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シルヴィ・ヴァルタン

シルヴィ・ヴァルタン (Sylvie Vartan, 1944年8月15日 - )はフランスの歌手で、ライヴ・ステージが定評のエンターテイナー。音楽レパートリーはロックからジャズやバラードまで幅広い。ブルガリア生まれで8歳からフランス・パリ育ち。1961年リセ在学中の17才でパリ・オランピア劇場に初出演。アメリカ音楽が台頭し始める中、ロック歌手としてデビューする一方で1964年「La plus belle pour aller danser」(邦題「アイドルを探せ」)が世界中で大ヒットした。以来70年・80年代のパリ公演ロングランと国内外での長期公演ツアー黄金期を経てコンスタントな新譜制作と公演ツアーを軸に活動している。2011年11月にステージ・キャリア50周年を迎えた。1984年からアメリカ在住でロサンゼルスとパリ半々の生活を送る。フランス音楽界に17歳でデビューし当初はアメリカン・ロックのフランス語カバーを歌いハスキー・ヴォイスと容姿やファッションで一躍若者のアイドルとなる。1963年19歳で初渡米。アメリカ・ナッシュヴィルのRCA本拠地で国内外で大ヒットとなる「La plus belle pour aller danser(踊りに行く一番の美人)」(邦題「アイドルを探せ」)収録のアルバム第3作「Sylvie à Nashville」をエルヴィス・プレスリーのオーケストラやコーラスと共に直接同時録音。又1965年まで憧れていたニューヨークを頻繁に訪れ有名TV番組に出演する。1965年5月初来日。前月4月に20歳で21歳のロック歌手ジョニー・アリディと結婚 - アイドル同士の結婚はファンのイメージを壊すとのマネージャーの忠告に 《アイドルという職業はない》 と反論。音楽レパートリーはロックからジャズやバラードまで広くダイナミックな公演活動をするエンターテイナー。1970年からニューヨークやロサンゼルスでダンスに励み2004年迄はアクロバットなタンゴから空中ダンスやタップダンス含め様々なダンス・シーンを織り交ぜた豪華絢爛スペクタクルを興行。現在までコンスタントに新譜を発表し新譜をテーマにコンサート活動を繰り広げている。1960年代デビューのスター歌手の中で稀有な存在である。2013年は50年ぶりにキャリアの原点であるナッシュヴィルに戻りCountry Rockをテーマに新譜「SYLVIE IN NASHVILLE」を録音。1944年8月15日 ブルガリア・ソフィア近郊、ソフィア州スヴォゲ市イスクレツ ()で誕生。1952年に家族でフランス・パリへ移住。ソフィアのフランス大使館プレス担当だったフランス国籍(フランス東部アルザス地方生まれ)のブルガリア人の父親と、ハンガリー人の母親を持つ。母親は、ハンガリー・ブダペストで今も残る壮大な教会堂を手掛けた著名な建築家の娘で、父親が第一次世界大戦直後にブルガリア当局から首都ソフィア復興のために請願されて一家でソフィアに移住した。ソフィアでフランス系電気会社を経営していたシルヴィの祖父と父親は共にフランス生れで、父親はソフィアのフランス語学校で教育を受けている。2人共フランス語に堪能でその文化に傾倒していたことからシルヴィはその影響下で幼少時代を過ごした。父親は多才で、オペラを愛しピアノを弾き作曲をし絵も描いたが、さらにプロの彫刻家でもあったことから、政府の要請でスターリンとゲオルギ・ディミトロフ(第二次世界大戦後成立したブルガリア人民共和国の初代首相)一緒のブロンズ像を制作している。1952年12月にビザを入手し共産体制へ変ったブルガリアからフランスへ両親と兄と家族4人でフランス・パリに亡命した。因みに、Sylvie Vartanの名について、アルメニア人の名字である「バルタニヤン」であるとする巷の一認識がある。しかし本人は自伝やインタヴューで≪祖父のルーツがアルメニアに遡るが家族の姓はVartan≫と語り、Sylvie Vartanは本名(出生名)であると明言。シルヴィは祖父・父親・兄がピアノなど楽器演奏をする音楽一家に育ち、演劇学校進学とコメディ・フランセーズを夢見ていた。7歳年上の兄エディ・ヴァルタン(Eddie Vartan、2001年死去)はジャズ・トランペッターであり、ジャズ・バンドを持つ音楽家で、かつRCAの音楽プロデューサーでもあった。1961年春、エディが担当したデュエット・レコード制作で、録音途中に突然降板したイギリス人女優の代役に立ったのがシルヴィの歌手デビューとなった。曲目は前任者の高音の声質を真似てハミングしたコミカルな歌「Panne d'essence(ガス欠)」(のOut of gas)であった。土壇場での交代劇だったために6月発売されたレコード・ジャケットには男性歌手フランキー・ジョルダン () のみ写っている。ジョルダンも当時は歯科学生でロックに夢中なあまり趣味で歌いピアノを弾いていた。偶然参加したシルヴィには滑稽極まりない作品に見えたこの歌は意外なヒットとなり同年12月にジルベール・ベコーのパリ・オランピア劇場公演第一部に相手役のジョルダンと招待されて初めて観客の前で歌う。この一寸の出演は伝説のオランピア劇場支配人ブリュノ・コカトリックス () の目に止まり、数週間後のヴァンス・テイラー () 公演の第一部出演を依頼される。この公演にシルヴィは初めてステージ衣装を作って臨み「Quand le film est triste(Sad movie makes me cry、悲しきスクリーン)」等を歌う。1962年5月ベコーの国内ツアーに参加するが、娘の芸能界入りに特に猛反対だったシルヴィの母は巡演に出るには兄エディの付添いを条件とした。「悲しきスクリーン」 を録音した時の事を先の「ガス欠」のソングライターでもあるジョルジュ・アルベ (Georges Arber) は「シルヴィには既に彼女特有の歌い方があった。その時に私は彼女は成功すると分かった。とにかく彼女はその可能性を持っていた」音楽的嗜好はジャズ志向の兄エディの影響で思春期からマイルス・デイヴィスやオスカー・ピーターソンなどのオランピア劇場公演を見た。ジャズ・ロックンロール・R&Bなどアメリカ音楽に魅了されエルヴィス・プレスリー、ビル・ヘイリー、リトル・リチャード、レイ・チャールズ、ブレンダ・リーを好んで聴く。舞台俳優を夢見ていた文学少女のリセエンヌはこうして奇妙にも歌手の道を辿る。1970年代に入るとフランスはシルヴィ・ヴァルタンをそのショウアップされたエネルギッシュなステージぶりから「show-woman américaine(アメリカ的Show-woman)」と形容するようになる。スタジオ活動よりライヴ・ステージ志向が強いのはこの当初の舞台俳優への志が源となっている。デビュー当時は常に作曲家でもある兄エディ率いるエディ・ヴァルタン・オーケストラが付き妹シルヴィを支えた。1963年「Tous mes copains(邦題:おセンチな17才)」が最初の大ヒットとなる。同年6月、伝説の音楽雑誌『サリュ・レ・コパン ()』の1周年記念で開催したパリ・ナシオン広場コンサートに15万人の若者が集まりシルヴィ達「若者のアイドル」に熱狂する。「サリュ・レ・コパン」は1959年にジャズ・写真・芸術の熱狂的ファンでアメリカの最新音楽に精通するダニエル・フィリパキ(、後のアシェット・フィリパキ・メディア社長)とフランク・テノ(Frank Ténot、ジャズ評論家)がラジオEurope1で始めた伝説の人気ロック音楽番組「サリュ・レ・コパン」の成功によりその延長で出版まで及んだもの。シルヴィの兄でジャズ・トランペッターのエディ・ヴァルタンとこの二人を結びつけたのもジャズである。フィリパキは16歳年下のシルヴィをデビュー時に小さな妹のように可愛がった。シルヴィはこの1963年から1965年は頻繁にアメリカ・ニューヨークを訪れる。1963年9月、19歳を迎えて間もなく第3作目アルバム「Sylvie à Nashville/日本盤:夢のアイドル」をRCA本拠地ナッシュヴィルで録音。その際に先ずニューヨークへ行くがサリュ・レ・コパン誌は写真入りでこの模様を報道。翌1964年5月の訪問ではTime誌のインタヴューや他の雑誌撮影そしてCBSの人気番組ジョニー・カーソン「トゥナイト・ショウ」の歌の録画等の他にRCA側のディナー出席等で過密スケジュールであった。同年11月にまた3週間滞在し英語盤アルバム「Gift wrapped from Paris」(日本盤:パリからの贈り物)を録音。翌1965年3月中旬はNBCのポール・アンカの番組に出演し、また「トゥナイト・ショウ」に2度目の出演をする。1964年、「La plus belle pour aller danser(踊りに行く一番の美人)」(邦題:アイドルを探せ)等の大ヒットにより4回目のパリ・オランピア劇場公演が1964年1月16日から2月5日迄行われる。これはビートルズとアメリカのトリニ・ロペズ (Trini Lopez) との共演。当時のビートルズは人気沸騰前で、観客を動員したのはトリニ・ロペズとシルヴィであった。同年フランス映画「Cherchez l'idole(アイドルを探せ)」に出演、主題歌となった「La plus belle pour aller danser」(邦題は映画タイトルと同じ「アイドルを探せ」)を歌い、ハスキー・ヴォイスと容貌でスターとなる。ジョルジュ・ガルヴァレンズ () とシャルル・アズナヴールの作品で、19歳を迎えたシルヴィがナッシュビルのRCA本拠地で名ギタリストのチェット・アトキンス指揮の下でエルヴィス・プレスリーのミュージシャンやコーラスと直接同時録音したLP「Sylvie à Nashville」収録曲。アルバム「Sylvie à Nashville」は、英語曲3作を含み、スウェーデン・トルコ・ペルー等も含めて世界的に広くリリースされる。フランスでは長期間に亘り大ヒットし商業的にも大成功となる。シングル・カットされた 「Si je chante」(恋のショック) そして日本でも長期間トップとなった「La plus belle pour aller danser」(邦題:アイドルを探せ)は其々売上第一位にランクされる。本アルバムはシルヴィ本人にとり、その後のキャリアの上で重要な一作だという。この19歳の初渡米でニューヨークでTV出演も行い、滞在中に見た「一つの文化であると同時に厳しいビジネスでもある尊重されたアーティストの存在」に衝撃を受けた。「ニューヨークしか夢見ていなかった」シルヴィに「ニューヨークはアメリカを発見させてくれた」。当時フランスは、アメリカン・ロックのカバー曲を歌うシルヴィ達ティーン世代の振興音楽を「Yéyé(イエ・イエ)」と揶揄し一まとめに括って中味も才能もない歌手のように捉え、アメリカとはメンタル的に雲泥の差があった時代。若く好奇心旺盛なシルヴィは「仕事に対する考え方とやり方において高水準を求める気難しさや厳格さやインスピレーションなど多くを学んだ」。2000年代に入ってフランス雑誌のインタヴューで「アメリカは其々の時代とても進歩している。その音楽も時代を感じさせない。」と語っている。黄金の60年代の若者達の「Yéyé(アメリカン・ロック)」への過激な熱狂について、1980年末12月28日にTF1のインタヴュー番組「Nouveau rendez-vous」に独占出演したシルヴィ・ヴァルタンは、彼女のキャリアを映像で辿る中、同年代の歌手仲間で友人の一人でもあるフランソワーズ・アルディを途中ゲストに迎え2人は肯定的に答えている。シルヴィ「私達は冷静で本心から歌っていた」、フランソワーズ「その通り。アメリカやイギリスの影響を受けたりコピーしたりで真のオリジナリティーを欠いたかもしれないが、屈託ない私達はとにかくその音楽に夢中で17歳の年齢なりに直向きだった1965年4月12日、人気絶頂期の20歳で、21歳の若きフランス国民的ロッカーであるジョニー・アリディと結婚。翌1966年8月14日に一人息子で現在はシンガー・ソングライターのダヴィド・アリディ」()が誕生する。同年に全曲英語アルバム「Gift wrapped from Paris」アメリカ発売。挙式後の5月に世界ツアーの一環で初来日し羽田空港には大勢のファンが殺到した。1965年世界ツアーのため兄エディはイギリスで気鋭のミュージシャン2人をスカウト。ドラマーのトミー・ブラウン (Tommy Brown) とギタリストのミッキー・ジョーンズで、彼等は1964年から1970年代半ば迄シルヴィに斬新な曲を多く作り主要ブレーンとなる。1960年代から1970年代シルヴィと共に世界ツアーをする。1968年「Face au soleil(太陽に向かって)」、1971年「Suzan」「Annabel」「Une poignée de monnaie(一握りのお金)」、1974年「Rock'n'roll man」等。シルヴィは同様のポップ路線を続けなかった理由について、「彼等イギリス人のような才能あるソングライターに以来出会った事がないからです」と話している。ジョーンズは後にグループ「フォリナー」を結成した。1968年4月に自動車事故に遭い左腕を骨折するが7月に「Irrésistiblement(あなたのとりこ)」、「Baby Capone(ベイビー・カポネ)」が大ヒットし12月にアルバム「La Maritza(想い出のマリッヅア)」(日本盤は「パリの妖精」)から「想い出のマリッザア」など新曲7曲を含めたプログラムで1週間のオランピア公演凱旋。年内及び翌1969年は2度の世界ツアーに出て、夏の60日長期ツアーではオランダを含め欧州から南米や北アフリカを巡る。「Ballade pour une fugue(愛のフーガ)」のビデオ・クリップをテレビ放映、11月にシングル「Abracadabra(アブラカダブラ)」発売。「Irrésistiblement(あなたのとりこ)」製作時について、シルヴィの重要なブレーンの一人で「Irrésistiblement」や「La Maritza」など70年代前半まで数々の大ヒット曲を提供したジャン・ルナール () はこう語っている、「Baby CaponeはYé-Yéの香りを残す論理的な続き、しかし進展が必要であったしシルヴィ自身もそれを感じていた。私はメロディーを変化・発展させるためもっと高音で歌えるかとシルヴィに訊くと彼女は頷きました。いわゆる裏声の楽節にその可能性があった。そこで私達は一緒に取り組み彼女は驚くべき達成をしたのです。」 「1968年オランピア劇場公演で彼女は正真正銘のスターになった。シルヴィとは、優しく親切な振る舞い・礼儀正しさ・ダンス・動きの優美な女性らしい身体、そして、熟達していない時もあるのは確かだが彼女にはある明白な本物があった。スラブ人である真実や何か深いものがある。空々しいものではない、法螺で物事は動かない。それは、彼女を特異な存在にしている彼女独特のあのハスキー・ヴォイス。彼女は多彩な面を持つダイアモンドでした、彼女はそれを1968年オランピア劇場公演で表明したのです。」1968-1969年はイタリアでも「Irrésistiblemente」「Come un ragazzo(男の子のように)」そして「Zum zum zum」が大ヒットし人気絶頂、国営テレビRAIで3ヶ月間の主演音楽番組「Doppia Coppia」を持った。70年1月にはイタリア語盤「Abracadabra」と「La Maritza」発売。「Buonasera buonacera」「Blam blam blam」「Nostalgia」など堪能なイタリア語で多数レコード録音した。レパートリーはロックからジャズ、R&B、ラテン、バラードまで幅広くダイナミックなライブ・ステージが本領と言われる。契機となったのは、1970年ニューヨークでの「ポップ・ロックそしてとてもソウルなジャズ・ベースでもって ≪最新で≫ 革新的な動きについて並はずれたテクニックを持っていた」アバンギャルドな黒人ダンサー、ジョジョ・スミス (Jojo Smith) のダンス・スタジオ通い。この体験は2月の2度目の自動車事故の1週間後に残る傷痕の治療のため訪れた音楽の街で深く傷心のシルヴィの心身に新たな力を注ぐものとなる。「自分の公演に身体的な広がりや深さを取り入れてより完璧な一人のアーティストでありたい」と考えていた。その年の大半ニューヨークに滞在。クラシック・バレエとは違ったスミスの新しい逞しい踊りに触発され、同年1970年9月のオランピア劇場公演を構想する。当時のフランスでは画期的となったモダン・ダンスを取り入れた本パリ公演、振付・演出はジョジョ・スミス。ゴスペル・R&B・ソウル・ポップが渾然一体となった若いヴォーカル・グループ、ボイズ・オブ・イースト・ハーレム (the Voices of East Harlem) の面々を連れスミス本人も出演した「SYLVIE A L'OLYMPIA 70」(同年10月発売)はキャリアのターニングポイントとなる。このブルーのライヴ・アルバムのジャケット写真にはシルヴィのバックで歌い踊るスミスやボイズ・オブ・イースト・ハーレムの姿がある。本公演のためフィリップ・ラブロ () と兄エディ・ヴァルタンは「La nuit(夜)」を製作。ギターと「Bad moon rising」で幕開け、「Love or let me be lonely」のバレエ、そしてスミス一座とボイズオブ・イースト・ハーレムが登場する「Let the Sunshine In」「Love, Peace & Freedom」でフィナーレとなる。会場にはブリジット・バルドー、N・ドロン、バルバラ、フランソワーズ・アルディ、ルイ・アラゴンらが姿を見せた。シルヴィは、ボイズ・オブ・イースト・ハーレムについてはニューヨークでスミスに連れられてハーレムのアポロ・シアターで感動的なジャッキー・ウィルソンの公演を見た日と同様、街の通りで演じる彼等を初めて見た日を鮮明に覚えているという。この1970年2月の(助手席に乗っての)自動車事故からの復帰公演となりキャリアのターニングポイントと言われる記念碑的オランピア劇場公演は、同年12月に後年ファンの間で伝説となるポートレート・ドキュメンタリー番組「Sylvissima」(シルヴィシマ/スィルヴィスィマ)でTV放映される。当時のフランスで≪画期的≫と言われたモダンダンスを取り入れたロックな本スペクタクルに向けたニューヨークとパリでのリハーサル風景と公演模様の2部構成。公演後の楽屋でフィナーレのジーンズ姿のまま壁を背に座りこみブーツを脱ぎ棄ててステージの幕引きに対する不満を吐き出して塞ぎ込み両手で顔を覆って泣く姿など本公演に掛ける26歳を迎えたばかりの若きエンターテイナー・シルヴィ・ヴァルタンの横顔。本オランピア劇場公演の後、監督フランソワ・レシャンバックの1972年ドキュメンタリー・フィルム「Mon amie Sylvie(モナミ・シルヴィ)」は1971年から1972年オランピア劇場公演迄カリフォルニアから南米を旅するアーティストの公私の姿を収録。YSLのラメのジャンプスーツで「Shaft」を踊った1972年の同劇場公演後は大ホールに場所を移し、1975年から1983年はパレ・デ・コングレ (Palais des Congrès) やパレ・デ・スポール (Palais des Sports) にて、ショウアップされた長期に亘るスペクタクルを興行。1970年7月、ニューヨーク録音の「Aime-moi(愛の経験)」そして「Les Hommes(悲しみの兵士)」、「Abracadabra」など収録のアルバム「Aime-moi」発表。1971年12月に兄エディ・ヴァルタン、バンドのトミー・ブラウンやミッキー・ジョーンズ等の作品をロンドンの名スタジオOlympic Sound Studiosで録音したシルヴィ・ヴァルタンの代表作に挙げられている「Sympathie」(日本盤「哀しみのシンフォニー」)発表。「Suzan(スーザン)」「Annabel(アナベル)」「Une poignée de monnaie(一握りのお金)」「Riche(愛に生きる私)」「California(カリフォルニア)」「Parle-moi de ta vie(あなたのことを教えて)」「Comme un arbre arraché(はり倒された木のように)」など全11曲。日本では、12月末日にイタリアで録音され現地発売された「Caro Mozart(哀しみのシンフォニー)」(イタリア語)を追加収録し翌1972年発売。本作はモーツァルト交響曲第40番ト短調K550第一楽章アレグロをモチーフにPaolo Dossena, Francesco Valgrandeがポップ調にアレンジ製作したもの。1972年9月オランピア劇場公演。亡き父親(1970年7月逝去)へのオマージュ「Mon père(モン・ペール)」を発表し本公演で歌う。この72年公演はロサンゼルスにアパルトマンを借り一人息子ダヴィドや母親を呼び寄せてショウ準備に励む。振付・舞台演出のハワード・ジェフレー (Howard Jeffrey) とリハーサルを行う。ショウの主作品であるシルヴィお気に入りのアイザック・ヘイズの「SHAFT」に乗せて男性ダンサー達と踊る。新曲「Mon père(モン・ペール)」、「Medley (Rock 'n' Roll music – Never been to Spain – Proud Mary)」、「A song for you」(Leon Russell レオン・ラッセル1970年作品)、クラシック・シャンソン「Ne me quitte pas(行かないで)」(ジャック・ブレル)などプログラムは様々なスタイルだが、それはシルヴィの意図する構成だった。シルヴィの興味は特定の音楽カテゴリーより音楽全体。本オランピア公演プログラムも「其々が当時の自分自身の状態と好みに合ったものだ」。1973年「Non je ne suis plus la même(愛のかたち)」大ヒット。1973年6月『サリュ・レ・コパン』誌のシルヴィの言葉「私はミュージック・ホールに恋している。私は一歌手だと思っていない、大ヒット曲が沢山ある歌手ではないしそれを望んでもいない。ヒット・パレードの思いのままになるような事には怯えるだろう。私はステージで一連の多彩な要素を見せたい。私の公演にやって来る観客は歌だけを期待してはいない、多面的なスペクタクルを心待ちにしている。」1975年秋、フランス国内サマー・ツアーの後に1ヶ月間のパレ・デ・コングレ・ド・パリ初公演に臨む。振付・舞台演出ウォルター・ペインター (Walter Painter)。大勢のダンサーを従えた大掛かりな本公演は翌1976年2月と12月に追加がされた。オープニングとフィナーレは「Toute ma vie」(Osmond BrothersのLove meのカバー)。隣国イタリアでは国営TVでシリーズ・ショウ番組「Punto e Basta」を持つ。1976年に「L'amour c'est comme les bateaux(愛の小舟)」、「Qu'est-ce qui fait pleurer les blondes ?(そよ風のブロンド)」が大ヒット。1977年秋、パレ・デ・コングレに戻る。ボブ・マッキーの斬新な豹柄衣裳を纏った写真家ヘルムート・ニュートンによる公演ポスターとライヴ・アルバムのジャケットも話題を呼ぶ。パリの街頭の各所に約2m四方のその公演ポスターが連なって貼られる。振付・演出クロード・トンプソン (Claude Thompson)。アンディスピュテッド・トゥルース(The Undisputed Truth)、サイケデリック・ソウル・ファンクグループのYou+Me=Loveに乗せて赤い衣装で踊るバレー、豹柄衣裳で熱唱する「Ne pars pas comme ça」(同年にアメリカ・グラミー賞R&B女性シンガー賞を受賞したThelma Houstonの「Don't Leave Me This Way」のカバー)、そして白の衣装で広いステージを縦横に歌い踊る実兄エディ・ヴァルタン (Eddie Vartan) 作曲「Dancing star(ダンスィング・スター)」のフィナーレなど見せ場の多い1ヶ月に亘る本公演は翌1978年3月20日から4月2日まで2週間の追加となる。観客の中にはモナコ王室のプリンス・プリンセスの姿も。またパリに居合せたミック・ジャガーも来場し楽屋も訪問した。1978年「Disco queen(ディスコ・クイーン)」、1979年12月には「Nicolas(初恋のニコラ)」が大ヒットし年末の『』誌の表紙を飾る。翌1980年は特異な新曲「La chanson au brouillon」 で無邪気な子供達への眼差しを歌っている。私生活では一人息子ダヴィドが13歳である。年末から1981年3月ロサンゼルスに留まり2年前にサインしていた初冬からのパレ・デ・スポール・ド・パリ () 公演の準備に入る。3月下旬に来日し第10回東京音楽祭に審査員として出席。夏に「L'amour c'est comme une cigarette(愛はジダンの香り)」(のフランス語カバー)がメガ・ヒットし、11月に長期間のパレ・デ・スポール初公演に臨む。振付・舞台演出Claude Thompson。ボブ・マッキー作シースルーの衣装で自ら演じたSYLVIEの文字がポスターとなった6週間スペクタクル、「Nicolas(初恋のニコラ)」のアンコール・シーン。会場にはタキシード姿のジョニーと息子ダヴィド、またカトリーヌ・ドヌーブ、ジャック・ドゥミ、ジョージ・チャキリス、アンドレ・テシネ、ロマン・ポランスキー、ナタリー・バイなど映画界からも多数訪れた。翌1982年1月初旬最終日を迎えるや直ぐに6週間のスイス・ベルギーを含む冬期ツアーに出発、8月に1ヶ月の国内サマー・ツアー、そして12月ラスヴェガスのMGMグランドホテルへと続く。1983年パレ・デ・コングレに戻りショウを開催。振付・舞台演出Claude Thompson。本公演は9月10日から11月20日まで11週間ノン・ストップというロング・ランで25万人を動員。休む間もなく11月28日から3週間の国内ツアーへ。翌1984年6月初旬に再婚後もロサンゼルスやアトランティック・シティで劇場公演をし夏にはフランス国内サマー・ツアー。83年パレ・デ・コングレでの「11週間ノンストップ・ロングラン公演」の6-9週間後には同ホールはもう充分だという気持になる。86年アルバム「Virage」を最後にRCAから移籍するが同公演もRCA時代最後のパレ・デ・コングレ公演となる。2年毎の費用も膨大なパリ公演のため前々から計画し全て騒々しいリズムで送る生活にうんざり気味になり始めていたシルヴィは、家族生活に優先を置き直しこれまでと違う静かな暮らしを望むようになる。この記録的パリ・ロングランと翌84年の一万人の大観衆がひしめいた野外公演を含む熱狂の国内サマーツアーを後にフランスでの公演活動は6年間、1990年迄休止する。84年6月に再婚し又、一人息子ダヴィドが18歳になり私生活上大事な時期でもあった。新譜録音は行っているがそのような大観客の目の前から遠のく事はキャリア上の大きな決断となる。実際、アメリカ人と再婚しアメリカ西海岸でも生活するようになった事もあり、フランスの一般大衆は「シルヴィ・ヴァルタンはアメリカに移住した」との印象を持つ。1979年にアメリカ進出を狙ったアメリカ的ワイルドな出で立ちのジャケットが際立つ全曲英語アルバム「I don't want the night to end(アメリカン・ナイト)」、1985年に「Made in USA」を発売。2作共、公式サイトのファン投票では其々の年代で「Sympathie」や「Confidances」と共に一番人気の、代表的アルバム。1970年から1984年は大掛かりなスペクタクルで正にステージ活動、フランス全土と世界長期ツアーの黄金期。音楽だけではなく、ボブ・マッキーからイヴ・サンローラン、クリスチャン・ディオール、シャネル(ラガーフェルド)等、アメリカ・フランスのクチュリエによるオートクチュール衣裳も注目を浴びた。2004年10月から翌2005年2月迄、ガリエラ美術館 () が、「Sylvie Vartan, revue de mode(シルヴィ・ヴァルタンとモード展)」を開催。« revue de mode »の « revue »は、雑誌とスペクタクル公演 « magazine et spectacle » の2つの意味を持ち、展覧会は両方の側面から構成される。。1989年10月、数年のステージ・ブランクを経て、アルバム「Confidanses(バルタン気質)」を発表しステージ活動再開を告知。モノクロ・ジャケットに見る通り外見や装いも70年代半ばから83年迄のスペクタクル時代のゴージャスさや85年アルバム「Made in USA」発売時のアメリカ的ワイルドさからもすっかり抜け出し、全体的にシンプルでスポーティーな一面が顕著になる。長いストレート・ヘアーにナチュラル・メーク、フラット・シューズやテニスシューズを履き、カジュアル・エレガンスが際立つ装いが見られた。1984年6月に再婚しその後ステージ活動を一時休止するが、1989年東欧の社会主義体制が崩壊した翌年1990年ブルガリア・ソフィア初公演を契機に活動を再開し数年毎にパリ公演・国内外ツアーを行う。1990年にエティエンヌ・ダオーのアレンジで再録した「Quand tu es là(ゲーム・オブ・ラブ)」がヒット。10月6日にソフィア初公演、1989年10月の新譜「Confidanses(バルタン気質)」から「C'est fatal(セ・ファタル)」「Il pleut sur London(ロンドンに雨が降る)」などの新曲に加え「Mon Père(モン・ペール / 私の父)」、ジョン・レノンの「イマジン」、ブルガリア・フォルクロールも含めたプログラムで観客4000人の前で歌う。またフランス文化を愛した祖父が幼少のシルヴィへよく歌ったシャルル・トレネの「Le soleil a rendez-vous avec la lune(太陽と月)」をエピソードと共に披露。同年12月フランスTVで放映され、またCDライヴ「Enregistrement public à Sofia」発売。また、兄エディとブルガリア赤十字社の下に人道支援団体「Sylvie Vartan pour la Bulgarie」を設立。1991年1月22日から、湾岸戦争が勃発しパリ市街も不穏な中、パレ・デ・スポールにて3週間に亘って公演し久しぶりにファンの前に戻る。アメリカ人ジェリー・エヴァンス (Jerry Evans) の瑞々しい振り付けやリズミカルな曲目が光るポップ・ロック公演。オープニングの「Par amour, pour pitié(愛と同情と)」、「Dancing in the streets」、子供達が成長し嘗ての自分達のように飛び立って行くその心境を歌う未編集の新作 「Les enfans s'en vont(子供達は去って行く)」などを披露。1989年には一人息子ダヴィドが22歳で結婚し独立している。1992年6月に2週間の日本ツアー、アルバム「Confidanses(邦題:バルタン気質)」収録の新曲に加えア・カペラでブルガリア・フォルクロール「Moya Goro」を歌った。同年1992年12月には夏にロサンゼルス録音の新譜アルバム「Vent d'Ouest(英訳:Wind from West)」発表。Michel Compte撮影のダンサー風シルエットのシルヴィのセピア色写真が新しくブックレットも含めてストーリーを持った作品。1993年夏、ア・カペラのカバー曲「Tes tendres années(テンダー・イヤーズ)」のヒットにより、長年一緒に仕事をしたベテランのミュージシャンやコーラスとの同時録音アコースティック・アルバム「Sessions acoustiques」を一気に製作。1995年1月、新譜「Sessions acoustiques」をテーマにカジノ・ド・パリ () 初公演。収録曲に加えヌガロの「Le Cinéma」、フェレ「La vie d'artiste(アーティストの生涯)」、ブレル「La chanson des vieux amants(懐かしき恋人の唄)」などのクラシック・シャンソン、本公演限定のダイナミックな新曲「Je ne peux pas te quitter (comme ça)(こんな風に別れられない)」、また「Divertissement sur Cyrano(シラノのスケッチ)」 などテアトラルな側面も見せた新しいアコースティック・コンサート。1996年、ファン達には長年のトレード・マークの一つだったロングヘアーからショートヘアーの軽快なスタイルに変え、アメリカとフランス両大陸に住むシルヴィのライフ・スタイルを映した「Back to LA」「Je n'aime encore que toi(あなただけを)」収録のヒット・アルバム「Toutes les femmes ont un secret(全ての女性は秘密を持っている)」を持ってオランピア劇場公演。1997年7月に特別な新作CD「Sylvie Vartan chante pour les enfants(シルヴィ・ヴァルタン子供達に歌う)」を発売、フランスの伝統的な童謡やフォルクロールにシルヴィとエディが其々作曲した新作2曲を収録した絵本の様な装丁のアルバム。翌1998年、シルヴィはブルガリアから女の子を養女に迎えることになるが子供に対する愛情に溢れる。1999年に娘ダリナへのオマージュ「Darina」や息子ダヴィド作曲のハードなロック 「Ma vérité」、兄エディの「Les robes」を含む「Sensible」を発表して再びオランピア劇場に戻る。この1999年公演「Tour de siècle」は第1部を殆ど1950年代の古き良きパリに捧げたクラシック・シャンソン・メドレーという特殊な構成をとった。後の2011年7月ニューヨーク初公演の際のインタヴューの中でシルヴィはこの様に語っている:「フランスの歌のレパートリーに傾いたり、母が聞いていた歌へ(1999年の)パリ・オランピア劇場公演でオマージュを捧げたいと思ったのは、やっと2000年になる寸前の事です。16歳の頃はジャズやロックに夢中でした。両親は典型的なフランスの歌(クラシック・シャンソン)を聞いていました、シャルル・アズナヴールやレオ・フェレやジベール・ベコーです。私は遅くなってからこの素晴らしい歌の財産を発見しました。」2001年6月に重要なブレーンで最愛の兄エディ・ヴァルタンを見送った後メディアから遠ざかるが、2004年春に新譜「SYLVIE」を発表。主にイタリアのミュージシャン達(ショウにも出演)による作品を携えて全盛期のパレ・デ・コングレにて9月28日から10月10日まで2週間のスペクタクルを開催。若いダンサーを引き連れて歌い踊り本来のエレガンス・ダイナミズムを取り戻す。ほぼ同時期、パリ市モード博物館(ガリエラ美術館)にて4ヶ月間の衣裳展「Sylvie Vartan, revue de mode(シルヴィ・ヴァルタンとモード展)」が開催される。合わせてELLE誌10月25日号の表紙に登場。また4月発売された自叙伝『Entre l'ombre et la lumière』(影と光の間で)がエッセー部門1位にランクされベストセラーとなる。2007年春、1960年代の欧米のスタンダード曲を収録した新譜「Nouvelle Vague(ヌーヴェルヴァーグ)」を制作。「Il est 5 heures, Paris s'éveille(午前5時、パリは目覚める)」からボブ・ディランの「風に吹かれて」(フランス語ヴァージョン)、ビートルズの「Drive my car」そして「スヴニール・スヴニール(Souvenir, souvenir)」、「Stand by me」(イタリア語 / 日本盤ボーナス)まで、シルヴィがパリに移住した日の少女時代を象徴するような歌からアメリカン・ロックに夢中のリセ時代・思春期に聞いた歌などが収録されている。シルヴィは2004年刊行の自伝本で「私は悲しみや幸せで死んでしまわないために歌う」と書いている通り、当時シルヴィは数年来母の病状が重くて寝たきりの状態で大変に苦しい時期にいた。オリジナル作品だと製作に時間を要するため他アーティストの曲を歌って一呼吸し生気を取り戻したシルヴィ本人の「救いのアルバム」。しかし7月初旬の発売日直前、6月下旬に最愛の母が逝く。本作を携え開催した翌2008年3月のパレ・デ・コングレ公演は、トニー・スコッティが初めて舞台演出をし、従来のダンサー達の出演はない。この年はアーティスティックな面で急転換の年となる。≪観客により近く歌詞がより伝わるようなステージ≫を好むようになる。2009年9月、ミュージシャンと直接同時録音のアコースティック新譜アルバム「Toutes peines confondues(悲しみは全て混じって)」発売と同時に、オランピア劇場でシルヴィ・ヴァルタンには新しいリサイタル形式のアコースティック・コンサートを開催。シルヴィ作曲を含む新作同様、母を亡くして間もないシルヴィが歌うシャンソン歌手バルバラの「Mon enfance(私の幼い頃)」が話題となる。ジョニー・アリディが第2部に連日ゲスト出演。続く国内外ツアーでイスタンブールからソフィアまで巡演。バルバラの「Mon enfance(私の幼い頃)」について、「バルバラの生き方が好きだ。ショウ・ビジネスと距離を置いていた、そして自分の職業に対して大きな愛情を持っていた。『私の幼い頃』は私の同一体験だ。歌わずにいられない。私はその言葉に入り込むだけだ、目を閉じるとそこに自分自身を見る。私のテンポと感情のリズムで歌う」 又、他誌のインタヴューの中で「レパートリーの中であなたを要約する歌はあるか?」の問いにこの歌を挙げて:「最近まで注意を払ったことがなかった。この歌の意図・事柄やその言葉に心を打たれた、それは私自身のものだった。バルバラが “mures écrasée /押し潰された木イチゴの匂い ” を思い浮かべる時にそれは明らか。子供の頃、私達の家の庭に大きな木イチゴの木があった、大きな布を敷いて木イチゴをその上に落とした・・・」2010年3月1日オランピア劇場公演ライヴCD / DVD「SYLVIE LIVE」発売。続いて同劇場にて3日間の追加公演の最中に12月初旬のパリ・シャトレ座 (Théâtre du Chatelet) 初公演が決定する。11月に新譜アルバム『Soleil Bleu(ソレイユ・ブルー / 青い太陽)』をリリース。若手シンガー・ソングライター、ケレン・アン等のプロデュース。ケレン・アンは作曲の他ミュージシャンやコーラスとしても参加。これに先立って9月21日公共放送フランス3はシルヴィ特別番組を放映。また、2年ぶりに来日し11月15日に在日フランス商工会議所の年次イヴェント・ガラGALA2010に招待されてアルバム・タイトルでもある新曲「Soleil Bleu(青い太陽)」(作者でシンガー・ソングライターJulien Doreジュリアン・ドレとのデュオ)を初披露。12月5日シャトレ座初公演は最新作『Soleil Bleu(青い太陽)』の初披露の場となる。プログラムは、アルバム全12曲中11曲が「Mon enfance(私の幼い頃)」と共に核となり全32曲。2011年レコード・デビュー50周年を迎える。インタヴューされる毎に、従来、自分のキャリアを祝う事に無関心であると話す。2009年9月オランピア劇場公演以来アコースティック・リサイタル・ツアーを行い、2010年11月の凱旋により9月30日から10月2日迄再びパリ・シャトレ座公演を行う。「コンサート・ツアー2011」は2月10日スペイン・バルセロナのカタルーニャ音楽堂公演から始まり、7月にモントリオールとニューヨーク(ロウズ・リージェンシー・ホテル・ファインスタインズ(ボール・ルーム))で、11月はイタリアで公演。本コンサート前、3月は一カ月間パリ8区のマリニー劇場 () で演劇出演をする。アメリカでロングラン上演された話題の作品で1月から6月まで上演される「L'amour, La mort, Les fringues (Love, Loss and What I Wore)」- 脚色・演出ダニエール・トンプソン、オリジナル脚本ノラ・エフロンとデリア・エフロン、原作アイリーン・ベッカーマン、翻訳本『あのときわたしが着ていた服』。女性5人が舞台に登場する朗読劇で5人の俳優は毎月交代で演じ総勢30人が出演。11月にステージ・キャリア50周年を迎えて、11月23日にファン待望の50周年記念コンサートをパリのクラシック音楽の殿堂、サル・プレイエル(Salle Pleyel)でソフィア・フィルハーモニー管弦楽団(Sofia Philharmonic Orchestra/指揮Deyan Pavlovパブロフ・デヤン)を伴って開催。2時間半を超える本特別公演にはフランスとブルガリア両国の文化大臣も姿を見せ2000人の観客を前に30数曲を歌った。プログラムは1964年の大ヒット曲「アイドルを探せ」(フランス語原題:La plus belle pour aller danser/踊りに行く一番の美人)でスタートし、ブルガリア音楽2曲「Oblatche le bialo」「Moya Goro」の他「Je croyais」(1976)を含むスタンダード・ヒット曲、また本コンサートのために制作された新曲2曲等、第二部は白いタキシード姿で登場し「La Maritza」(想い出のマリヅァ)や1972年以来コンサートの定番である「Mon père」(モン・ペール/私の父)そしてデビュー直後の十代のヒット曲メドレー、フィナーレではジャック・ブレルの「Quand on n'a que l'amour」(愛しかない時)を歌いあげ、最後に「Ma vie c'est moi l'ai choisie」(フランス語・ヴァージョン「My way」)を朗読した。公演後、フルガリア文化大臣は同国勲章Saint Cyrille et Methode et Le Siecle d'orを授与、又レコード会社SonyRCAはこれまでレコード4千万枚を売上げた実績に対して特別トロフィーを贈った。翌日付Le Mondeル・モンド紙は「Toujours la plus belle pour aller chanter」(いつも、歌う一番の美人)の見出しで記事を掲載し「オーケストラは"シンフォニズム"はせず、当世風や流行に傾倒しない一つの行儀のいいバラエティーのアレンジに徹した。」「約40曲程を歌ったステージは記念公演という罠に掛からなかった。プレイエルで、シルヴィ・ヴァルタンはシンプルで心のこもった舞台魂だったといえる。」と結んだ。12月14日、フランス文化大臣から同国芸術文化勲章-等級コマンドゥーが授与され、その模様は高視聴率を誇る民放TF1のTVニュース13時が放映。「大臣は4千万枚のレコード売上を達成したスター・アーティストが持つ≪そのユーモアとプロフェッショナリズム≫を語りまたサル・プレイエル公演での≪その気品、ポエジーや陽気≫に言及した。」「この≪本物のアメリカ的ロックンローラー≫は≪B.バルドーやC.ドヌーヴよりも多く≫メディアに写真撮影されたとの事。」 12月にサル・プレイエル公演ライヴCD2枚組そして2012年2月にDVDが発売される。2011年はまた、1990年に今は亡き実兄エディ・ヴァルタンと共に設立した故国ブルガリアへの人道支援活動をする非政府団体 Association Sylvie Vartan pour la Bulgarieが20周年を迎える。特に新生児医療に尽くして来て多くの要請があると言う2012年6月「The Ultimate Collection (Coffret des années RCA rééditions)」(RCA時代1961-1986のオリジナル41作品のリマスター・レプリカ復刻盤CD全集)が発売開始される。これはスタジオ録音盤、ライヴ録音盤(日本公演ツアー盤を含む)、TVコメディ・ミュージカル・ショウ主演番組など初CD化を含めた正に全集。ミニチュア・ペーパースリーヴ(紙ジャケ仕様)でCD本体のデザインは黒のドーナツ盤。2013年末まで約1年に亘り限定生産されるコレクション・ボックス。日本ではフランス発売後に単品で発売される。2013年は2月初旬の日本公演(東京と大阪)から活動スタートとなった。日本公演後、3月5日パリで記者会見を開き今後の活動について、「2014年にカントリー・ロック・ポップな新譜を持って公演ツアーを予定」 。翌朝3月6日付ル・パリジャン紙は「尽きることのないシルヴィ・ヴァルタン」の見出しで写真入り会見記事を一面に載せた。5月に1963年以来50年ぶりにアメリカ・テネシー州ナッシュヴィルに戻り新譜を録音。猛暑の8月初旬、コルシカ島アジャクシオを含む南仏リゾート地での4日間野外≪シンフォニー・ツアー≫はパリ・サル・プレイエル公演(2011年)に優とも劣らぬ大盛況で閉幕した。10月14日に新譜「SYLVIE IN NASHVILLE」 をリリース。5月にカントリーロックをテーマに≪音楽の街≫ナッシュヴィルに戻りStarstruck Studiosにて録音した意欲作。マイケル・ロイド(Michael Lloyd)指揮の下、起用した現地名ミュージシャン達はニール・ダイアモンド(Neil Diamond)、スティング(Sting)、テイラー・スウィフト(Taylor Swift)等と仕事をした中堅。オリジナル新作とカバー (、「Cheveux au vent」 ()、「Mr. John B」()、「Etrangere」他)から成る英語1曲含む全13曲。コレクター限定版には別に2曲収録。バイオグラフィー的な歌詞を持つナンバーも多い。新譜発売を控え、10月6日フランス国営放送F2のニュース番組に独占ゲストで出演、キャリア50周年を経てなお新譜制作・コンサート・映画出演とそれは全て進展するばかりだとのコメントで迎えられた。≪フランス語は響きが美しい文学的な言語、ただ私が好むリズム、アップ・テンポの音楽に合わせるのは・・・≫とその難しさにも触れた。10月14日、新譜リリース同夜に新譜独占披露コンサート、ショーケースをテアトル・ドゥ・パリで開催。「ここ数年方向を模索しているように見えただけに歓迎すべき中軸の置き直しを行った。失っていた活力を取り戻している。シルヴィ・ヴァルタンが歌うカントリーは快い熱狂だ。彼女の人気によってフランスの大衆が持つカントリー音楽への頑固な誤解(カウボーイとバンジョーといった固定観念)が消えることを願う。」同日付Le FIGARO紙。別インタヴューで ≪約10年ほど(2004年以降)歌詞を優先したむしろリサイタル的コンサートを行って来たその末に今はリズムを当初のようなロックを求めた≫ ≪たとえ新譜制作をしなくても公演をやれる、私はそのアイディアで溢れているから。例えば1970年オランピア劇場公演がそうだったように。≫ またLe Monde紙は「愛するものに忠実である、アメリカはエルドラド理想郷のままあるアルバムを出した。42枚目のスタジオ録音盤だ。エレクトリック・ギター、2拍子テンポ、十代の表情、カントリーのバイオリンを添えるといった60年代のリラックスしたロックの秘法に基づいて堂々と主張している。時は過ぎる幻想は長く続く。これらフランスとアメリカの出会いは教えるものがある、魂(精神)はアメリカ人で心(感情)はフランス人である。」「シルヴィは間違いなく本物の若き女性だ、2014年2月のフォリー・ベルジェール公演を約束する。」2014年2月中旬に「SYLVIE IN NASHVILLE」を持ってパリ・フォリー・ベルジェール()にて新しい躍動感溢れるコンサート(公演名 "Sylvie à la folie")を開催。"folie"は英語の"crazy"の類義語。幕間なしで(新譜とコレクター限定盤収録曲全15曲中)新曲14曲を含めて25曲以上を歌った。"Nos retrouvailles" (私たちの再会)で幕開け、アンコールも新譜から陽気なアメリカ娘といえる "Sandy" でソワレは頂点に達し会場は狂喜と熱狂の渦と化した。凝った舞台演出はなく音楽100%の新しいステージ。カバー"Je t'appartiens (Let it be me)"を含むスローな3曲程が異彩を放つ中、何より観客が堪能したのは公演タイトル通り久しぶりに見せた本来のロッカーぶりだった。本番前2月8日のアヴァン・プルミエ(試演)について12日付Le Figaro紙は従来公演の定番であった往年のヒット曲を一つも歌わなかった事に触れて ≪彼女はあえてリスクを冒した≫ と会場にいたシルヴィの友人の一人である映画プロデューサーの称賛の言葉を載せ、又 「ナッシュヴィルはシルヴィ・ヴァルタンに感謝すべき」と書いた。日本公演を4月16日から19日に東京と大阪で開催し、公演初日に新譜「シルヴィ・イン・ナッシュビル」が日本発売される。日本公演の後、ソフィア公演へ直行。1990年、2009年に続いて3回目の国立文化センターでの公演となる。広告も壮大で巨大な広告塔が街頭を飾り又ビルの外壁一面を覆う広告まで設置された。国を挙げての歓迎ぶりで大統領や文化大臣も来場。今回の訪問では、「Sylvie Vartan pour la Bulgarie/シルヴィ・ヴァルタン・ブルガリア人道支援団体」の現地病院への貢献活動(5万ユーロ相当の新生児医療機器を贈呈) に対しシルヴィ・ヴァルタンにソフィア名誉市民の称号が授与される。またブルガリア国営ラジオにて記者会見そして現地刊行されたばかりの2012年フランス刊行の自叙伝の翻訳版のサイン会など公演前後のイベントもあり過密日程をこなす。6月から7月は新譜メインのパリ公演プログラムで昨年に続いてフランス国内サマー・ツアーに出る。猛暑の野外公演に5千人から1万人が集った。8月15日に70歳を迎えた。同日付Le Figaro紙は: 「年月の流れを感じさせない人たちがいるものだ、シルヴィ・ヴァルタンはそれに属する」。秋にフランスで公開された映画(ソフィー・マルソーと男優主演)に出演。2015年は2月から2013年に続いてナッシュヴィルでアルバム制作に入る。 4月にパリ・オランピア劇場公演。2013年発表のナッシュヴィル録音アルバムを中心に、自身の往年の名曲やファン達が熱望してきた1977年アルバム収録曲(初披露)やナッシュヴィルで制作中の新譜収録予定の真新しいロック・ナンバーまで、安定したパワフルな歌声とリズムで音楽のジャンルを超えたアーティストであることを改めて強く印象に残した公演。翌日の仏紙 LE FIGARO が報じた通り "幕間なし" で約30曲をエネルギッシュに演じた。国営TV局F2もその公演模様をリポートした。9月から4ヶ月間パリの劇場にて演劇初主演。コメディ作品で定評のあるイザベル・メルゴー(映画監督・脚本家・女優)との共演でチケット・セールスの上位を占める。11月にステージ・キャリア半世紀を超えるシルヴィ・ヴァルタンを彼女のモードで辿る写真集 「Le Style Vartan」刊行、また 新作アルバム 「Une Vie en Musique」 発表。本作は7月に録音したレパートリーの再録で、シルヴィに由縁のある街、ソフィア、パリ、ロサンゼルスに因んだ全16曲を収録。同時期、1961年から1986年RCA時代シングル盤レプリカ復刻CD全集(コレクション・ボックス)が発売される。多方面で大活躍の年となる。2016年4月、約一世紀を生きた敬愛する母親(2007年逝去)の回想本を刊行。秋から2017年春まで2015年に好評だった主演コメディ演劇のフランス国内巡演。本業の方は2017年9月オランピア劇場公演を発表している。日本の音楽シーンにおいては、100万枚以上を売上げた「アイドルを探せ」、「悲しみの兵士」、「あなたのとりこ」、「哀しみのシンフォニー 」、「想い出のマリッツァ」、「愛の経験」、「アブラカダブラ」、「愛のかたち」、「ディスコ・クイーン」、「初恋のニコラ」等、1965年から1970年代に多くのヒットを放った。1965年20歳の時に初来日、以来70年代の長期全国公演ツアーの黄金期を経て2000年代までコンスタントに来日公演を開催。1970年代は頻繁に来日し北海道から沖縄まで過密日程にて3,4週間に亘る全国ツアーを行った。1965年5月世界ツアーの一環で初来日し羽田空港には千人ものファンが殺到した。シルヴィは回想録(2004年フランス発売の自叙伝)の中で、フランスから遠い極東の国での成功・空港で制服姿の学生達が小さな旗を振って大歓迎する光景を見て驚いたと記している。当時の日本はまだ観光で訪れる人があまりいなかった時代でまた遠かったこともあり、アンカレッジ経由の飛行機の中は殆どシルヴィ・ヴァルタン一行の貸切状態だった。羽田空港に到着直後には歓迎の横断幕「Bienvenue!! SYLVIE VARTAN」をバックにVictorレコード会社開催の記者会見に兄エディを伴って出席。エディ・ヴァルタン・オーケストラと共に約3週間の日本全国ツアーを行う。1995年発売「RCAスタジオ録音全集1961-1986」のブックレットに来日時の写真が1枚載っている、街中の人力車の上で女子高生に取囲まれて彼女等が満面の笑みで一斉に差しだす紙に嬉しそうにサインしている姿だ。20歳のシルヴィは公演の合間にショッピングを楽しみ、青山辺りで買った麻の仕立ての良い女の子のワンピースを大変に気に入っていたようで約40年間も大事にキープしていた。というのも、フランスや日本の雑誌インタヴューの中で2004年頃に一人娘のダリナ(当時7歳)に初めて着せたと話している。1971年5月に6年ぶり2度目の来日、約一カ月のツアーではジャニス・ジョプリン の「ミー・アンド・ボビー・マギー(Me and Bobby McGee)」、ビートルズ「ゲット・バック(Get Back)」を披露。また滞在中に日本語でレコード録音、オリジナル曲「恋人時代」「女の時間」など見事な発音で歌い、レコード・ジャケットには「親日家」と評されている。「想い出のマリッツァ」「私のすべて」の日本語ヴァージョンも録音。73年にはクラシック・シャンソン、ジャック・ブレルの「行かないで(Ne me quitte pas)」を熱唱。78年は前年秋の壮大なパリ公演を持って更に華麗でダイナミックなダンスシーンを披露した。(2012年フランスRCAが発売するオリジナル41作品リマスター・レプリカ復刻限定盤CD全集「The Ultimate Collection」に1971年と73年日本公演ライヴ盤が初CD化され日本語曲5作がボーナストラックで収録される。)1985年には、前年にパリのシルヴィ・ヴァルタン・ダンススタジオをプランタン銀座に開いたこともあり、コカ・コーラ・ライトのCMに出演、同年発売の全曲英語アルバム「ダブル・エクスポジャー」収録曲「ライトな関係」が流れた。1992年6月、前年1月のパリ・パレ・デ・スポール公演を持って来日し2週間の日本全国ツアー。新譜「バルタン気質」から「セ・ファタル」「ロンドンに雨が降る」、また流暢な日本語で長々と挨拶し「この歌を勇気と希望を失わずに戦い続けているブルガリアの人々のために歌いたいと思います」と締めくくり、ア・カペラでブルガリア・フォルクロール「Moya Goro」を披露した。この歌はパリ公演の前年1990年10月(東欧の共産体制が崩壊した翌年)のソフィア初公演で初めて歌っている。1995年6月には(2月のパリ公演後に)横浜フランス映画祭に主演作「L'Ange Noir(黒衣の天使)」(邦題:甘い媚薬)を持って団長として来日。2000年に入って2005年と2008年にパリ・パレ・デ・コングレ公演を持って東京公演、新譜「永遠にあなたのとりこ〜愛しのシルヴィ」「ヌーヴェル・ヴァーグ」を披露し渋谷Bunkamuraオーチャード・ホールは連日満員。新譜の他に2005年は1965年20歳の初来日で録音し放映されたレナウンのCM曲 「レナウン・ワンサカ娘」 をシャネル(ラガーフェルド)の白いワンピース・ドレス姿で初めてステージで披露した、このシーンはTV放映されている。(これは来日記念盤でもある2004年パリ公演DVD日本盤ボーナストラックだったことへの特別配慮と見える。)2008年には日本で1970年、1973年に大ヒットしたスタンダード曲、「悲しみの兵士」、「哀しみのシンフォニー」を約30年ぶりに披露。また日本到着日や翌朝にTV出演するなど精力的に活動。其々コンサート・プログラムが発行され、2005年の在仏ジャーナリスト・木立玲子の寄稿は哲学者ミッシェル・フーコーの言葉「プログレ・オン・ムーヴマン」の意外な連想で始まるがシルヴィ自叙伝(フランス2004年刊行のベストセラー)にまで触れながら分析、「一時代を印し、その存在自体が集団の記憶と化したアイドル歌手が、一人歩きしてしまった自分のイメージの罠に足をすくわれることなく新陳代謝し、前進し続けるのは容易な技ではない。しかしここに一人例外がいる。シルヴィ・バルタンである。歌手という職業を自分の手に取り戻す意志、客観性を備えていた。脱アイドル精神が、シルヴィ・バルタンというアイドルを時代を超えたアイドルに仕上げるという逆説。」また80年のフィガロ紙の記事を引用「彼女は、他人の視線を基準にして生きることの危険性をいち早く理解した」。2008年はフランス版プログラムの翻訳が一部載っていて47年のキャリア1961-2004年まで其々の年を振り返るシルヴィのコメントが記されている。2010年11月に2年ぶりに来日、在日フランス商工会議所の年次イヴェント・ガラ (GALA2010) に招待されてANAインターコンチネンタル・ホテルにて特別コンサートをする。フランス発売目前の最新ポップ・アルバム「Soleil Bleu(青い太陽)」から同名の新曲「Soleil Bleu」を作者の若きシンガー・ソングライターのジュリアン・ドレ (Julien Dore) とデュエット初披露した。2011年4月30日、パリ8区のクラシックコンサート・ホールのサル・ガヴォ () で開催された東日本大地震被災者支援チャリティー・コンサート「Tous en scène pour Japon」に出演。日本人演奏家も多く出演する中、65年日本でも大ヒットした「La plus belle pour aller danser(アイドルを探せ)」、「La Maritza(想い出のマリッヅア)」そして最新アルバム「Soleil Bleu(ブルーの太陽)」から「Sous ordonnance des étoiles(星の処方箋)」の全3曲を歌った。2013年2月7日から11日にビルボード・ライヴ東京・大阪公演。65年のTVCM曲「ワンサカ娘」も披露し全15曲。最新盤から「Sous ordonnance des étoiles」(デュエット曲)や「Mon enfance」などクラシック・シャンソンも4曲、アンコールはブレルの「Quand on a que l'amour(愛しかない時)」。「そこにシルヴィの強烈な個性が塗り込められ、ステージには、現在進行形の世界レベルの「歌」が立ち上がった。「流行」を消費せず、「文化」にまで高めるお国柄に脱帽。」「デュエット曲では、アルチュール H(アッシュ)の録音と共演。芸歴50年以上にして進化を続ける姿をみせつける。」2014年4月16日から19日に日本発売されたばかりの新譜「シルヴィ・イン・ナッシュビル」を持ってビルボード・ライヴ東京・大阪公演。ロックな新作から8曲と「Let it be me (Je t'appartiens)」(ジルベール・ベコー)含む全15曲にフィナーレはヒット曲4曲のメドレー。オープニングに2010年に仏TV番組のために1人娘ダリナ(当時12才)とデュエット収録した「La Maritza」(想い出のマリッヅア)の映像がスクリーン投影された。滞在中のラジオ・インタヴューで、これほど長い間現役で活動

出典:wikipedia

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