日本の海兵隊(かいへいたい)は、イギリスの海兵隊に倣って明治初期の日本海軍に短期間置かれていた、歩兵、砲兵及び楽隊・鼓隊から成る部隊である。儀礼に要する衛兵や野砲の運用を受持っていた。「明治3年10月9日御沙汰書」(海陸兵制の義に付弁官へ申牒御達)により、創設期の日本海軍の制度はイギリス海軍が模範とされるようになったため、”英国マリーン”に倣って海兵隊も設けることとなった。明治4年、海兵士官学校が設立され、水兵本部が置かれた。当初、マリーンが”水兵”と呼ばれ、今日の水兵に相当する艦艇乗組員は”水夫”と呼ばれていたが、間もなくマリーンは海兵と呼ばれるようになった。1876年(明治9年)に廃止された。1874年(明治7年)の佐賀の乱や同年の征台の役に動員された。海兵は、砲兵及び歩兵の両科に区分された。水兵本部がこれを統括し、各艦船の定員に応じて分乗した。艦船内ではこれを海兵部と称した。水兵本部には、本部、砲兵科、歩兵科が置かれたほか、楽隊・鼓隊も付属された。曹長以下の者(下士・卒)は、元来は陸軍兵より海兵に転じたものであった(当時の階級については日本軍の階級参照)。明治4年10月、海兵士官学校が設けられ。教官にはイギリス海兵隊のブルンクリー大尉が就任し、第1回入校生徒としては酒井忠利(後の海軍少将)らがいた。当初の構成は次の通りである。海兵隊が廃止された際には、士官は、海軍士官として勤続するか、退職帰郷するか、陸軍士官に転職するか、各自の希望に沿った処置がされ、陸軍への転職者がかなり多数であった。海兵士官学校は海兵隊廃止と共に閉校されたので、在学していた本科生は、海軍兵学校生徒に編入されて、特別即成の教育を受けて、1876年(明治9年)12月に同校を卒業した。予科生徒も海軍兵学校に転学し、1881年(明治14年)9月10日に卒業した。海軍兵学校に転じた予科生徒には志摩清直もいた。海兵隊廃止後は、海軍陸戦隊が海兵隊に近い任務を担った。在隊した著名人としては、田中穂積(明治6年5月31日に命5等鼓手。後に海軍軍楽師(准士官)。)もいる。
出典:wikipedia
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