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大内輝弘

大内 輝弘(おおうち てるひろ、永正17年(1520年) - 永禄12年10月25日(1569年12月3日))は、戦国時代の武将。大内氏第14代当主・大内政弘の次男・大内高弘の子。子に大内武弘(たけひろ)。太郎左衛門。大内氏の第18代の当主とする場合もあるが、輝弘に実権は無かったとみられる。大内氏の一族だが、父の高弘が謀反を起こして大友氏の下へ亡命していたため、豊後国で生まれた。天文23年(1554年)から永禄8年(1565年)の間に将軍・足利義輝より偏諱を賜い輝弘と名乗る。永禄11年(1568年)、大友宗麟が毛利元就と北九州地域の覇権を巡って争った際、大友軍は毛利軍の攻勢の前に一時は壊滅の危機に立たされていた。宗麟の参謀である吉岡長増の進言により、宗麟は寄食していた大内輝弘に兵を与え、同年8月から9月にかけて若林鎮興らの大友水軍を付けて密かに海上から周防国に上陸させた。輝弘の率いる兵力は少なかったが水上戦では市川経好の軍を撃破した。大内氏の一族だというので輝弘が周防に入ると毛利氏の支配に抵抗する大内氏の遺臣がこれに呼応し、周防国の毛利軍はその大半を北九州の戦線に投入していたため、苦戦を強いられた。しかし高嶺城を守る市川経好夫人が少ない城兵を指揮して徹底抗戦したため、輝弘は山口の大内氏別邸築山館に入るに止まり、山口を完全に占領することができなかった。輝弘の攻撃を知った元就は北九州攻略を諦め、即座に軍を返して吉川元春と小早川隆景率いる精鋭を周防に向かわせた。輝弘はその報を受けると山口での抵抗を諦め、海路での脱出経路を探るべく海沿いへ脱出するが、追撃厳しく富海(とのみ:現在の防府市)の茶臼山で自害した(大内輝弘の乱)。輝弘の山口侵入によって毛利軍は本州に撤退せざるを得なくなり、大友氏は筑前国など北九州の毛利方の諸城の奪回に成功した。

出典:wikipedia

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