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北王子線

北王子線(きたおうじせん)は、東京都北区の田端信号場駅と同区の北王子駅(貨物駅)を結んでいた日本貨物鉄道(JR貨物)の鉄道路線(貨物線)の通称である。正式には東北本線の貨物支線である。かつては、途中から同じく貨物線の須賀線(すかせん)が分岐していた。かつての起点は王子駅であったが、国鉄分割民営化の際に田端操駅(現在の田端信号場駅)起点に改められた。ただし、それ以前から同駅が実質的な起点であった。また、東日本旅客鉄道(JR東日本)から借りている路線(第二種鉄道事業)ではなく、JR貨物が第一種鉄道事業者であるということも特筆できる。田端信号場駅の入換用のディーゼル機関車が、コンテナ車を牽引して1日4往復していた。機関車の前部には監視員が添乗し安全確認を行っていた。2006年(平成18年)3月ダイヤ改正から、従来は有蓋車ワム80000で運行されていた列車がコンテナ化された。王子 - 下十条(現在の北王子駅)間の北王子線は、国鉄線として開業する以前に王子製紙の専用鉄道として存在していた。下十条駅にあった同社の十條工場は1910年(明治43年)5月に印刷局の工場として開業し、1916年(大正5年)7月に王子製紙に払い下げられた。その後、1926年(大正15年)8月16日に王子から下十条までの専用鉄道運輸の免許を受けている。須賀線(王子 - 須賀間)は、化学工場の原料や製品輸送を目的として関東酸曹が敷設申請し、関東酸曹が合併した大日本人造肥料(現・日産化学工業)の専用鉄道として1926年(大正15年)7月22日に運輸開始認可されて開通した。王子四丁目交差点においては王子電気軌道(→都電)と平面交差をしていた。昭和に入り、須賀線の沿線の王子六丁目付近に陸軍造兵廠豊島貯弾場が設置され、弾薬輸送が行われるようになった関係で、1927年(昭和2年)12月20日付で北王子線・須賀線とも買収され、鉄道省(国有鉄道)の路線となった。このころまで重油炊きに改造されたC50形蒸気機関車(田端機関庫配置)による運転が行われていたが、弾薬輸送に際して火の粉を煙突から吐き出す蒸気機関車は危険という判断がなされ、蓄電池の電力で走行するAB10形蓄電池機関車が導入された。しかしまもなく、1931年(昭和6年)に須賀線は電化され、AB10形もパンタグラフを搭載する改造を受けてEB10形となり、引き続き須賀線で運用された。第二次世界大戦後、陸軍造兵廠の跡地には東京セロファン紙(現・東セロ)東京工場や、旭電化工業(現・ADEKA)尾久工場などが進出し、これらの工場へも須賀線から専用線を分岐して、やはり同様にEB10形電気機関車が貨物列車を牽引した。1969年(昭和44年)の最盛期には、最大1日5往復の貨物列車が運行されていた。しかし、沿線の工場がもたらす公害が問題視されたこともあり、まず1969年(昭和44年)に日産化学工業が千葉県に工場を移転させ、続いて東京セロファン・旭電化工業も相次いで工場閉鎖したため、1971年(昭和46年)1月19日に須賀線の最終列車が運転され、3月1日付で正式に廃止となった。須賀線専用に使用されていたEB10形も、1972年(昭和47年)2月付で廃車となった。京王井の頭線の電車不足を救済するために貸し出された一時期を除けば、製造から廃車まで一貫して須賀線のみで使用された機関車であった。須賀駅の跡地でもある日産化学工業の工場跡地は豊島五丁目団地となっている。以後は倉庫として使用され続けた十條製紙(旧・王子製紙、現・日本製紙)十條工場へ向かう北王子線のみ残されていた。北王子線に踏切は全部で4つ設置されているが、王子駅から数えると第2・第3の踏切(第二宮江町踏切と第一北王子踏切)に隣接する王子四丁目公園の三角形状は須賀線分岐の名残である。2014年3月12日、北王子線を14日をもって運行終了することを発表。日本製紙が北王子駅専用線の貨物取扱を終了する意向を示したことにより、同日に運行を終了し、7月1日に廃止された。全駅東京都北区に所在。王子駅 - 須賀駅(すかえき)

出典:wikipedia

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