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美濃路

美濃路(みのじ)は江戸時代に東海道・宮宿と中山道・垂井宿とを結んだ脇往還(脇街道)である。美濃路の原型は古代において東海道から尾張国の国府を経由して美濃国にあった東山道の不破関に出る経路であったと考えられている。当時の正規の東海道は尾張国から伊勢湾を横断して伊勢国に渡ることになっていたが、東国から馬で奈良・京都に向かう場合に馬と一緒に伊勢湾を渡ることができず、近隣の住人に馬を預けてトラブルになることがあった(『日本書紀』大化2年3月甲申条)。このため、徒歩あるいは馬で西に向かう人はこのルートを用いたとみられている。関ヶ原の戦いにおいては、東軍の先鋒である福島正則が起(愛知県一宮市)から美濃へ進軍し、戦いに勝利した徳川家康が凱旋した道で、「吉例街道」とも呼ばれ、将軍上洛時にも使われた。朝鮮通信使、琉球王使、お茶壺道中などが、この美濃路を通行した。東海道では、宮宿と桑名宿の間に七里の渡しが存在しており、江戸時代は水難事故も起こりやすい難所とされていたため、東西を移動するのに遠回りであっても海路を避けられる美濃路が好まれることがあった。東海道本線、東海道新幹線、東名・名神高速道路などは、東京から熱田までは江戸時代の「東海道」に沿って敷かれているが、岐阜・草津間は「中山道」、そして熱田・岐阜間は「美濃路」に沿って敷かれている。これは東西両京を結ぶ鉄道路線が計画された際、初めは中山道を経由して琵琶湖水運を当面の間は用いる案が採用されており、その建設資材を運びこむために愛知県武豊町の港を活用するべく、中山道の加納(岐阜)から名古屋を経由して武豊にいたる路線を敷設したことに起因している。東西両京を結ぶ路線は、後に「中山道線」から「東海道線」に計画変更されたが、既に神戸から大阪・京都を経て大津までと、上記の区間を含む長浜から岐阜・名古屋を経て武豊間の鉄道が開業し、大津・長浜間の琵琶湖水運を用いて神戸から武豊までが結ばれていたことから、熱田以西は本来の東海道ではなく、すでに完成していたこれら路線を活用することが決められ、現在の東海道本線が形成された。その後に建設された新幹線も、基本的にはこのルートを踏襲している。高速道路は当初、中央自動車道として東京から小牧を経て西宮に至る路線が計画されたが、そのうち優先度が高い小牧から西宮までを名神高速道路として先行開業させ、それに中央自動車道より先に開業した東名高速道路が接続したため、東海道本線に沿う現状形態となった。また新名神高速道路は、本来の東海道に沿ったルートで建設されている。

出典:wikipedia

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