平井 信正(ひらい のぶまさ、生年不詳 - 天正13年2月28日(1585年3月29日))は京都出身の宮内卿。戒名、梅応院説日円居士。加治田村旧家平井家の始祖。軍術に長じて御所に仕えていた高官であったが、戦乱を避け縁故の道三の所へ寄寓した。道三が子の義龍と不仲なのでたびたび諫めたが直らないので、道三の所を出て栗野郷に住んだ。天文16年(1547年)、道三は守護の土岐頼芸を攻めたが、信正は頼芸方について戦った(美濃明細記)。弘治元年(1555年)の道三討伐では、道三の非道を憎んで反対の立場をとり、義龍方に加わった。信正は軍術・和歌・連歌・蹴鞠に長けていたので、後に加治田城主斎藤利治が人物を惜んで城下清水口に賓客として住ませ、その地で死去した。子の綱正は武士となって織田信長、後に羽柴秀吉に仕えた。小牧・長久手の戦いでは池田恒興に属し、恒興に猿投神社に戦勝祈願するように命じられ急行したが、途中現在の瀬戸市菱野で武具を狙う村人に襲撃され殺害された。以後、菱野では悪病の流行に天災が重なり、夢枕に武士が立って猿投神社に連れて行くよう頼むなどの異変が起こったため、庄屋たちは霊を弔うため京都に行って武士の人形を作り、それを馬に乗せ村人が行列して猿投神社に祈願すると、異変は収まった。綱正の通称は梶田甚五郎といったため、村人は梶田神社を建立して霊を祀り、猿投神社まで人形(でく)の行列をする行事を毎年行うようになったのが、「菱野でく」(菱野おでく祭り)だという。孫(三代目)の治房は元服の際、斎藤利治(治隆)の治の字を賜ったと平井家の家譜にあるという。
出典:wikipedia
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