大学寮(だいがくりょう)は、律令制のもとで作られた式部省(現在の人事院に相当する)直轄下の官僚育成機関である。官僚の候補生である学生に対する教育と試験及び儒教における重要儀式である釋奠を行った。『日本書紀』の天智天皇10年(671年)紀に「学識頭」という役職が見られ、また『懐風藻』の序文に天智天皇が学校を創設したという記述が見られるため、この時代に大学寮の由来を求める考え方が有力であるが、その後の壬申の乱などの影響で整備が遅れ、大宝律令(学令)の制定により具体的な制度が確立したといわれる。当初は儒教を教える後の明経道が中心であったが、728年(神亀5年)と730年(天平2年)の2度の学制改革(前者の改革で文章博士・律学博士(後の明法博士)が設置され、後者の改革で文章生・明法生・得業生制度が発足した)を経て、757年(天平宝字元年)には大学寮公廨田(後の勧学田)が設定されて学生に対する給食が行われるなど、制度の充実が図られた。以後、儒教以外の漢文学を教授した文章博士の地位が向上して、後には文章博士の学科である紀伝道が上位を占めるようになった。この背景には、大学制度の範を唐の制度に求めたものの、儒教による国家統治の原則が確立していた唐とは違い、仏教や古来からの神道が儒教と並立した日本の支配階層においては、儒教理念が唐よりも重視されず、それ以上に教養としての漢文の知識が必要とされたことによる。こうした風潮によって、大学寮での儒教教育が一種の行政処理のための「技術」とみなされて、中下流貴族の立身のための機関と考えられるようになり、子弟の教育を家庭で行う上流貴族を中心にした旧来の風潮を打破するには至らなかった。そのため、平安時代初期に再度の改革が行われ、806年(大同元年)には10歳以上の諸王と五位以上の官人の子孫の就学を義務付ける勅が出された。ただし、上級貴族の反発に加えて、入学年齢を17歳から引き下げたこと、更に学令で定められた9年間よりも短い4年間の就学を経た上での事実上の中退を認めたことから大学寮側からの反発もあり、812年(弘仁3年)に撤回された。その後、824年(天長元年)にこの規定が復活したが、『延喜式』にはこの規定について触れられておらずそれ以前に廃止されたと考えられている。また、勧学田の拡張や大学教官への職田設定、学生に対する学問料・給料(学資)支給制定などの財政支援策も採られた。こうした就学政策に加えて、唐風文化への関心の増大などがあり、平安時代前期に相当する9世紀から10世紀初頭にかけてが大学寮の全盛期にあたった。ところが、藤原氏が勧学院を創設したのを機に各氏が大学別曹を創設するようになると、次第に大学寮の存立基盤が揺らいでいくようになる。大学別曹は一族単位で学生の学資・生活を保障してその官界進出を助ける制度であったから、安定した勉学環境を得た大学別曹を持つ氏族出身者とそれ以外の氏族との間で「格差」が生み出されるようになった。更に大学寮の教官の間でも学説のみならず学生の立身を巡って一種の学閥が形成されるようになり、その中でも紀伝道では菅原氏と大江氏、それ以外の諸氏の間で激しい争いが行われた。また、遣唐使の廃止による中国文化への関心低下と律令制の弛緩、藤原氏摂関政治の確立による中下流貴族の没落などによって、大学寮の地位も徐々に低下していくようになる。更に律令制の弛緩は勧学田の荘園化による喪失を招き、これに対して大学寮向けの出挙制度の整備などの措置が取られたものの十分とは言えず、大学寮財政を圧迫する事になる。皮肉にもこれを維持できたのは大学寮からの給料を必要としない大学別曹保有氏族出身の学生の増大による大学寮支出の減少であった。914年(延喜14年)、三善清行は「意見十二箇条」の第4条で大学寮の荒廃ぶりを記しているが、前後の史料を見る限り学生数の減少などの大学寮そのものの荒廃を裏付ける事実は確認されておらず、勧学田の喪失と大学別曹の興隆によって教育の公平さが失われていく現状に対する警告であったと考えられている。一方において任官制度にも変化が生じ、「(諸)道挙」と呼ばれる在学中の学生が教官の推薦によって無試験で判官・主典級官職に任官される制度(紀伝道では9世紀中期、紀伝道・明法道・算道では9世紀末期以後)が導入され、更にこれが10世紀には諸国の掾への任官を対象とした「(諸)道年挙」も開始された。更に10世紀後期には大学別曹(勧学院・奨学院・学館院)に対しても自己の所属する学生を諸国の掾への無試験任官の推挙を行う「(諸)院年挙」を認めるようになった。これによって大学寮に残って博士などの教官職を目指す者以外にとっては卒業は任官の必須の要件ではなくなり、大学寮の試験そのものが形骸化・簡略化されるきっかけとなった。10世紀後期に入ると、試験問題の出典が予め受験者に通告されたり、権力者による情実の横行などがしばしば行われ、遂に院政期には権力者による合格者の枠配分や大学寮への成功(財政支援)によって任官や合格が決まるなどの例も見られるようになる。更に平安時代末期には、官司請負制の導入や官吏(官僚)が門閥で占められるようになった(貴族による蔭位の制の濫用)ためにその機能を果たさなくなり、その風潮は大学にも及んで博士の地位を世襲させるために特定の家系の家学として知識の独占を図るようになり、授業も大学寮ではなく自らの私邸を用いて限られた子弟や門人に対してのみ行われるようになった。また教授や学生の学資や施設の維持に用いられていた勧学田や出挙の仕組みの崩壊によって財政的にも衰退を余儀なくされる。1154年(久寿元年)には大学寮庁舎が倒壊する事故が起きるが再建されずに替わりに明経道院が庁舎を兼ねるようになった(『兵範記』)。やがて、1177年(治承元年)の安元の大火の後、閉鎖された。入学資格としては、五位以上の貴族及び東西史部(代々記録を司った)の子供および孫に限られていたが、八位以上の官人の子供にも希望があれば入学が許されていた。また、少数であるが姓を有しない白丁身分(庶民)の子弟であっても入学が許された例も存在している(天平年間に設置された文章生・明法生の採用規定に「白丁雑任の子」と規定されていた)。卒業試験試問を受験し、その試験結果が8割に達すれば式部省が実施する進士・明法・明経・算・秀才のいずれかの試験を受け、上位成績になれば八位~初位の官位が授けられた。また、学生の一部には得業生として大学に残り博士を目指す者もいた。組織としては現在の大学に類似し、大学頭(「だいがくのかみ」、現在の大学の学長に相当)がトップで、博士(現在の大学教授に相当)が教鞭をとっていた。また、大学院生に相当する学生(得業生)もいた。学科は経(儒教)・算及び付属教科の書・音(中国語の発音)の四教科だったが、後に紀伝(中国史)・文章(文学)・明経(儒教)・明法(法律)・算道の学科構成となり、更に紀伝と文章が統合された(紀伝が文章に吸収統合されたと言うのは後世の誤りで、実際は博士号は「文章(博士)」、学科は「紀伝(道)」と称した)。また、学科の呼称に「○○道」という方式を用いたのは、貞観式制定前後であると考えられている。なお、音博士の音道と書博士の書道は、明経道の学習を補助するための学科であり、平安時代中期には明経道に実質的に統合されたと考えられている。他に教育機関としては技官養成機関である陰陽寮・典薬寮・雅楽寮などが存在した。大学寮の学生は基本的に寮内の寄宿舎で暮らし、そこで授業を受けた。これを直曹(じきそう)という。文章生は文章院、明経生は明経道院、算生は算道院、明法生は明法道院で暮らしていた。また平安時代には有力貴族が一族のための寄宿施設を設置した。これを大学別曹という。明経道算道音道書道明法道紀伝道大学直曹大学別曹
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