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富樫満成

富樫 満成(とがし みつなり、生年不詳 - 応永26年2月4日(1419年2月28日))は、室町時代の武将、守護大名。官位は兵部大輔。富樫満家の子とも、富樫氏庶流にあたる久安氏の一族、久安家永の子とも。幼少の頃より足利義持に仕え、義持が将軍となった後も近臣として寵愛を受けた。富樫氏は南北朝の動乱期に足利尊氏に付き従い活躍した富樫高家が加賀の守護に任じられて以降、代々守護職を世襲していた。しかし、元中4年(南朝)/嘉慶元年(北朝、1387年)に守護富樫昌家が没してから、加賀の守護職は斯波氏の手に奪われていた。満成は義持を後ろ盾として加賀守護への復権を狙っていたとされ、応永21年(1414年)に加賀守護の斯波満種が義持の忌避に触れて守護職を更迭された事件にも何らかの形で関わったと考えられる。満種の失脚後、満成が加賀南半国の守護に任じられた。一方、加賀北半国の守護には富樫満春が任じられている。応永23年(1416年)、関東にて前関東管領であった上杉氏憲(禅秀)が鎌倉公方の足利持氏に対して反乱を起こした(上杉禅秀の乱)。この反乱自体は翌年(1417年)に幕府軍の動員もあって鎮圧されたのだが、これに前後して京都では将軍義持の異母弟である足利義嗣が突如出奔する騒動が起こる。義嗣は義持よりも父足利義満の寵愛を受けていたとされ、以前から兄弟の関係は良好ではなかった。満成は義持の命で義嗣を探し出して捕らえ、尋問に当たったとされる(義嗣は幽閉された後、同年10月に出家させられた)。11月に満成が義持に出した報告によれば、現管領の細川満元や前管領の斯波義重をはじめ多くの守護大名や公卿が義嗣に加担し、義持の打倒を計画していた、と言うのである。これによって多くの大名・公卿が謹慎・流罪などを命じられた。そして翌応永25年(1418年)1月、満成は義持の命を受けて義嗣を誅殺する。ところが、同年11月になって満成は突如として追放されてしまった。追放の理由は、幽閉中の義嗣に対して謀反を促し、それが露見しそうになったため義嗣誅殺を進言したこと、さらに義嗣の愛妾・林歌局と密通していたとの疑いを持たれたためである。追放された満成は高野山に逃亡したが、翌応永26年(1419年)2月、畠山満家の手勢によって誅殺された。満成は天河付近に潜んでいたが、宥免するという御教書を信じて、河内国へ出てきたところを討たれたという。満成が持っていた加賀南半国の守護職は、満春が兼任することを許された。

出典:wikipedia

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