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桂きん枝

桂 きん枝(かつら きんし、1951年1月5日 - )は大阪市城東区出身の落語家。本名は立入 勉三(たちいり べんぞう)。所属事務所は吉本興業。上方落語協会会員(理事)。上方落語を聴く会会長(副会長は桂小枝)。現在は、大阪府豊中市在住。時期は未定だが桂派の由緒ある名跡で師匠の前名「4代目桂小文枝」の襲名が予定と報じられた。お笑いコンビ・バンビーノの藤田裕樹は、甥(姉の子)にあたる。成城工業高校卒業後にエレベーター会社に勤めるが退職し、1969年7月、桂小文枝(後の5代目桂文枝)に入門。一門では2番弟子となる。まもなく月亭八方らとともに大須演芸場で初舞台。往年の人気番組毎日放送「ヤングおー!おー!」では弟弟子の桂文珍、月亭八方、4代目林家小染と共に「ザ・パンダ」として活躍し、全国に名が知れる。兄弟子六代目文枝に次ぐ2番弟子で、要領の悪いところから「うっかり」と呼ばれ、最もかわいがられた愛弟子として知られる。芸名は苗字の立入から引っ掛けて「なんや〜。立入禁止みたいやな。」と小文枝がきん枝と命名。同期に間寛平らがいる。私生活でもトラブルを起こしてしまったこともある。1979年7月にはLSD疑惑、1981年11月には無免許運転(この事件を機に当時レギュラー出演していた『プロポーズ大作戦』(朝日放送)も降板している)、1983年8月には32歳のときには18歳未満の女子と夜間一緒に歩いていたところを警察官に見つかり任意同行・書類送検されるという事件(俗称「横浜ニャンニャン事件」。今でいう未成年交際疑惑)を起し、激怒した小文枝から破門宣告を受け、所属の吉本興業からも無期限謹慎処分を受けた。そのため、1年間落語家を辞め芸能界を休業、サラリーマン生活を余儀なくされる。当時、FRIDAYに千里丘〜山科を電車で通勤する姿が掲載された。実際は小文枝は破門するつもりはなく、「『しばらく謹慎させる』と言ったのが新聞に「破門」と書き立てられてしまった」と後に述べているが、他の落語家達からひんしゅくを買われる可能性があったこと、噺家としての立場から立義と信義と毅然たるものをきん枝に示さなければならなかったこと、吉本から圧力を掛けられることを恐れていたからやむを得ず「破門」の烙印を押さなければならなかったと思われる。1年後に破門が解け吉本に復帰し、芸能界にも復帰した。復帰の背景には、4代目林家小染が亡くなった時にきん枝が号泣しながら通夜に参列し、それを見た6代目笑福亭松鶴が小文枝に「多持(たもつ…小文枝の本名)。もうええやろ。戻したれ」と進言したことがあるといわれている。きん枝にとって松鶴は命の恩人である(きん枝が「ナンバ壱番館」にゲスト出演していた時に話していた)。復帰に際して吉本と小文枝は、芸名をきん枝から「自分に勝つ」という意味で勝枝(かつし)に改名させたが、1986年、吉本と小文枝の許可を得てきん枝に復名。2002年には大阪市立大学経済学部2部に社会人入試で合格し、入学。また2004年3月前年の阪神タイガース優勝時の公約により24歳年下の看護師と結婚。翌年第1子誕生。2001年に離婚した前妻の間に1男1女がいるが、一般人のため、公表されていない。現在は、主に関西のテレビ・ラジオなどで活躍や落語活動では天満天神繁昌亭での「きん枝のがっぷり寄席」を定期的に開催中。生前の文枝に「文吾」を襲名したいと申し出たことがある。2010年4月23日に「芸人でも政治家ができると思った」として民主党から第22回参議院議員通常選挙へ出馬すると発表した。今後の芸能活動について、吉本興業と結んでいたマネジメント契約を両者合意の上で一旦解除され、所属していた上方落語協会も退会した。しかし民主党の比例代表候補として出馬するも落選。同年10月29日の吉本のイベントにおいて復帰し、同日に吉本に復帰した。11月9日に上方落語協会に復帰。後に、笑点などでは、これらの顛末を「出入りきん枝!」とネタにされている。2016年6月22日、上方落語協会の副会長に就任し、外部公演と神戸繁昌亭の責任者の役割を担う。プロ野球、阪神タイガースのファンとして知られている。日頃よく甲子園球場に足を運んでタイガースの試合を観戦している。なお、幼少期は大阪球場を本拠としていた南海ホークスファンであった。

出典:wikipedia

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