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スピードシンボリ

スピードシンボリ(英:、1963年5月3日 - 1989年5月31日)とは日本の競走馬、種牡馬である。天皇賞(春)、宝塚記念、有馬記念(2回)に優勝し、1967年・1970年度には啓衆社賞年度代表馬および最優秀5歳以上牡馬に選出。当時の最高齢記録である8歳で八大競走を制するなど長く競走生活を務め、その晩年には「老雄」と呼ばれた。また、当時としてはめずらしいヨーロッパ(イギリス、フランス)への長期遠征を行い、同地の最高級競走であるキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスと凱旋門賞に日本の競走馬として初めて出走した。主戦騎手は野平祐二が務めた。1971年より種牡馬。牝駒スイートルナが繁殖牝馬として七冠馬シンボリルドルフを出した。1989年に死亡。1990年、顕彰馬に選出。※以下、馬齢は2000年以前に使用された旧表記(数え年)で統一して記述する。1963年、和田共弘が経営するシンボリ牧場新冠支場に生まれる。幼駒の頃は脚長で背が高いが細身の馬で、将来性を高く見る和田と牧場を訪れる買い手とで価格が折り合わずに売れ残り、そのまま和田の所有馬となった。和田は「からだのこなしや、スプリントの強さは非常に目に付いた」、「なにか、センダンは、双葉より……というようなものはありました。なんというのか、味のある馬でした」と述べている。また、のちに主戦騎手となる野平祐二によると、骨格はしっかりとしており良馬になるという予感はあったものの、腸が弱く常に下痢をし、性格的には他の馬に交わらない静かな馬だったという。野平は「ちょっと変わってはいましたが、ぼくはゴロンとした太い感じの馬より、こうした線の細い、しかし、内に秘めたパワーを感じる馬の方が好きでした」と述べている。ヨーロッパ競馬に関心が高かった和田は、「異なった場所と環境でミネラルを吸収させ、神経的な鍛錬もさせる」という、イギリスの競馬商社BBA会長から受けた指針を実行し、スピードシンボリの育成を北海道から千葉、次いで岩手と移す「三元育成」を行った。これは後にメジロアサマやシンボリルドルフなどにも施される育成法であったが、スピードシンボリがテストケースであった。1965年10月3日、中山競馬場で野平祐二を鞍上にデビューした。デビュー戦、2戦目は勝てず、津田昭に乗り替わった3戦めで初勝利を挙げた。以降、条件戦を2連勝。4歳初戦、重賞初挑戦の弥生賞は6着だったものの、メンバーが手薄だったことから急遽出走した京成杯で重賞初勝利を挙げ、クラシック候補に挙げられた。しかし、このあと体調を崩し、クラシック初戦の皐月賞では単勝5番人気に支持されるもニホンピローエースの21着と大敗。東京優駿(日本ダービー)では28頭立ての27番人気とまったくの不人気で、後方から追い込むもテイトオーの8着と敗れた。レースを使うごとに馬体が細化し、日本ダービーでは京成杯優勝時から14kg減の436kgであった。次に出走した日本短波賞でも6着と敗れ、これをもっていったん休養に入った。野平は、ダービーに拘り無理な出走をさせたことが失敗であったと述べている。夏を休養に充てたのち、秋は京王杯オータムハンデキャップで2着(これ以降、主戦騎手が野平で固定)、続くセントライト記念で3着となり、クラシック最後の一冠・菊花賞に臨む。13番人気と低評価ながら最後の直線で猛然と追い込み、先に抜け出した1番人気のナスノコトブキと馬体をあわせて際どい勝負に持ち込んだ。しかし10数分に及んだ写真判定の末、ハナ差の2着となりクラシック制覇はならなかった。年末の有馬記念でも6番人気ながら、2着カブトシローにハナ差の3着に入り(優勝馬コレヒデ)、4歳シーズンを終えた。翌1967年は本格化を迎え、年明け初戦のアメリカジョッキークラブカップ、続く目黒記念と連勝。迎えた春の天皇賞では単勝オッズ1.8倍の1番人気の支持を受けると、レースも内埒沿いで粘ったカブトシローをアタマ差交わして優勝し、八大競走初制覇を果たした。なお、この競走で3番人気に推されていたナスノコトブキが骨折し、それが原因となって5月に死亡している。続く日本経済賞では逃げ馬と終始並ぶ形でレースを進め、直線で後続を突き放すという内容で4連勝を果たす。この時点で和田はスピードシンボリの海外遠征を企図しており、野平に「最初から最後まで前々で行ってみないか。外国競馬では、みんな飛ばしていくだろう」と注文を付けていた。その後アメリカの国際招待競走ワシントンD.C.インターナショナルの招待馬に選出され、9月24日に中山競馬場で壮行披露がされたのち渡米。11月11日にレースに臨んだ。6連勝中の米二冠馬ダマスカス、アイリッシュダービーなどの優勝馬リボッコ(イギリス)らが揃う中、当日は単勝オッズ21倍で9頭立ての最低人気だった。レースでは2番手追走から、1000m付近通過後にフォートマーシー、ダマスカスに交わされたあと最後の直線で失速し、勝ったフォートマーシーから8馬身1/4差の5着となった。なお、ワシントンD.C.インターナショナルには1962年にタカマガハラが日本から初出走して以来、1980年のハシクランツまで延べ8頭の日本馬が9回出走したが、スピードシンボリの成績は着順・着差いずれも最上位であり、特に着差ではスピードシンボリ以外には10馬身はおろか20馬身以内の差に止められた馬さえいなかった。帰国後は1カ月あまりの休養を挿んで有馬記念に出走したが、遠征の疲れが残りカブトシローの4着と敗れた。当年、年度代表馬と最優秀5歳以上牡馬に初選出されたが、年が明けた1968年も低迷し、春は重賞を3戦するもことごとく着外(4着以下)に敗れ、競走馬としてピークを過ぎたともいわれた。9月に復帰後は復調を見せ、オープン競走2戦とアルゼンチンジョッキークラブカップに勝利したが、3年連続出走となった有馬記念ではリュウズキの3着と敗れた。1969年の初戦、アメリカジョッキークラブカップでは菊花賞優勝馬アサカオーの3着に敗れるが、続く目黒記念、ダイヤモンドステークスを連勝。アルゼンチンジョッキークラブカップではメジロタイヨウにハナ差及ばなかったものの、陣営は夏から秋にかけてのヨーロッパ遠征を決定した。招待であったワシントンD.C.インターナショナルとは異なり、和田の意志で赴く今回の遠征は、渡航・滞在費用のほとんどが和田の負担となった。ホテルニューオータニで行われた会見において和田は「毎年、巨額の金を使ってサラブレッドの種馬を輸入しているのに、日本だけで競馬をやっているだけでは残念だ。国際性の高い競馬をしたいと思っていたところ、幸いにもスピードシンボリの調子がいいので、ヨーロッパへやることにしました」と遠征の理由を語った。スピードシンボリはまずイギリスに渡り、サフォーク州ニューマーケットのジョン・ウィンター厩舎に入った。目標のキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスには前哨戦を一度走ってから臨む予定となっていたが、当年イギリスで流行していた流感に罹ったため調整が狂い、直接の出走となった。レースでは2番手から後半で押し出されるように先頭に立ったが、直後に後続に交わされ牝馬パークトップの5着となった。フランスに移動してのドーヴィル大賞では逃げを打ったがジャカオの10着、最大目標としていた凱旋門賞では初めて後方待機策を取り、直線で10頭ほどを交わしたが、24頭中11着以下の成績と、優勝はならなかった。帰国後は有馬記念出走を予定していたが、長期遠征による衰弱が著しく、ここでいったんは引退も検討された。しかし放牧に出された先で精気を取り戻し、現役続行が決定。当初の予定通り有馬記念に出走した。当日は遠征疲れが危惧されて6番人気と低い評価だった。レースでは中団後方から第3-4コーナーで先団に進出、直線では当年の菊花賞優勝馬アカネテンリュウとの競り合いをハナ差制し、4度目の挑戦にして初の有馬記念優勝を果たした。この競走を最後に引退と目されていたが、競走後の会見で和田から翌8歳シーズンも現役を続行することが表明された。当時、日本中央競馬会が国際招待競走の開催を計画しており、その競走へ出走させることを見越したものだった。なお、この競走は当年決定した競走馬の輸入自由化に国内の生産者から反発が出たことに配慮し、開催が見送られた。スピードシンボリは年明け初戦のアメリカジョッキークラブカップを日本レコードタイムで勝利。続くアルゼンチンジョッキークラブカップ2着を経て、春のグランプリ宝塚記念に出走し、レコードタイムで優勝した。しかし、以後は日本経済賞3着、休養を経た秋初戦の毎日王冠で2着、不良馬場で行われたハリウッドターフクラブ賞は7着と、野平曰く「当然勝てると思っていたライバルたちの後塵を拝し」続け、年齢による限界論が再び出始めた。国際競走も立ち消えとなったことから、陣営は史上初の5年連続出走となる有馬記念のみを目標とした調整に努めていった。12月20日の有馬記念当日は、前年ハナ差で退けたアカネテンリュウが1番人気、スピードシンボリは当年の天皇賞(秋)優勝馬メジロアサマに次ぐ3番人気であった。野平は遠征以来スピードシンボリが力んで走るようになったと感じ、先行させるよりも「スピードシンボリの引退を飾るにふさわしい、後方からの差し切り勝ち」を構想した。道中は後方を進み第3コーナーから進出を開始したが、ここで他馬が避けていた馬場内側の荒れたスペースを見て「大外を回るよりも内を突いた方が良い」と考えて咄嗟に鞭を入れ、一気に先団に進出、直線入り口で先頭を行くアローエクスプレスを交わして先頭に立った。最後の直線では荒れ馬場に脚を取られて失速しかけたが、そこから盛り返してアカネテンリュウとダテテンリュウの猛追を凌ぎ、1着で入線。史上初の有馬記念連覇を達成した。8歳馬による八大競走制覇も史上初であり、同齢でGI級競走に優勝する馬は、1998年に天皇賞(秋)で優勝したオフサイドトラップまで28年間現れなかった。野平は後に自分の騎乗が失敗だったとした上で、「それでも勝ってしまうところに、スピードシンボリのすごさがあるのでしょう。そういう馬に巡り会ったことは、本当に幸せでした」と語っている。これを最後に競走生活から引退。翌1月には1967年以来3年ぶりの年度代表馬と最優秀5歳以上牡馬に選ばれた。年度代表馬を隔年で2回受けた馬は当馬とジェンティルドンナ(2012年・2014年)のみである。また重賞通算12勝は、オグリキャップ、テイエムオペラオーと並ぶ中央競馬最多記録。また、有馬記念の5年連続出走は、のちにコスモバルクが6年連続出走を記録するまで、メジロファントム・ナイスネイチャと並ぶ最多記録だった。1971年より千葉県のシンボリ牧場本場で種牡馬となったが、1977年に牧場近くで新規開港した成田空港の騒音を避けるため北海道の門別支場に移った。産駒の重賞勝利馬はピュアーシンボリ(ステイヤーズステークス2回、ダイヤモンドステークス)のみで後継種牡馬にも恵まれなかったが、牝駒のスイートルナが七冠馬シンボリルドルフ、スイートアースが人気馬マティリアルらを産み、母の父としてその名を残している。1989年5月31日、老衰により26歳で死亡し、火葬の後シンボリ牧場本場に墓が建てられた。翌1990年、1984年以来第2回目となる顕彰馬選考が行われ、メイヂヒカリ、テンポイントなど4頭とともにJRA顕彰馬に選出され殿堂入りした。胴長・脚長という典型的なステイヤーの体型を持ち、もっとも得意としたのも長距離競走であった。とくに競り合っての勝負に強く、主戦騎手を務めた野平は、その真骨頂は「我慢強さ」であると方々で語っており、「スーちゃんはパーフェクトではなかったけど、我慢して頑張ることでは本当に頭が下がるほどでした。負けたと思われたレースでも、その我慢強さのお蔭で勝ってしまったということがよくありました」と回想し、「僕が騎乗した最初で最後の名馬」と評している。また、戦前から競馬記者を務めていた石崎欽一は「スピード、スタミナ、スピリット、それにタフネスを備えた一代の名ステイヤーだった」と賞している。野平によれば、スピードシンボリはゴール後にレースを走らされた事への不平不満を訴えるように、涙を流しながら大声で鳴く習慣があり、その様子を見せた時ほどよく走り、逆に楽なレースをした時は振るわなかったという。客観的には、43戦17勝うち着外(4着以下)が16回という成績は、勝率・連対率においてほかの顕彰馬と比較した場合凡庸なものであり、競馬評論家の大川慶次郎は自著のなかで「他の顕彰馬と比べて酷い成績」と断じている。しかし一方で、8歳シーズンいっぱいを走り、ピークを過ぎたと思われた引退レースにも優勝、有馬記念5年連続出走、重賞通算12勝、最高齢GI級競走勝利などの記録を作ったスピードシンボリは「無事是名馬の典型として顕彰馬となった」(大川慶次郎)と評価されている。また、長期の海外遠征はもともと海外志向の強かった野平にとっては大きな糧となり、野平はその敗戦を通して「日本には何が足りないのか」「強い馬とはどういうことか」と自問したと述べている。このときの経験が、国際的視野に立脚した野平独特の競馬観に大きく影響した。日本中央競馬会の広報誌『優駿』が2000年に行った「著名人ファンの21世紀に伝えたい私のこの一頭」という企画では、作家の浅田次郎と競馬実況アナウンサーの長岡一也がスピードシンボリの名を挙げ、浅田は「凱旋門賞に出走し、日本の競馬を海外に知らしめた同馬の功績は偉大である。かのスピードシンボリ号がいたればこそ、エルコンドルパサーもあるのだという歴史を、若いファンにはぜひ知ってほしいものである。また同馬は有馬記念の連覇等、国内のレースにおいても時代を代表する名馬であり、種牡馬となることを急ぐよりも一頭の競走馬としての使命を全うした。ファンとしては感謝にたえぬ名馬であった。銅像を建てるべし」と述べ、長岡は「8歳で有馬記念を二連覇したときの感動、世界を夢見て5歳秋にアメリカ・ローレル、7歳春からはアスコット、ロンシャンのターフを駆けた蹄跡は、先駆者として語り継ぐべき事柄だろう」などと述べた。同年に競馬会が行った名馬選定企画「20世紀の名馬大投票」では、ファン投票によって第33位に選出された。競走馬時代、「スピードシンボリが2歳下の牝馬ハクセツに恋をしている」という噂話がマスコミを賑わせたことがあった。ハクセツは「白い美少女」とも呼ばれた芦毛馬で、のちにシンボリルドルフの手綱を執る岡部幸雄の重賞初勝利馬である。毎日王冠出走後に野平が「スピードシンボリはハクセツにほれている。返し馬でハクセツにばかり気をとられていた」とハクセツの馬主である3代目中村勝五郎に伝えると、中村は「日本一のシンボリなら、もっといい馬にほれたらいいじゃないか」と冷やかしたという。母はイギリスからの持込馬で、競走馬時代は10戦2勝。ハイペリオンの2×3という強度の近親交配で生まれていたため、比較的異系の血統であるロイヤルチャレンヂャーがその交配相手に選ばれた(しかし、ハイペリオンの父ゲインズバラはさらに近親交配されている)。父はイギリスで競走生活を送り10戦4勝。2歳時にミドルパークステークスに優勝している。甥に1975年の朝日杯3歳ステークス優勝馬ボールドシンボリ、1991年秋の中山大障害優勝馬シンボリモントルーがいる。ほか、従妹ダーリングフィリーの産駒に1994年の帝王賞優勝馬スタビライザー、4代母 Glenabatrickの産駒にアスコットゴールドカップ、グッドウッドカップなどを制したTiberiusがいる。

出典:wikipedia

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