ペナン沖海戦(ペナンおきかいせん)は、第二次世界大戦中の1945年5月16日夜にマレー半島北西岸、マラッカ海峡内に位置するペナン島沖で起きた日本海軍とイギリス海軍との間の海戦(夜戦)。緒戦の1942年3月に日本軍はアンダマン諸島を占領し、守備隊を置いていた。1945年2月の時点で、シンガポールにあった日本海軍の艦艇は第十方面艦隊(福留繁中将)に編成されていた。このうち健在なのは重巡洋艦羽黒、足柄、駆逐艦神風のみで、重巡洋艦高雄、妙高は行動不能、その他の南西方面艦隊に属していた艦は北号作戦に参加して日本本土に帰還していた。日本軍は1945年3月にアンダマン諸島に輸送船団を送ったが全滅していた。第十方面艦隊は日本陸軍よりアンダマン諸島への輸送の要請を受け、羽黒と神風に一部の武装を撤去して、弾薬、食料、燃料などの物資を搭載して出撃させた。物資輸送後は、アンダマン諸島に配置されていた一部の兵力を乗船して帰還する予定だった(に号演習)。イギリス海軍の主力は1944年末から太平洋方面へ転戦。1945年1月からスマトラ島、ジャワ島空襲、3月からは沖縄攻撃を始めた。一方、ドイツの敗色が決定的となったため、対日戦に集中することが出来ることになったインド洋の東洋艦隊も、ビルマの首都ラングーン占領のため増強され、4月に南部ビルマで防戦を企図していた日本陸軍が総崩れとなり、5月2日(3日)にイギリス陸軍第14軍がラングーンを占領した。同月7日にはドイツが降伏したため、イギリスやアメリカを中心とした連合国軍にとって日本が唯一の敵となった。5月12日、羽黒、神風の第五戦隊がシンガポールを出航、この動きをステイツマン、サトルの2隻の英潜水艦から通報されたイギリス海軍の東洋艦隊は、要撃のため「デュークダム作戦」 () を計画し、ラングーン占領支援を行っていた戦艦クイーン・エリザベス、リシュリューを基幹とする第61部隊に要撃を命じた。14日にイギリス第61部隊は第21護衛空母群の艦載機から位置を知らされ、羽黒を攻撃する為にマンリー・パワー大佐指揮の第26駆逐隊を分派する。翌15日に第五戦隊も陸軍哨戒機よりイギリス艦隊の存在を知らされ、アンダマン諸島行きを中止し、ペナンへ退避を開始した。16日、羽黒は派遣されたイギリス第26駆逐隊の駆逐艦ヴィーナスのレーダーに捕捉された。元良勇(羽黒通信長)によれば、月の明るい夜であった。2時10分、羽黒もレーダーでイギリスの駆逐艦を発見し離脱を図った。しかし羽黒はスクリューシャフトに損傷を抱えたまま作戦に投入されたため全速が発揮できない状態だった。まだ2番主砲塔も破壊されたままで、修理されていなかった。その上、艦上に搭載した大量の物資が砲塔の旋回も妨げた。駆逐艦ヴィーナスは魚雷を発射しようとしたが失敗した。続いて駆逐艦ソマレズとヴェルラムが羽黒と神風へ突進し、ソマレズが4.7インチ砲と40mm機関砲で神風を損傷させた。一方で離脱を断念した羽黒は、スクリューシャフトからの振動で照準に支障をきたしたまま砲撃を行い、ソマレズの機関部へ命中弾を与えた。逆に2隻のイギリス駆逐艦の放った魚雷のうち1本が羽黒の前部に命中した。一方、羽黒は輸送任務のために魚雷を全て下ろしており、神風は魚雷発射管すら撤去していた。神風は死者27名を出しつつ、羽黒の周囲を旋回しながら煙幕を展開、照明弾を発射して包囲をせばめるイギリス駆逐艦隊と交戦した。橋本中将は神風に離脱を命じ、2時50分に神風はレーダーで捉えた陸地の方角へ急速離脱した。残された羽黒はヴィジラント、ヴィーナス、ヴィラーゴを加えた第26駆逐隊5隻の集中攻撃を受け炎上、艦前部は沈下、左舷に20度近く傾斜しながら1時間近く交戦したが、魚雷2本の命中が致命打となり前部から沈没した。神風はペナンに退避し、陸揚作業と燃料補給の後、戦場へ引き返して羽黒の生存者救助を実施、17日にシンガポールへ撤退した。
出典:wikipedia
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