ジョゼフ・"ジョー"・プロファチ(Joseph "Joe" Profaci, 1897年10月2日 - 1962年6月7日)は、米国のイタリア系犯罪組織コーサ・ノストラ、プロファチ一家(現コロンボ一家)のボス。本名はジュゼッペ・プロファチ(Giuseppe Profaci)。「オリーブオイル・キング」、「ドン・ペッピーノ("Don Peppino")」、「老人("The Old Man")」とも呼ばれた。シチリアパレルモ県ヴィッラバーテ生まれ。1920年、窃盗で1年服役した。出所した1921年にアメリカに渡った。シカゴでパン屋と雑貨商をやったが、うまくいかず、一時シチリアに帰国した。1927年ニューヨークのブルックリンに移り、オリーブオイルの輸入業を始めた。同郷ヴィッラバーテ出身のギャングと非合法活動に従事し、パレルモ派閥のギャングリーダーに担ぎ上げられた。スタテン島とブルックリン中部を縄張りとし、イタリア産トマトやオリーブオイル輸入("カルメラミーア"、"マンマミーア")を手がける傍ら、酒の密輸、賭博、高利貸し、組合たかりや麻薬などに精を出した。1928年12月5日、クリーヴランドで開かれたシチリアマフィア会議に参加した。会議の間、警察の手入れにあい、逮捕されたがすぐ解放された。会議では同年殺されたフランキー・イェールとサルヴァトーレ・"トト"・ダキーラのブルックリンの縄張りをどうするかをヴィンセント・マンガーノらと話し合ったと言われた。レッドフックやベイリッジなど南西ブルックリンの一部を新たに縄張りに加え、またイェール派の残党分子(カラブリア勢)を吸収した。1930年のカステランマレーゼ戦争ではサルヴァトーレ・マランツァーノ側を支持したが、戦争にはほとんど関わらなかった(ボナンノは後年自伝でプロファチは中立だったとした)。その後のマランツァーノによる五大ファミリーの編成と、ラッキー・ルチアーノによるその再編のいずれにおいても一家のボスの地位を保った。第二次世界大戦後、デトロイトのやマイアミのサント・トラフィカンテ・ジュニアと提携した。1946年12月、ギャングの大集会のハバナ会議に参加した。1953年、200万ドル以上の脱税容疑で司法省から告発された。1927年に取得していた市民権は、1954年司法省に無効宣告された(1960年回復)。1956年、ボナンノと姻戚関係を結び連携を強化した。1959年、ニューヨーク税関でヘロイン密輸が発覚するが(シチリア産オレンジの木箱にオレンジをくりぬいて中にヘロインが詰められていた)、訴追を免れた。巨万の富を築き、自宅が3つあった(セオドア・ルーズヴェルト大統領の元邸宅を含む)。傘下の会社や工場ではイタリア移民を優先的に雇用した。熱烈なカトリック信者で、教会の慈善活動に惜しみなく寄付する一方で、一家のメンバーに対しては厳しい上納金を課した。1959年、一家のハリー・フォンタナ配下のギャロ兄弟(ジョゼフら3人)が、賭博屋フランク・アバテマルコの殺害を機に反乱を起こした。上納金の厳しい取り立てに不満なメンバー数十人がギャロの支持に回り、プロファチは窮地に陥った。1961年2月、ギャロ派は副ボスのジョゼフ・マリオッコらファミリー首脳部5人を拘束し、フロリダにいたプロファチと遠距離交渉した。プロファチは譲歩して首脳部は解放された。プロファチはすぐにギャロ派の切り崩しを図り、ギャロの味方だった幹部ニコラス・フォラノとを自陣に鞍替えさせた。更にギャロ陣営にスパイのジョン・シモーネを送り込み、ギャロの側近ジョー・ジェリーを殺害させた。その後抗争はエスカレートした。ギャロ派はカルロ・ガンビーノやトーマス・ルッケーゼの支援を受けていたとも伝えられた。同時期ガンビーノが一家の上納金問題にクレームを付け、プロファチに引退を勧告すると、ジョゼフ・ボナンノと結託してこれに抵抗した。ファミリー単位の戦争を回避するため引退提案は撤回され、プロファチはボスの地位を保った。ガロ兄弟との抗争が終わらないまま、プロファチは1962年3月、肝臓癌により死亡した。その後は副ボスで従兄弟のマリオッコが継いだ。ニューヨーク・クイーンズ区のセント・ジョーンズ墓地に埋葬された。
出典:wikipedia
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