吉野 誠(よしの まこと、1977年11月19日 - )は、埼玉県大宮市(現:さいたま市見沼区)出身の元プロ野球選手(投手)。現役時代は阪神タイガース・オリックス・バファローズ・福岡ソフトバンクホークスでプレー。2014年からは、阪神のスカウトを務めている。埼玉県さいたま市見沼区出身。大宮東高から東都の日大に進学。東都大学リーグでは3年生春からチームが1部に昇格する。通算38試合登板し14勝15敗、防御率2.24、192奪三振。その後、1999年のドラフト会議で阪神タイガースに2位指名され、入団。入団時はオーバースローで2000年3月31日の横浜ベイスターズ戦(横浜スタジアム)の5回裏に3番手でプロ初登板を果たし、1回0/3を無失点に抑えた9月28日の中日ドラゴンズ戦で(ナゴヤドーム)でプロ初先発を果たすも、4回5失点で敗戦投手となった。同年は防御率3.99と安定感を欠き、勝ち星も挙げられなかったが34試合に登板した。2001年はわずか15試合の登板に終わった。2002年にサイドスローに転向したことが契機となり、この年は35試合に登板し、防御率1点台と安定感抜群の投球を見せた。翌2003年4月13日の読売ジャイアンツ戦(東京ドーム)でプロ初勝利を挙げた。これ以降安藤優也、ジェフ・ウィリアムスとともに中継ぎでフル回転し、チーム最多の56試合に登板した。この年の福岡ダイエーホークスとの日本シリーズでは7試合中6試合に登板。全ての試合で無失点に抑える活躍を見せ、第3戦では勝利投手になった。日本シリーズでの好投を見て、星野仙一監督はインタビューで「何より吉野が素晴らしい!」と絶賛。2004年は前年の活躍から一転して極度の不振に陥り、23試合の登板に終わり。防御率も10点台と散々だった。この年以降は指の故障(左第3指屈筋腱炎)の影響もあって低迷し、再びオーバースローに戻すなど試行錯誤を続けている。2005年は前年ほどの不振ではなかったが藤川球児や久保田智之の台頭で登板機会はさらに減り、12試合の登板に終わった。2006年は背番号を47に変更し、開幕一軍を果たすも登板なしのまま二軍落ち。8月末に3度目の一軍昇格を果たすと、8月26日の読売ジャイアンツ戦でようやく初登板。テレビ放送にゲスト解説で出演した星野仙一が「2003年の日本シリーズでの投球をもう一度思い出して欲しい」と激励した。この年、プロ初セーブを挙げ、防御率0.00だったが8試合の登板に終わった。2007年も7試合しか登板できなかった。オフ、濱中治と共に阿部健太・平野恵一との2対2交換トレードでオリックス・バファローズに移籍。12月3日付でオリックスの支配下選手に登録された。阪神時代の同僚でオリックスでも再びチームメイトとなる北川博敏とは、高校からの学歴やドラフト2位での阪神入団といった経歴が共通している。2008年は43試合に登板し、リリーフ左腕として活躍した。セ・パ交流戦初戦の5月20日、対阪神戦(京セラドーム大阪)で3点ビハインドの7回表からリリーフ登板すると、打者4人を完璧に抑えた。すると、その裏に一輝のプロ初打点となる決勝打など打線が一挙4得点を奪って逆転し、古巣から移籍後初勝利を挙げ、これが5年ぶりの白星となる通算2勝目ともなった。2009年は5月10日の対日本ハム戦(札幌ドーム)で、岸田護の戦線離脱に伴い、2001年5月29日の対広島戦以来8年ぶりに先発を務めた。しかし、味方守備に足を引っ張られたのもあり、1回1/3を6失点(自責点3)で敗戦投手となった。この年はわずか12試合の登板にとどまり、防御率7.50と不調に終わった。2010年は4月24日の西武戦で1回自責点1、その後4月28日、4月29日の日本ハム戦では2試合連続ワンポイントリリーフで四球を出すという失態を犯し登録抹消。5月29日のヤクルト戦に再び登板するも0回1/3で自責点4点と打ち込まれ、二度目の登録抹消。その後は一軍昇格することなく前年度を下回る4試合登板に終わった。一方で、二軍ではウエスタン・リーグ最多登板記録であった44試合を上回る53試合に登板して記録更新、防御率1.25と好成績を残した。2011年はオープン戦から好調を維持し、そのまま開幕一軍入りを果たす。6月29日に一時登録抹消されたのを除いては、左のリリーフとして一年を通じて一軍で活躍した。開幕当初は敗戦処理だったが対左打者でのワンポイントリリーフなどをこなし、移籍後最多となる自身8年ぶりとなる50試合に登板して自己最多の12ホールド、防御率は1.19を記録した。また、50試合登板した中継ぎとしては与四球はわずか3つで与四球率0.89と、制球力が改善された。2012年も開幕一軍で左のリリーフとして活躍し、5月1日の対ロッテ戦ではアーロム・バルディリスの逆転サヨナラ2ランにより4年ぶりの勝利投手となる。翌2日も同点の場面で登板して無失点に抑えると、味方打線の援護で2日連続で勝利投手となり、この2日間で過去12年であげたのと同数の白星をあげた。また、試合後にプロ13年目にして初のお立ち台にも上がっている。前半戦は左のリリーフとして活躍してきたが、連投過多からか調子を落としていき、7月16日に登録抹消。9月15日に一軍復帰してからは7試合を無失点に抑えた。この年は40試合に登板したが、防御率は3.05と前年より悪化した。2013年も開幕一軍入りを果たしたが、開幕戦で救援に失敗すると、3月30日にこの年チームで初めて登録を抹消。その後は一軍公式戦での登板の機会がなかった。2013年7月25日に、甲藤啓介との交換で福岡ソフトバンクホークスへ移籍。甲藤の付けていた背番号48を継承したが、移籍後も一軍での登板機会がないまま、10月9日に球団から戦力外通告を受けた。ソフトバンクからの戦力外通告後には、現役続行への道を求めるべく、2013年11月10日開催の第1回12球団合同トライアウトに参加した。しかし、関東地区担当のスカウトに欠員が生じた古巣の阪神から、後任扱いでスカウト就任の打診を受けたことを機に現役引退を決意。その結果、2014年1月1日付で阪神の関東地区担当スカウトに就任した。サイドスローから繰り出すスライダーとシュートを武器にした左右への変化による揺さ振りを武器に、ここ一番での左打者対策としてワンポイントで起用されることが多い。阪神時代には、当時読売ジャイアンツに在籍していた松井秀喜が、とりわけ苦手にしていた。その一方で、サイドスローに転向して球威を増した反面コントロールが悪くなり、阪神時代の2003年7月26日には中日ドラゴンズ戦(ナゴヤドーム)で1イニング5連続与四球という不名誉な日本タイ記録を作ってしまう。星野監督も「どうせなら新記録を作れ。10回くらい続ければいいんや!」とあきれ返っていた。当然ながら、コントロールが悪いと球数も増えるため、2004年4月7日の横浜ベイスターズ戦では、1イニング8失点の大乱調で、1イニング最多投球数のプロ野球記録となる64球を投じた。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。