大圓寺(だいえんじ、大円寺)は、美濃国遠山荘の地頭遠山氏の菩提寺で、南北朝時代の建武2年(1335年)から戦国時代の末期の元亀3年(1572年)まで美濃国恵那郡(現在の岐阜県恵那市)に存在した臨済宗妙心寺派の大寺院。武田信玄家臣の秋山虎繁(信友)が岩村城の遠山氏を攻撃した際に大圓寺を焼き討ちにしたため焼失した。現在は大円寺跡として恵那市指定史跡となっている。。明覚山(みょうかくざん)大圓寺は、建武2年(1335年)に美濃国恵那郡遠山荘の地頭で岩村城主の遠山三郎が、峰翁祖一を迎え、遠山一族の総力を結集して建立した。峰翁祖一は尾張国の妙興寺の一世であり、美濃国では大禅寺や吉祥寺など数ヶ寺を開創している。二世は玉林宗璨、三世は月菴宗光と続き、四世は宝林といわれているが定かではない。五世は進叟性勝で、室町幕府の四代将軍足利義持が発令した大圓寺住職の辞令が尾張国の妙興寺の塔頭である耕雲院に現存している。隆盛を誇った大圓寺であったが一時期衰退した。それを再興したのが遠山景前である。天文3年(1534年)6月遠山景前は甲斐恵林寺を再興した名僧明叔慶浚を招き天文10年(1541年)まで止住した。そのことにより再び大圓寺は勢いを取り戻した。ちなみに明叔は飛騨国の南部を治めた戦国大名三木直頼の兄である。明叔が可児郡御嵩町の愚渓寺に去った後の天文12、13年(1543年-1544年)頃希菴玄密禅師が住職となった。希菴は快川紹喜と共に臨済二大徳と言われた高僧で、京都妙心寺で管長職を5度務めた他、恵林寺の住職にもなっている。永禄7年(1564年)の信玄の母・大井の方の13回忌法要は信玄の願いにより希菴により営まれた。妙心寺に戻った希菴に、遠山氏より大圓寺住職の依頼が再び来た。希菴はこれを受け入れ再び住職となった。そこへ信玄から恵林寺へ戻るよう要請が何度も来た。しかし希菴はこれを拒否したため、これを恨んだ信玄は秋山虎繁に希菴の殺害と大圓寺の焼討ちを命じた。元亀3年(1572年)秋山虎繁が率いる甲斐と信濃の武田勢が、遠山氏の本拠地である岩村城を攻撃し、岩村城の戦いが行われた。開城から約2週間後の11月26日、大圓寺に対しても武田勢が攻撃するとの噂を聞いて身の危険を感じた希菴は、共の者と寺から逃亡した。これを知った虎繁は刺客3人を送り、彼らは飯羽間村で希菴一行に追付いて、飯羽間川にかかる橋の上で全員を殺害した。ところが半月もたたない内に三人は気が狂ったり、狂った馬から落ちて命を落とした。それに留まらずその5ヵ月後、信玄が死亡している。一説には信玄の重病を知ったの口封じが目的とも言われる。殺害された希菴らは村人達によって付近に葬られ希菴塚と呼ばれ現存している。東濃三大名刹(大圓寺・永保寺・愚渓寺)の一つと言われ、約15ヘクタールもの広大な敷地と常時100名を越す修行僧が居た大圓寺の建物群は、武田勢に焼かれて、仏像や庭園などの貴重な文化財、遠山氏累代の墓や過去帳をはじめとする書物や絵画もろとも全て焼失し、歴史の幕を下ろした。同時期に大圓寺のみならず周辺地域の寺院も武田勢により悉く焼き払われて消失している。岐阜県恵那市岩村町富田大円寺
出典:wikipedia
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