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グアダルーペの聖母 (メキシコ)

グアダルーペの聖母(グアダルーペのせいぼ。、)とは、1531年12月8日に現在のメキシコシティでカトリック教会に改宗したアメリカ大陸原住民族・のもとに起こった聖母の出現である。なお、この聖母が出現したとされる場所には、聖母がフアン・ディエゴに伝言したとされる大聖堂が建設されている。この出現は、カトリック教会公認の聖母出現の一つであり、メキシコで最も敬愛されている宗教的シンボルであるメキシコ・グアダルーペに住むフアン・ディエゴは、1531年12月9日に聖母の出現を受けたとカトリック教会のメキシコ司教に報告した。グアダルーペはメキシコ・シティの近くにある小さな町であり、被顕現者フアン・ディエゴ(当時57歳)はこの地の先住民で、妻を亡くし、カトリック教会に改宗していた。この日の朝にディエゴはミサに出席しようとして教会に向かう途中、テペヤクと呼ばれる丘で、鳥たちがさえずるような美しい音楽を聴いた。輝くような雲が見え、その中に若いネィティブ・アメリカンの乙女が立っていた。この婦人はアズテック(Aztec)族の王女のような服装をしていた。婦人は太陽に似た輝くボール状の輝光に包まれ、ディエゴが普段使う言語で話しかけた。そして自分自身が聖母であることを伝え、次のように話した。ディエゴはテノチティトランに行ったことがなかったにもかかわらず、聖母の求めに応じ、メキシコ司教のフレイ・フアン・デ・スマラガ( Fray Juan de Zumarraga )の元に行って、ことの次第を伝えた。司教の従者たちはディエゴを警戒したが、司教はディエゴに面会し、聖母の求めを考慮すること。またディエゴが司教に会いたいのなら、また会いに来ても良いことをディエゴに伝えた。ディエゴは司教の対応に失望し、自分自身が司教に重要なことを伝える立場の人物ではないと感じた。ディエゴは聖母の出現を受けた丘に戻ると、聖母がディエゴを待っていることに気づいた。そしてディエゴはこの聖母の伝言を伝える役目は自分ではなく他の者を行かせてほしいと頼んだ。すると聖母はディエゴに答えた。そして聖母はディエゴに次の日、司教のもとに戻り、聖母の願いを繰り返すように伝えた。その日曜日、数時間待たされた後にディエゴは司教に会うことができた。司教は聖母の話を再び聞くと、「出現した聖母」に対してあなたが確かに「聖母マリア」であることを証明して欲しい、と頼むようにとディエゴに伝えた。ディエゴは律儀に丘に戻ると、そこに聖母が待っていたので、司教の言葉を伝えると、聖母は次のように答えた。不幸なことに、ディエゴは次の日、テペヤクの丘に戻ることができなかった。ディエゴのおじが命にかかわる重病にかかりディエゴは看護のためにおじのそばについていたからである。その二日後におじは瀕死の状態となった。ディエゴは司祭を探しに行き、その途中で聖母が出現した丘を通り過ぎた。すると聖母がディエゴを待っており、次のように話した。丘の頂上は凍っていたが、ディエゴは聖母の指示に従い、頂上に行くとカスティリャの薔薇(Castilian roses)が満開であるのを見つけた。ディエゴは薔薇の花を採ると自分のマントに包み、聖母のもとに持って行った。聖母はその花を束ねなおし、ディエゴに言った。ディエゴは再び司教とその助言者たちの元に行った。ディエゴはマントに包んでいた薔薇をマントから取り出し、司教たちに渡した。その薔薇は花が枯れることもなく、花びらが司教たちの膝に舞うほどだった。さらに、薔薇の花を包んでいたディエゴのマントには、聖母の姿が描かれていた。描かれた姿はディエゴが司教に話した通りだった。次の日、マントを司教に見せた後に、ディエゴは聖母と最初に出会った場所に司教を連れて行った。ディエゴは自分の村に戻るとおじが元気な姿で出迎えた。そして、叔父はディエゴに、若い女性に会って自分をやさしい光で包んだこと、そして、その女性は、甥であるディエゴをたった今、テノチティトランに行かせたところで、自分自身の絵を持たせたと話したことを伝えた。さらにその女性はおじにこう伝えた。「グアダルーペ」という言葉は、実際、アズテク地方の方言をスペイン語に翻訳する際に間違ったものだとされている。聖母が伝えたのは、おそらく、蛇を踏む者という意味の「コートルロープ」(Coatllope)だとされる。この聖母出現が起こった6年のうち、6百万人のアズテク族がカトリックに改宗した。ディエゴのマントは聖母マリアが御子を産んだことを示すものとされた。ディエゴのマントはその上に聖母のイメージが描かれたことから、そのマントは蝋燭や香の煙などで祝福される存在となった。フアン・ディエゴは2002年にローマ教皇ヨハネ・パウロ2世により列聖された。また、彼が聖母を見たメキシコ市近郊の(テペヤックとも)の丘には巨大な()が建てられた1537年、ローマ教皇パウルス3世は、インディオは理性ある人間として扱われるべきという回勅を発し、植民地におけるインディオへの迫害を禁じたカトリック教会は、グアダルーペの聖母への信仰が、キリスト教が入る以前のアステカの女神、と関連したものだと考えた。聖母が出現した丘とは、もともとトナンツィン女神の信仰の中心地であった。しかし教会は、インディオ達がキリスト教を受け入れやすくするために、このように古来の宗教がキリスト教と共存することをある程度許容した。16世紀末頃から17世紀の初めには、聖母によって重病人が回復する奇蹟がたびたび起こり、聖母への信仰はどんどん強まっていった。そして17世紀には、この「褐色の肌の聖母」はあらゆる階層の人々の信仰を集めていった。聖母はメキシコの民族主義の象徴ともなっており、メキシコ独立革命の指導者ミゲル・イダルゴの蜂起の宣言(ドロレスの叫び)では「聖母万歳」と唱えられている。メキシコ革命の指導者の一人、エミリアーノ・サパタの軍隊は聖母の像を帽子につけていた。近年の調査では、マントの聖母像の瞳部分にはディエゴとおぼしき人物が写っていると主張する人がいる。

出典:wikipedia

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