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川久保玲

川久保 玲(かわくぼ れい、1942年10月11日 - )は、日本のファッションデザイナーで、ファッションブランド「コムデギャルソン」の創始者。株式会社コムデギャルソンの創業者にして設立から現在に至るまで代表取締役社長を務めるオーナーデザイナー。1942年、10月11日、東京に生まれる。1960年、17歳〜18歳。慶應義塾大学文学部哲学科入学。1964年、21歳〜22歳。同校卒業後、旭化成入社。宣伝部に配属。1967年、24歳〜25歳。同社を退職し、フリーランスのスタイリストとなる。1968年、25歳〜26歳。広告写真撮影の仕事で必要な洋服(スタイリストとして川久保がイメージした)がどうしても見つからなかったため、仕方なく自分自身の手で洋服を作る。以来ケースバイケースで服作りを始め、スタイリストからデザイナー・パタンナー・縫製・仕上げまで自分自身で手掛けるようになる。1969年、26歳。コムデギャルソンのブランド名で、婦人服の製造・販売を始める。コムデギャルソン(仏語“Comme des Garçons”)は、一般的には「少年のように」と直訳・短訳されるが、実質的な意味は「少年の持つ冒険心」 (Avoir un sens de l'aventure comme des garçons,)である。1973年、30歳、株式会社コムデギャルソンを設立。1975年、32歳。コム デ ギャルソン初のショーを東京で開催。コム デ ギャルソン青山店オープン(表参道フロムファースト)。1978年、メンズライン「コム デ ギャルソン オム」(COMME des GARÇONS HOMME)立ち上げ。1981年、38歳〜39歳。フランス・パリでコム デ ギャルソン初のミニショーを開催。「ローブ ド シャンブル コム デ ギャルソン」(robe de chambre Comme des Garçons)立ち上げ。パリ・コレクション初参加。「トリコ コム デ ギャルソン」(tricot COMME des GARÇONS)立ち上げ。1982年、39歳。仏パリに「Comme des Garçons S.A.S」社設立。パリにコムデギャルソンのショップを開店。パリ・コレで穴あき黒服(Hole Sweater)発表。40歳不惑を迎える。1983年、41歳。「コムデギャルソンファニチャー」(家具)を立ち上げ。米ニューヨークにコムデギャルソンのショップを開店。第1回毎日新聞ファッション大賞受賞する。1984年、「コムデギャルソン オム プリュス」(COMME des GARÇONS HOMME PLUS)を立ち上げ。仏パリで本格的な最初のショーを開催。1986年、米ニューヨークに「Comme des Garçons S.A.S」社設立。仏パリでコムデギャルソン写真展「MODE et PHOTO」開催。1987年、45歳。「コムデギャルソン オム ドゥ」(COMME des GARÇONS HOMME DEUX)立ち上げ。「コムデギャルソン ノアール」(COMME des GARÇONS noir)立ち上げ。1988年、コムデギャルソンのブランド誌『Six sense』立ち上げ。「コムデギャルソン シャツ」(COMME des GARÇONS SHIRT)立ち上げ(仏「Comme des Garçons S.A.S」)。1991年、ヨウジヤマモトと合同でメンズコレクション展「6.1 THE MEN」開催(明治神宮水泳場)。1992年、49歳〜50歳。フランス芸術文化勲章(シュバリエ)。イギリス人Adrian Joffe氏と結婚。「ジュンヤワタナベ・コムデギャルソン」(COMME des GARÇONS JUNYA WATANABE)立ち上げ。1993年、「コム デ ギャルソン コム デ ギャルソン」("Comme des Garçons Comme des Garçons")立ち上げ(Comme des Garçons S.A.S)。仏パリに「コムデギャルソン パルファム」(COMME des GARÇONS PARFUMS)(香水)を立ち上げ。1997年、54歳〜55歳。パリコレでコブドレス発表。英国王立芸術大学名誉博士号授与される。1999年、コムデギャルソン丸の内店をオープン。2001年、58歳。「コムデギャルソン ジュンヤ ワタナベ マン」(COMME des GARÇONS JUNYA WATANABE MAN)立ち上げ。芸術選奨文部科学大臣賞を受賞。2002年、59歳、1月12日(土)NHKのドキュメンタリー「世界は彼女の何を評価したのか〜ファッションデザイナー川久保玲の挑戦〜」放映。2002年、59歳〜60歳。「プレイ コムデギャルソン」(PLAY COMME des GARÇONS)立ち上げ。2003年、60歳、朝日賞受賞(朝日新聞社)。2004年、61歳、フランス国家功労章受賞。2004年、61歳〜62歳。英ロンドンに(DOVER STREET MARKET COMME des GARÇONS)オープン。2005年、「タオ コムデギャルソン」(tao COMME des GARÇONS)を立ち上げ。「スピード コムデギャルソン」立ち上げ。「アイ コムデギャルソン ジュンヤ ワタナベ マン」(eYe COMME des GARÇONS JUNYA WATANABE MAN)立ち上げ。2006年、「コムデギャルソン パール」(ジュエリー)を立ち上げ。また当年から英国・スピード社と業務提携し、高速水着「レーザー・レーサー」の五輪公式デザインを手掛ける。2007年、65歳。「ポケット コムデギャルソン」立ち上げ。「ガンリュウ」(GANRYU)立ち上げ。2008年、「ブラック コムデギャルソン」(BLACK COMME des GARÇONS)立ち上げ。2009年、「ザ ビートルズ コムデギャルソン」(The Beatles COMME des GARCONS)立ち上げ。2012年、69歳、東京銀座に「ドーバーストリートマーケット ギンザ コムデギャルソン」(DOVER STREET MARKET GINZA COMME des GARÇONS)オープン。2012年、69歳、ファッション界のオスカー賞と称される、米「CFDA(Council of Fashion Designers of America)ファッション アワード(国際賞)」を受賞。2013年、70歳、2月、エルメスとコムデギャルソンのコラボレーションで、「Comme des Carrés」(コム デ カレ)コレクション発表。2016年、73歳〜74歳(10月)。"Avoir un sens de l'aventure comme des garçons," 少年の持つ冒険心 "forever and ever!"※他に立ち上げ年不詳で、財布類のブランド「ウォレット コムデギャルソン」(Wallet COMME des GARÇONS)もある。川久保玲は、マスコミからの取材に滅多に対応しないため、実像の多くが謎に包まれているが、数少ないインタビュー記事に見受けられる語録は以下のとおり。<2009年><2008年><1992年>彼女が"COMME des GARÇONS"-仏語で「少年のように」というブランドを立ち上げたのは41年前(注2011年現在)。川久保玲は常に彼女独自のルールを貫いてきた。旧態依然の美の基準に挑戦することに魅了されてきた彼女は、ジャケットの左半分に別のジャケットの右半分を縫いつけたものと、彼女が所有するヴィンテージスカーフから造られたアシンメトリー(非対称)なドレスを複合した、全く新しい服を再構築した。これらは最新の彼女のショーに見られるものである。このことは単に着る物を造り出しているのでなく、むしろ思想の表現である。(出典:2011年8月25日付ウォールストリートジャーナルインタビュー)。Cathy Horyn(NY TIMES記者)は、川久保玲のこれまでの作品を調べた上で、彼女のデザイン手法の源泉について質問をしました。その後Eメールで川久保玲から回答が返ってきました。Cathy Horynは、メールを受け取って以下の結論を出しました。「川久保玲のデザインの源泉は、自分達記者があれこれ書くよりも、Eメールの川久保玲の言葉をそのまま記載したほうがいいことを悟ったので、以下に原文のまま記します」……(川久保玲のメール原文記載)……『私のデザインプロセスは、始まりもなければ終わりもないです。いつも生活の中の些細なことから何かを得ることを望んでいます。私はデスクワークをしませんし、コレクションのためにスタートを切るというポイントをつくりません。これは決してムードボードがあるわけではないし、生地の見本も見ない、スケッチもしない、閃く瞬間もない…何か新しいものを探すのに終わりはないのです。普通の生活をする中で、私は「考えること」のクリック、スタートのきっかけを望みます。そして次の段階として、全く無関係なものがイメージとして発生します。さらに次の段階、恐らく3番目の無関係な要素がどこからともなくイメージとして来るんだと思うんです。多くの場合、各コレクションでは3粒、あるいはもっと多くの種子が偶然に形成され、最後のプロダクトとして発芽します。しかし、それは私にとって永久に終わることない作業です。だから、明らかなことは、自分は仕事をしているということを考えた瞬間は一度もありません。というのは、一瞬でも作品が完成した、終わった、と思ってしまったら次のことができなくなるからです。(川久保玲のクリエーションは)しばしば、要素どうしは「時間」と「次元」で完全に分離されます。①情動 ②パターン ③どこかで見たことがある写真・絵。この3つの種子が、いつのもので、どこから来たのか、どうして一緒になったのかは私にもわかりません。ただ、自分のシナジーと変化を信頼します。例えば、2012年-2013年 A/W パリコレでは、自分の考えとして「デザインしないことがデザイン」だと思っていたのです。それは普通の生地で行うのが強く表現できる。何とかして、これで自分の思考の二次元のレベルは明白になりました。皆に受け入れられる、分かりやすすぎるコレクションでは、私は幸せにはなりません。私にとって、ホワイトドラマ(2012年S/S)はあまりに理解しやすいもので、コンセプトがはっきりしすぎていた。だから、私は2012年-2013年 A/Wのほうが良いと思っています。なぜなら分かりやすくないからです…例えば(レビューされている)インターネットの時代とか。全く関係のない仮定を立てられていることも良いのです。新しいものを見つける努力は、時間と経験でますます困難になっていくのです。したがって、2012年-2013年 A/Wは、自分の感情をコレクションに入れないで作ることにしました。』……以上、川久保玲のデザインの源泉がこのメールの1文に書かれています。それは何かというと「日々の些細なことと、散らばっている点と点を彼女の中で結んだ結果」だったのです。(出典:2012年5月31日付ニューヨークタイムズ記事「川久保玲はまるでモナ・リザ?」) 川久保玲はファッション界では珍しく、写真の被写体になることを強く嫌い、また寡黙なデザイナーとして知られる。今回も作品と震災の関係については、言葉少なかった。その代わり、発表する作品はいつも全く違ったテーマや新しい手法で、世の中に強く訴えかける。見るものを戸惑わせ、深く考えさせ、心を揺さぶる。ぼろぼろにほつれた服を引っさげて、パリモードの伝統に風穴を開けたパリ・コレデビューから31年。その間ずっと反骨の精神を貫いてきた。サングラスを好み、近寄りがたい雰囲気を漂わせる。だがインタビューではサングラスを外し、「時には強気のふりをしているだけ」とは意外だった。大量消費社会が行き詰まりをみせ、既存の価値観が壊れる中、「ふり」をしながらでも自らを鼓舞して前に進むこと、それが新しい流れを生み出すためにきっと必要なのだろう。(出典:2012年1月7日付朝日新聞ロングインタビュー 朝刊「中見出し:取材を終えて」)前略 川久保玲様…(中略)表参道の交差点の方へほろ酔い加減で歩いて行って、あなたの店の前を通りかかると、なにやら店の模様替えをしているようでした。10時近かったでしょうか。店の中には、見覚えのある小柄で黒ずくめの女性がまめまめしく動き回っているのがガラス越しに見えました。あなたでした。私は思わず携帯電話のカメラのシャッターを押していました。その姿があまりにも神々しく見えたからです。(中略)その後、地下鉄に乗ってあなたを撮った写真を見て、驚きました。コラボ商品の陳列をしているその姿はまるで遊びに夢中になっている少女のようです。論語に「子いわく、これを知る者はこれを好む者に如かず、これを好む者はこれを楽しむ者に如かず」とありますが、この写真は艱難辛苦するクリエイターの姿ではなく、仕事を楽しむ少女です。そしてもうひとつ、夢中ではあるが、その「夢中」の加減が半端でないということです。何かに憑かれているような、鬼気迫る妖気が漂っているのです。何気なく押したシャッターが、とんでもない瞬間を捉えていたことに私は気付きました。大袈裟に言えば、あなたの創作の秘密を垣間見たような気持ちになりました。写真嫌いのあなたのことですから、ブログとはいえ、この写真の掲載には眉を顰められるかも知れません。しかし、あなたのクリエイションの素晴らしさを書いた何万字以上に、この写真はその本質を衝いていると私は思います。間違っているでしょうか?(出典:2012年12月5日 WWD JAPAN COM 編集委員ブログ:担当:三浦彰氏) 1972年頃からイッセイ・ミヤケが、その10年後くらいにコム・デ・ギャルソンとヨウジ・ヤマモトが登場し、ひとつの地位を獲得し始めます。その後に続くアンダーカバーにせよ、海外に出て行ったデザイナーの背景には、世代が持ち得たジャポニズムがあります。イッセイは、もともと三宅一生がファッションイラストを学んだ人で、民芸運動等への関心もあったことから、グラフィックを基礎にしながらパリに打って出た。ヨウジやギャルソンは、海外では禅の影響だと言われるけれど、僕にすればイッセイのポジティブなジャポニズムに対し、ネガティブなジャポニズムを引っさげて行き、アンダーカバーは、ストリートのジャポニズムをパリに持ち込んだ。それぞれに世界に持って行けるだけの日本の風土があったと思います。両者の優秀なところは、パリのモードの世界が何を拠り所にしているか理解したことです。山本耀司はそれを「エレガンス」と把握し、そちらに向かった。川久保玲はそれをわかった上で、「自分の居場所はそこではない」と判断し、「ここに立っておれば、自分は自分なりに評価される」という地点を見出した。海外で日本人が受け入れられるには、アジア人でありイエローの心のありさまを表現するしかない。そういうことへの自覚が川久保玲独自のボキャブラリーを培わせたと思います。(出典:MANMO TV:平川武治インタビュー「#289風土のもたらす心のありさまは、新しい世界を開く」)ファッションの世界は"在庫"が儲けの決め所である。商品在庫と原反在庫とである。川久保玲の企業(コムデギャルソン)もそれなりの"在庫"を持っていた。この"在庫"減らしの原反在庫の方を処理しはじめた時期と、このブランド(CdG コムデギャルソン)のクリエーションが"特異性"から"特殊性"へ移行し始める時期が重なる。特に、CdGブランドに於ける"特異性"は素材のオリジナル性が大きな比重を納めていた。が、ある時期からオリジナル素材を使う事が減り始める。寧ろ、在る原反在庫を意識的にデザインによって消化し始める。パッチワーク、染色、プリント、転写、裏使い、生地切替え、異素材ドッキング、製品洗い、リバーシブルデザイン、縮絨(しゅくじゅう)仕上げ、後染め、等によって主にCdGH.P.(コムデギャルソン オム プリュス)ブランドで展開する。(出典:平川武治のノート-ブログ/ The Le Pli: 期限限定ブログ/「なぜ、今頃喋り出したのか?川久保玲。」/最近の騒ぎについての私感。)視点を大きく変えてみよう。例えば、このレベルのファッション餓鬼ども(若手デザイナー達のこと)がいちように口にし、この世界を解ったふりしているあの、“CdG、凄い”の川久保玲の今後は? どのように彼女の持ち得た嘗ての“夢”の世界から新たな“夢”へ、どのように完結為さるのだろうか? 川久保玲は、立ち続けて来た自分の立ち居場所を動かず、“特意性”豊かな創作に励み、富も、地位も名声も関係性も全てを、スタイリストを辞めて好きなファッションの作り手世界へ友人3人と始めたブランドの当時の夢はもう既に総て、手中に為さっているのだ。この43年間の継続とは、持ち得た“夢”次なる、新たな“夢”へ、川久保玲も又、自分が持ち得た世界観を“教養とスキルと経験と技術と関係性”を意識し、それらが自分にしかない武器である事に気づき、自分の望むバランス観で調和し昇華させるために、全ては理性と努力と勤勉と責任感と決断力、それにこの人の極めて明解な正確であろう“潔よさ”を持って、もう一つ、“教養ある上手なお金の使い方”で創作と経営をバランス有る調和力を身に付け持ち得た200%の自我をここ迄集約、集中し、継続して来た結果なのであろう。では、そんな川久保玲のこれからの“夢”若しくは、それに変わるブランド継続の大きなモチベーションとは何なのだろうか?僕の結論は以前にも書いた事があるが、川久保玲という人間が持ち得た“人間のがんばり”である。彼女にはこの“人間のがんばり”が持ち得た責任感の強さと、とてつもない決断力と潔さのバランスで依然、カオス状態でエネルギー源になっている。これに僕は彼女の人間としての深さ、そのスケールを他に見られない凄さとして感じ、リスペクトするのだ。インデペンデントなデザイナーブランドでは多分、日本一のファッションビジネスを展開しているだろう。(世界レベルでも2009年の統計では、既に世界で19位のメゾンブランドだった。/Xerfi700より)よく並び称される“イッセイやヨウジ”にはこのがんばりが少ない。残念だが、単純な理由は男性デザイナーだからというより仕方ないだろう。川久保玲の、“人間のがんばり”には三つの寄与があり、これが彼女の“夢”への最後のモチベーションであり真の立派さである。この“人間のがんばり”というエネルギーにはその最終着点は無く、カオスであり、在るのは独りの人間の死でしか無い。従って多分、本人は当然であろうが独りの人間としてどのように与えられた生を自分の世界観の内なる立ち居場所で全うするか。そのためには以前と変わらぬ自分自身の世界観を調和させる事。その立ち居場所で、川久保玲自身にとってはそれが日常性となってしまっているであろう“200%”の自我の世界へ変わらぬ“特意性”を感じる迄の創作活動を続ける努力と忍耐の日々が無事に繰り返される、その継続そのものが今の彼女の“夢”であろう。この“夢”とは三つの寄与、産業のため、社会のため、生活者のためにという自由なる生き方を選んだ人間たちが求めなければならない、為さなければならない”夢”の最高度なる最終段階であろう。従って、CdG、川久保玲は人間本来が持つべき当たり前の崇高なるレベルに迄達してしまっている希有なそして、とても幸せな人である。(出典:2012年10月20日、平川武治のノート-ブログ/「ファッションデザイナーたちはファッションデザインで産業に寄与しているのだろうか?」)

出典:wikipedia

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