水原 弘(みずはら ひろし、1935年(昭和10年)11月1日 - 1978年(昭和53年)7月5日)は、日本の歌手・俳優。愛称は「おミズ」。東京府東京市深川区(現在の東京都江東区)出身。東京都立赤坂高等学校商業科卒業。マナセプロダクションに在籍していたが、一時期、渡辺プロダクションに所属。井上ひろし、かまやつひろしとのトリオで「三人ひろし」と呼ばれていた(ただし水原の持ち味は当時の「ロカビリー・アイドル」としては全く異質であったため、後に守屋浩と交代する)。特に水原弘は20代の女性たちに多大な男の色気を持つ歌唱法で人気があった。その歌唱力は誰もが認める、日本を代表する男性歌手だった。しかし水原自身寂しさのあまり毎日酒を大量に飲み続けていた事や、ほか豪放磊落で男気あふれる生き方や性格が周囲には誤解を招く事も多かった。村松友視がその生涯をまとめた評伝を書き下ろしている(『黒い花びら』村松友視、河出書房新社、2005年)。東京都立赤坂高等学校2年の時に、文化放送主催の『素人ジャズ喉自慢』に優勝。その後活動していたジャズ喫茶で渡邊美佐にスカウトされ、芸能界入り。1957年(昭和32年)ダニー飯田とパラダイス・キングに初代ヴォーカルとして参加するが、翌年には脱退。昭和33年水原弘とブルーソックスを結成。メンバーには森山加代子・ジェリー藤尾・ペドロ梅村がいた。1959年(昭和34年)、「黒い花びら」(作詞:永六輔・作曲:中村八大)でレコード・デビュー。夏木陽介主演の東宝映画『青春を賭けろ』に歌手役で出演。「黒い花びら」は発売初年に30万枚、総合計57万枚という当時としては大ヒット作となった。ちなみに最初のマネージャーは渡邊美佐の妹、曲直瀬信子だった。またこの年から始まった第1回日本レコード大賞を「黒い花びら」で受賞。また第10回NHK紅白歌合戦に初出場。その後も3年連続で紅白に出場を果たし、独特の甘い“低音”で一世を風靡した。そして20代の女性たちに多大な人気があった。独特の目線の送り方やマイクパフォーマンスとなんと言ってもこの当時では珍しいウィンク。今風の格好や昭和を思わせない今風の歌唱法など、男の色気と独特の雰囲気で歌う姿が印象的だった。1960年代前半ごろより各社の映画作品への出演が増え、現代劇作品の主役も演じていて有名俳優から高い評価を得ている。時代劇作品の準主役級の役を器用にこなし、多くの人気俳優と共演。作品「皆殺しの歌、拳銃よさらば」で主役を演じた際には、仲代達矢に「この主役の演技ができるのは水原弘だけだ。」と褒められたというエピソードが残っている。この頃から取り巻きを引き連れて夜の街を豪遊し、「業界屈指の酒豪」と呼ばれるようになった。「水代わりにレミーマルタン」との逸話が残るほど、日常的な酒浸りや莫大な金額のギャンブルに加えて、所謂高利貸しや闇金融からの多額の借金を抱え、不遇な時代を送る。またその後、デビュー直後から水原を支え長く婚約状態だった女性が居たが、結局結婚には至らず離別している。1965年3月10日、警視庁による「錦政会」(のちの稲川会の前身となった組織)に対する第一次頂上作戦が行われ、横浜市港北区綱島の温泉旅館「石水亭」が捜索を受ける。旅館経営者や賭博開帳関係者が逮捕される中、前年5月に行われた花札賭博に水原が関与、50万円を巻き上げられた事が発覚。事情聴取を受ける事態となる。この事で事実上の芸能界追放となり、ここから2年間は表舞台から遠ざかる一方で、借金返済に苦しめられる日々となる。1967年(昭和42年)、この当時マネージャーを務めた長良じゅんの奔走などにより、2月、佳川ヨコとの競作で「君こそわが命」(作詞:川内康範・作曲:猪俣公章)をリリース。その歌唱力と売り上げで佳川を圧倒し大ヒット。“奇跡のカムバック”と称され、第9回日本レコード大賞歌唱賞を受賞。第18回NHK紅白歌合戦へ5年ぶり・4回目の出場を果たす。その後も活躍は続けていたものの、相変わらず酒に溺れる日々は続いた為、病気がちとなっていった。1970年(昭和45年)、アース製薬のエアゾール式殺虫剤『ハイアース』のテレビCMに由美かおるとともに出演。水原を起用した同商品のホーロー看板も造られ、全国津々浦々に設置された。カムバックから3年が経過したこの時期、再び放蕩三昧の生活に舞い戻る。膨れ上がる借金で取立人に追われながら、クラブ、キャバレーの地方営業や様々な仕事を昼夜を問わず、休む間もなくこなさざるを得なくなった。このCM出演も、その最中で起用されたものであった。1973年(昭和48年)、第24回NHK紅白歌合戦に通算10回目の出場を果たす。1971年の第22回同様「トリ前」を務め、代表曲「君こそわが命」(紅白では通算3回目)を歌唱したが、これが水原自身生涯最後の紅白出演となった。1977年(昭和52年)1月12日、巡業先の金沢市で体調不良を訴え緊急入院。すでにアルコール依存症からくる影響で肝臓は正常に機能しなくなっており、黄疸や腹水の症状も起こしていた。新宿の朝日生命成人病研究所附属病院に2月末まで入院加療し、一旦退院するが同年6月末まで自宅静養に専念する。同年7月から仕事に復帰したものの、アルコール性の急性肝炎から慢性肝炎に移行、肝硬変を発症しており、度々極度の貧血などの症状で倒れるなど、もはや極めて深刻な状況を迎えていた。しかし、かつて1億数千万とも言われた莫大な借金返済のため、水原は満身創痍で「馬車馬のように」全国を営業し続け、酒も手放すことはなかった。この最晩年期、服用していた薬の副作用で顔に吹き出物が目立つようになり、それを隠すように口髭をたくわえ始めていた。1978年(昭和53年)6月24日未明、北九州市小倉北区の宿泊先「ホテルニュー田川(現・ホテルニュータガワ)」の客室トイレで大量に吐血し、瀕死の状態だった処をホテルで食事をとっていて遅れたマネージャー美山淳に発見される。同市戸畑区の健和総合病院に救急搬送されるも、既に血液の1/3が失われていた。その後一時は意識が回復し、マネージャーに「馬鹿野郎、俺は死なねーよ」と小康状態を見せるが、内臓のあちこちから出血がみられ、実質的には手がつけられない状況だった。それでも彼は歌への道を諦めず、再度奇跡の復活を目指していたという。だが水原の願いは届かないまま、再び意識不明の重体に陥り、吐血から11日後の同年7月5日未明に同院で、肝硬変の重症化による食道静脈瘤破裂のため、42歳という短い生涯を閉じた。残った借金は当時の額で9000万円とも言われる。1999年(平成11年)、「大衆音楽の殿堂」(財団法人古賀政男音楽文化振興財団運営)顕彰歌手に選ばれた。「 」内は作品タイトルで、発売順時系列で列挙。次に、発売年月日。1968年のオリコンチャート発足後についてはシングル週間チャート最高位(100位圏内)をその右側に付記。(注意点)1973年(昭和48年)の年明け頃から、暴力団追放運動が盛んになり、美空ひばりが実弟の不祥事発覚や、デビュー以来の山口組及び三代目組長・田岡一雄との公私にわたる長年の親密な関わりが問題視されたことをきっかけに、全国の公会堂や市民会館での公演をボイコットされていた時、水原は演劇プロデューサーの黒田耕司から名古屋御園座での4月公演「美空ひばり特別公演」の芝居「かすりの女」への出演を依頼された。「歌手でありながら自分は歌わず、芝居でのひばりの相手役だけの出演」という依頼であったにも関わらず、水原は「お嬢(美空ひばり)が困っているんだ。本当の友ならこういう時に助けてあげるのが筋だろう」と、これを快諾。水原の男気にはひばり本人を始め、舞台関係者も感激したという。※一部に戦前の同名異人俳優の出演作品が記載されている。
出典:wikipedia
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