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仁科氏

仁科氏(にしなうじ)は、日本の氏族。系統は仁品王系・皇極太子系・桓武平氏繁盛流(信濃平氏)・清和源氏・義光流・武田支流。また、清和源氏頼季流乙葉氏族の仁科氏もある。祖は仁品王。『仁科濫觴記』にみられ、仁品主、仁品親王とも綴られる。仁科氏として知られる、おそらく最初の記録。「仁品」は、長野県池田町公民館所蔵の『仁科濫觴記』では「ひとしな」と訓じられているが、仁科宗一郎は「にほん」と訓じることを考察している。同記録によれば、崇神天皇の末の太子であり、垂仁天皇の弟にあたる人物。都より降臨し、王町(現・大町市)に館を構え、犀川の水を開いて安曇平を開墾し、仁科神明宮を建立した。子には、早世し若一王子神社として祭られた一ノ宮と、仁品王の跡を継いだ二ノ宮があった。白雉2年(651年)には、二ノ宮から数えて21代目(つまり22代目)の子孫、高根伊勢(たかねのいせ)が継ぎ、一族は伊勢、出雲、隠岐、主膳の四家に分かれて栄えていた。斉明天皇2年(656年)に、大海人皇子(天武天皇)に比定されうる「皇極ノ太子」の密命で、その3歳になる子が岡本宮から仁科の城主として派遣されたことにより、高根伊勢の代からは皇極太子系仁科氏の家臣に下ることとなる。その際、高根伊勢を国守に任命した。信濃国守に高根氏の名前があることは、『新撰仁科記』、『信濃宝鑑』にも見える。「皇極ノ太子」の3歳の子は、仁品の館に入り、宝祚谷(ほそ(が)や)氏と名乗った。7歳のときに高明王(高明天王、高明親王)と名乗ることとなり、天智天皇7年(668年)には和泉守に被任したことから仁科和泉守高明(森和泉守)とも呼ばれる。この年、皇極ノ太子の命で、「仁品」は「日本」と訓が同じであることから、「仁科」と改めさせられた。ここで、仁科の姓が起こることとなる。『仁科濫觴記』では、9世紀の仁科高明王の孫(祖父と同じ仁科和泉守という名)の代までの記述しかない。出自は諸説あり、未だ確定されていない。『仁科濫觴記』の記した9世紀以降、平安時代末期の治承・寿永の乱前後から、仁科氏は再び史書に登場するようになる。この頃には既に安曇郡一帯を治める大豪族として知られるようになり、盛遠は熊野参詣の折に後鳥羽上皇の知遇を得て西面武士を務めたが、その処遇が一端となって、承久3年(1221年)に承久の乱が起きた。盛遠は上皇方として北陸道に派遣されて越中国で北条朝時の幕府軍と戦い敗死した。南北朝の争いには南朝に属し宗良親王を奉じ、北朝側の守護小笠原氏と争ったが、南朝衰亡によって北朝に帰属した。一族の重貞は上洛して後醍醐天皇に随身している。その後の大塔合戦では盛房が大文字一揆衆を率いて守護軍を圧倒し、小笠原長秀を信濃から追い払う活躍を見せる。応仁元年(1467年)からの応仁の乱では東軍(細川勝元)につく。文明12年(1480年)には盛直が小笠原長朝と穂高川で戦って敗れたが(穂高合戦)、翌年諏訪氏に従って長朝の軍を破った。また、長享元年(1487年)からの長享・延徳の乱では、将軍足利義尚の近江国守護六角高頼征討に出陣して戦功を挙げた。明盛も永正10年(1513年)に将軍足利義稙が六角征討を再開すると近江に出陣した。その後、『二木家記』や『小笠原系図』に名前が見られる盛能(道外)は信濃守護となった小笠原長時に従って縁戚関係を結んでおり、天文年間に本格化した甲斐国守護武田氏の信濃侵攻においては小笠原や村上氏と同調して武田に抗していた。しかし盛能は、天文17年(1548年)の塩尻峠の戦いを前に戦線離脱し、この戦いで小笠原長時が武田方に大敗する原因となった。武田方の史料である『高白斎記』によれば天文19年に仁科上野介(盛政か)を介して武田氏に臣従している。武田方に帰属した仁科氏は千国街道の流通など支配権益を保障され、道外の孫である盛政の頃には武田被官化するが、一族の間で内紛が発生し、更に盛政自身も川中島の戦いで上杉氏に寝返ったとして処刑され、仁科氏の正統は絶える。武田信玄は信濃攻略において、諏訪氏など信濃名族に対して実子に名跡を継がせ親類衆に列して懐柔する方法を行っているが、仁科氏も五男に名跡を継がせた(仁科盛信)。以降仁科氏は平姓を改め、「清和源氏・義光流・武田氏支流」として源姓を名乗ることになる。 北澤繁樹の推定による仁科氏の嫡流の系図盛信の子と自称する仁科信基なる人物の家系で、 源姓仁科氏嫡流の14代目当主仁科盛輔の次男盛助の系統。明治時代に岡山県に移住。上記の仁科氏とは別で大伴氏の一族が奈良時代の頃に美作に土着したとされる。仁科氏が岡山県浅口郡濱中村(現・里庄町)に家を構え、領主の年貢のとりまとめをする庄屋をしていた。また鍛冶を家業としていた系統もある。昭和期の物理学者・仁科芳雄はこの末裔にあたる。この仁科氏は多くの支流を出し、どの系統が美作仁科氏の宗家かは不明である。明治時代に潰れた後は庄屋・鍛冶をしていた仁科氏達は各地に散らばり、それぞれの道をたどる。そのため、岡山県浅口郡や備前市日生地域には仁科姓が多い。丸に梅鉢または五七桐を家紋にしていた。福島県会津若松市に住んでいた仁科氏一族がある。これも嫡流とは別で清和源氏頼季流乙葉(おとは)氏族としているが詳細は不明である。信濃の仁科宗家・武田両氏滅亡後、上杉氏を頼って臣従した者、小笠原氏に「仁科衆」として出仕した者(穂高・沢渡・渋田見・古厩・日岐・細萱・小宮・耳塚・真々部など)、兵農分離で帰農した者に別れている。また会津仁科氏と同族の仁科氏、桓武平氏繁盛流、大伴氏、安部氏など複数の氏族が仁科を名乗っている。

出典:wikipedia

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