の転出が目立つ反面、転入者を見込みづらい状況にある。雲ケ畑小学校に通う児童は、1960年(昭和35年)には84人在籍していたが、2010年にはわずか5人に減少。次年度以降の小学校入学予定者がなく、雲ケ畑中学校でも2011年には在籍生徒がゼロになることから、中学校では2011年3月末、小学校は2012年3月末にそれぞれ廃校となった。。森林面積1795haを有する雲ケ畑だが、林業専業世帯も数戸に減少している。林業の衰退により、山林荒廃、土砂流出や貯水力低下をも招きかねず、賀茂川に与える悪影響が懸念される。高齢者の健康づくり推進を目的として、2006年(平成18年)より、地域の施設を利用した健康チェックや家庭訪問等に基づく住民参加型の健康教室(筋力トレーニング・ミニ講和)が開催されている。また、2009年(平成21年)には、「元気な村づくり」をテーマに、地域活性化委員会が立ち上げられた。
出典:wikipedia
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