ドン・リー・ブラッシンゲーム(Don Lee Blasingame, 1932年3月16日 - 2005年4月13日)は、アメリカ合衆国ミシシッピ州コリンス出身の元プロ野球選手・コーチ・監督。ブレイザー(Blazer)の愛称でも知られる。 義理の父であるウォーカー・クーパーもメジャーリーグで活躍した元プロ野球選手。夫人はミス・カリフォルニア。コリンス高等学校→リプスコム大学を経て、にセントルイス・カージナルスへ入団。9月20日のカブス戦(ブッシュ)でメジャー初出場を果たす。からはレギュラー二塁手として定着し、にはMLBオールスターゲームに出場。には来日して南海ホークス・大毎オリオンズ連合チームと大阪球場で戦ったが、広瀬叔功を走者に置いて、榎本喜八のセンターへ抜けようかという当たりを逆シングルで好捕して6-4-3のダブルプレーを記録。当時全盛期だった広瀬もなぜ自分がアウトになったのか分からず二塁ベース上で呆然とした。この際にブレイザーの練習と試合を観察していた広岡達朗が大きく影響を受ける。にはサンフランシスコ・ジャイアンツ、シーズン途中にはシンシナティ・レッズへ移籍。同年のナショナル・リーグ優勝に貢献し、ワールドシリーズにも出場。に故障で戦列を離れると、後にメジャー歴代最多安打記録保持者となるピート・ローズが正二塁手の座に定着。1963年シーズン途中にワシントン・セネタースへ移籍して復活するが、シーズン途中にはカンザスシティ・アスレチックスへ移籍。同年退団。前述のプレーもあって、に南海へ入団。本名の「ブラッシンゲーム」ではスコアボードに書ききれないため、愛称の「ブレイザー」が日本での呼称となった。併殺時の素早い足の運びや正確な送球など質の高いプレーで格の違いを示し、打撃でも献身的な動きを遂行。勝負強いバッティングと堅守でチームに貢献し、1967年・と2年連続でベストナインを受賞。引退。ブレイザーが南海に来た時、野村克也はしょっちゅう食事に連れ出し、どうしてその体でメジャーで生き残れたのかを聞いたところ、ある日ブレイザーから「君が打者の時にヒットエンドランのサインが出たらどう対処する?」と聞かれ、野村は「フライと空振りはダメ。どうにか打球を転がす」と答えた。ブレイザーは「それだけか? まだあるぞ! 走者がいるということは必ずセカンドかショートが二塁ベースカバーに入るのだから、セカンドが入れば一二塁間、ショートが入ったら三遊間方向に打球を転がすんだ」とさらりと答え野村を感服させた。バントの正確さにも定評があった。セーフティーでは三塁線のラインぎりぎりに転がすことが多く、切れそうで切れないゴロは芸術的だった。捕球、スローイングと基本的な技術の確実性が高かった。派手さはないが、捕ってからの送球までの流れが速く、ミスも少ない。南海の投手陣は「困ったらドンの方向に」が合言葉だった。以上のことから野村は、「自分のID野球の源流はブレイザーにある」と常々語っている。からは選手兼任監督に就任した野村の要請もあり、南海のヘッドコーチに就任。のリーグ優勝に貢献したが、に野村の解任に伴って退任。野村は著書の中で、ブレイザーは私に考える野球を教えてくれた恩人と著書で記している。野村によると、ブレイザーは最初のミーティングでそれまで南海の選手が見たことも聞いたこともなかった野球理論や知識を伝授し、シンキングベースボールの奥深さを教えた。緻密な野球を組み立て、日本球界に革命をもたらした。には古葉竹識監督の招聘で広島東洋カープ一軍守備兼ヘッドコーチを務め、家族を大阪に残して単身赴任という形でチームを指導。古葉は「ブレイザーの野球を見て本当に勉強になった」と語っているが、1年で退任。には阪神タイガース監督に就任。「考える野球(シンキング・ベースボール)」の仕組を取り入れた采配が期待された。就任1年目の同年は最終的に4位に終わったが、前年のに比べれば持ち直し、夏のロード明けまで首位争いに加わり、前年より20勝もした。前年オフにブレイザーが敢行した西武ライオンズとの大型トレード(田淵幸一・古沢憲司ー真弓明信・若菜嘉晴らを交換した)や小林繁の獲得などで前年に比べて戦力がアップされたこともあったが、ブレイザーの手腕によるものも大きかった。当時遊撃手の真弓に「つま先は常にホーム方向へ」と指示し、遊撃の守備位置や動きで投手の球種を悟らせない「考える守備」を提唱した。は当時新人の岡田彰布の起用法を巡ってフロントと軋轢が生じた。岡田はブレイザーとの初対面で市原稔通訳兼任コーチを介して「いくら力のあるルーキーでも、メジャーリーグでは最初からいきなり試合起用することはない」と告げられ、「そんなの関係ないやろう」という反骨心が芽生えたと後に著書に記している。岡田自身は起用がないことについて表立ってコメントすることはなかったが、大物新人スラッガーをいち早く一軍で活躍させたい小津正次郎球団社長を中心とするフロント、ファンやマスコミが許さなかったためと言われる。ブレイザーがヤクルトスワローズから獲得したデーブ・ヒルトンを成績・特に打撃が不振にもかかわらず守備面を評価して起用し続けたこともそうした声に拍車をかけることになった。結局、ファンから自宅にカミソリ入りの手紙を送りつけられ、夫人が「こんな野蛮な国はイヤ」と帰国を懇請したこと、また球団フロントがヒルトンを退団(これについてはブレイザーも了承していたが)させた後、ブルース・ボウクレアを獲得したことを「フロントの現場への介入」と見たこともあって、シーズン途中の5月14日で退任。ブレイザー退任後は中西太一軍ヘッド兼打撃コーチが後任の監督となったが、5位に終わっている。阪神退団後は複数球団から誘われたが、に古巣・南海の監督に就任。一年目は5位、二年目は最下位と低迷。持病の心臓病に痛風が重なるなど健康上の問題もあって辞任。帰国後は南海の駐米スカウトを経て、カージナルス及びフィラデルフィア・フィリーズのマイナーリーグコーチを務めた。フィリーズではアドバイザーも務めた。息子のケントは日本球界の情報に詳しく、しばしば父に情報を伝えていたが、岡田の監督就任については伝えなかったという(出典:読売新聞『追悼抄』)。4月13日、アリゾナ州で死去。満73歳没。ケントはコロラド・ロッキーズの環太平洋スカウトを経て、5月22日からソフトバンクの駐米スカウトに就任。
出典:wikipedia
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