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ジョン・ラカム

ジョン・ラカム(、1682年12月21日‐1720年11月18日)は、18世紀にカリブ海で活動した海賊。キャラコ(Calico、白木綿)の帽子や衣服を常用していたことから「キャラコ・ジャック」(Calico Jack、JackはJohnの愛称)の名で呼ばれる。海賊チャールズ・ヴェインの操舵手として記録される以前のラカムの半生については、判っていない。彼はヴェインによる信任も厚く、ヴェインが2隻目の船を手に入れるとその船長を任されている。1718年11月24日、前日にフランス軍艦と遭遇しながらも攻撃を試みなかったヴェインに対し、乗組員のほとんどが不服を申し立て、投票の結果ラカムが新しい船長に就任した。ヴェインと彼の支持者ら少数は小船で置き去りにされてしまった(但し彼らはその後も生き延び、最終的にラカムより数ヶ月先経って処刑されることになる)。その後ラカムらはしばらく、漁船など小型船舶を日に数隻襲う海賊稼業を行っていたが、1719年5月にバハマ総督ウッズ・ロジャーズのもとへ出頭のうえ特赦を受けてバハマに落ち着いた。この時期に地方の居酒屋でアン・ボニーと知り合い、愛し合ったと言われる。バハマで金が続かなくなってくると、ラカムはまた海賊稼業へ戻る決意をした。この時アンも男装して彼の船に乗ることにした。ラカムは再び西インド諸島において漁船や小型商船を相手に海賊行為を始めた。この時期に襲われた1隻に男装したメアリ・リードが乗り組んでおり、彼女もまたラカムの手下に加わることになる。1720年8月20日夜半、ラカムは11人の手下と共にニュー・プロビデンス(現・ナッソー)に停泊していたスループを強奪した。この報せを受けた総督はすぐに追討の武装帆船2隻を派遣する。10月に入ってから、ジョナサン・バレットの武装スループがネグリル湾(ジャマイカ東端の港)にてラカムの船を捕捉、降伏勧告を拒絶し逃走の意思を見せた海賊に対してバレットは乗船攻撃を敢行、これを見たラカムと乗組員たちは揃って船底の船倉へと逃げ込んでしまった。2人の女性、アンとメアリだけが激しい抵抗を見せたが、結局取り押えられてしまう。1720年11月16日、ラカムと彼の手下の男性全員(アンとメアリは後日判決を受けた)に対して有罪判決が下り、St.Jago de la Vega(現在のジャマイカ、スパニッシュタウン)において処刑されることとなった。このとき、彼と会ったアンは失望から「あなたが男らしく戦っていれば、犬のように繋がれる(絞首刑にかけられることを指す)ことは無かったであろうに」と厳しい言葉を投げつけている。11月19日から11月20日にかけて刑は執行され、その遺体は海賊を志す者への見せしめとして鎖に繋がれ、さらし者にされた。ジョン・ラカムはもっぱら漁船や小さい商船ばかりを狙うという、同時代の他の海賊と比べると地味で平凡な活動に終始しており、故にその名声はアン・ボニーとメアリ・リードという2人の女海賊を率いていた特殊性にあるとされがちである。しかしながら、彼は小型船舶を襲うために自らも小型快速のスループを利用しており、日に何隻も襲いながら発見されず相当な利益を挙げるという、狡猾な面を持っていた。また、生前のラカム自身によれば「他人を傷つけたことは無い」ということもあってか、海外ではラカム本人も比較的人気があり、その名を冠する観光店やロック・グループなどが見受けられる。なお、当時インドからもたらされたばかりの新しい素材のキャラコを好んで着用したことや、「交差するカットラスの上にドクロ」というラカム独特の海賊旗デザインなどから、相当な伊達者であった様である。ジョン・ラカムの海賊旗デザインは数多い海賊旗デザインの中でもとりわけ特徴的なためか創作作品に度々登場する。洋画では、1995年公開の『カットスロートアイランド』や、2003年以降大ヒットシリーズの起点となった『パイレーツ・オブ・カリビアン/呪われた海賊たち』で海賊船ブラック・パールが掲げる旗として登場したのをはじめ、事例は数多い。国内の作品では、テレビ番組海賊戦隊ゴーカイジャーのエンブレムモチーフとして、この意匠を強く想起させる図案が採用されている。

出典:wikipedia

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