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柳本直太郎

柳本 直太郎(やなぎもと なおたろう、1848年4月10日(嘉永元年3月7日) - 1913年(大正2年)3月13日)は明治時代の日本の官僚。旧越前福井藩士。第一大学区第一番中学(東京大学の前身の一つ)学長、東京外国語学校(東京外国語大学の前身)校長、名古屋市長を歴任した。諱は直満、号は久斎。嘉永元年(1848年)3月、越前福井藩士柳本久兵衛の子として福井に生まれる。下級藩士ながら学問の才を認められて文久元年(1861年)6月に英語の学習を命じられ、翌年、幕府の洋学研究教育機関・蕃書調所に入った。元治元年(1864年)10月、横浜での英語修業を命じられ、慶応2年(1866年)2月には慶應義塾に入社。さらに慶応3年(1867年)4月から翌年10月まで米国に留学し、帰国後は再び横浜に派遣された。明治3年(1870年)3月、大学少助教となり、翌年7月に大学が廃され文部省が新設されると文部中助教に進んだ。なお、明治3年7月には米国に留学する華頂宮博経親王の随行を命じられ、在職のまま再び渡米したが、母が病にかかり余命わずかとなったことを受けて明治5年(1872年)1月に帰国している。帰国後は文部大助教、文部少教授、文部省七等出仕、文部省六等出仕を経て10月に少督学に就任。明治7年(1874年)4月に再び文部省六等出仕となったのち、同年9月に出仕を免じられた。この間、南校御用掛、教場監事、監事長を経て明治5年10月中に第一大学区第一番中学校長を務め、少督学に転じてからは新設された第一大学区督学局の事務を担当。明治6年(1873年)6月、他の六大学区に督学局が置かれると第二大学区督学事務兼勤となり、各大学区督学局が一局に合併される翌年4月まで第一・第二大学区の学事を監督した。明治7年4月、東京外国語学校副長兼開成学校副長に転じ、翌月には東京外国語学校長に就任している。免出仕後は明治8年(1875年)2月から翌年まで鳥取変則中学校に勤務。明治10年(1877年)1月、兵庫県御用掛となり、同県少書記官、大書記官に進んだのち、明治17年(1884年)1月に長崎県大書記官に転じた。明治19年(1886年)7月、さらに愛知県書記官に転じ、明治26年(1893年)3月に非職となるまで在職。その後、明治27年(1894年)2月から明治30年(1897年)6月まで名古屋市長を務めた。大正2年(1913年)3月13日、享年66で死去。墓所は名古屋市の八事霊園。

出典:wikipedia

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