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孫魯班

孫 魯班(そん ろはん、生没年不詳)は、三国時代の呉の公主・長公主。字は大虎。孫権と歩皇后の上の娘、大公主と呼ばれる。同母妹は孫魯育。兄弟は孫和など。夫は周循、後に全琮。子は全懌・全呉。孫権の長女として誕生。最初、周循に嫁いだが、周循が早世した。黄龍元年(229年)、父が即位した際、全琮に再嫁し、全公主と呼ばれるようになった。赤烏元年(238年)、歩皇后の死後、王夫人(のちに大懿皇后と諡された)が皇后候補になると、王夫人との関係が悪かった魯班はそれを止めようとした。赤烏5年(242年)、皇太子の孫登が死去し、代わって孫和が皇太子に立てられた。魯班は、孫和が生母の王夫人のことで自分を恨んでいるのではと思い、孫和の失脚を画策するようになった。ある時、孫権が病床に臥したので、孫和が宗廟で祈ることになった。すると魯班は、孫和が宗廟を少しの間離れて自分の妃の叔父の元に立ち寄ったとの情報を、ただ聞き知っただけであるにもかかわらず「太子は宗廟で祈らず、もっぱら妃の実家と策を練っているようです。さらに王夫人も病を喜んでいる様子です」と父に誣告した。孫権がこれに激怒すると、王夫人は失意のうちに病死した。また、孫和も父から疎まれるようになった。二派が対立すると、孫覇(魯王)派は全琮やその一族、さらに歩皇后の一族である歩騭らを味方にし、讒言により張休・陸遜ら孫和(太子)派の重臣を陥れた。これにより一時は政治的な優位を築いた。 赤烏12年(249年)、全琮が死去し、子の全懌が跡を継いだ。赤烏13年(250年)、孫権は喧嘩両成敗を理由に孫和を廃嫡し、孫覇にも死を命じて、孫亮を皇太子に立てた。後に、再び病床に臥し気弱になった孫権は、孫和の無実を悟り召還しようとしたが、魯班・孫峻・孫弘らがそれに強く反対したため、結局召還しなかった。孫覇の死後、魯班は新たに父の寵愛を受けた末弟の孫亮に注目し、姪孫に当たる全尚の娘を薦めた。また、孫亮の即位後には皇后とさせた。諸葛恪の死後、孫峻と密通し孫和を自殺に追い込んだ。五鳳元年(254年)、孫英・孫儀らが相次いで孫峻の暗殺計画を立てるが、いずれも失敗した。このため翌2年(255年)、魯育が孫和の廃嫡に反対したことを根に持っていた魯班は、孫峻に「魯育も孫儀の暗殺計画に加担していたようです。」と誣告し、誅殺させた。また孫峻の死後、魯育の死の真相を知った孫亮から詰問され窮すると、朱拠の子の朱熊と朱損もクーデターの首謀者の一味であったと讒言し、処刑させた。太平3年(258年)、孫亮は孫綝の専横に業を煮やし、全尚・魯班、将軍の劉承らと謀り、孫綝を誅殺しようと計画した。しかしこの計画は、全皇后や全尚の妻の動きを事前に察知した孫綝が、同年9月26日に先手を打ってクーデターを起こしたことで失敗に終わった。魯班は豫章に流されてしまったという。

出典:wikipedia

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