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田代富雄

田代 富雄(たしろ とみお、1954年7月9日 - )は、神奈川県小田原市出身の元プロ野球選手(内野手)、監督、コーチ、解説者。小田原市立酒匂小学校在学時にソフトボールを始め、小田原市立酒匂中学校在学時に野球部に所属し、当初は投手で、4番打者でエースだった。当初両親は小田原市内の相洋高校へ進学させようとしていたが、藤沢商業高等学校の金子裕(野球部監督)の説得により特待生条件で同校へ進学し、1年生の5月から4番打者となり、2年生の時に野手(三塁手)へ転向。高校通算42本塁打を放ち、夏の甲子園県予選では準決勝に進出するが、大塚喜代美(三協精機-日本鋼管-ライト工業)、土屋恵三郎のバッテリーを擁する桐蔭学園に惜敗。桐蔭学園は甲子園で全国制覇を果たす。翌年も県予選4回戦で敗退し、甲子園出場はならなかった。高校卒業後は大学進学を考えていたが、高校3年の秋に父親が54歳で死去したため、野球で一家の生活を支えるためにプロ野球および社会人野球志望となった。1973年のドラフト3位で大洋ホエールズが指名し、当初の契約金700万円・年俸100万円の提示に対し「この額であればノンプロ(社会人野球)へ行く」と伝え、交渉の結果、契約金800万円・年俸120万円で入団し、契約金は母親へ全額渡した。背番号は生涯26番だった。入団後2年間は二軍で、にイースタン・リーグで首位打者と打点王になったが、秋山登監督の評価は「3年目だ。これ以上の伸びしろはない。」というものだったため、一発のある三塁手の補強を望んでいた読売ジャイアンツ(高田繁を左翼から三塁にコンバートしたが、前例なく心配されていた)が、田代のトレードを大洋に打診したものの、クリート・ボイヤーヘッドコーチが「田代は近い将来、クリーンアップを打てる。俺は来年、彼を一軍に推薦する。」と意見してトレードを止めた。の開幕に一軍初昇格し、開幕2試合目の4月4日にスタメン起用されて初打席で初安打を放った。4月に初の開幕スタメンとなり、開幕から5試合連続を含む11本塁打、打率.388、20打点で月間MVPを獲得すると、三塁手のレギュラーに定着し、監督(長嶋茂雄)推薦でオールスターゲームに出場した。この年は、130試合フル出場。持ち前の長打力を発揮した。には、4月7日の開幕戦でリーグ初となる3打席連続本塁打を放つなど主力としてチームの2位躍進に貢献。には自己最多の36本塁打を記録。には横浜スタジアム初の場外ホームランを放っている。現役前半は主に三塁、後半は一塁を守る事が多かった。1980年から6年連続20本塁打以上、1977年から10年連続2桁本塁打の記録を残し、大洋の主砲として活躍。6月18日の対広島東洋カープ戦にて一塁の守備中、打者走者の正田耕三と激突し左手首骨折。その故障以後、打撃成績は下降。 は一軍定着後初めて本塁打なし、は3本塁打で、そろそろ潮時と感じ、引退の意思を打ち明けられた妻は、かねて計画していたラーメン屋の開店準備を始めたが、に就任した須藤豊監督と大杉勝男打撃コーチから説得されて現役を続けた。10月10日、引退試合となった対阪神タイガース最終戦(横浜スタジアム)に3年ぶりに先発出場し、第2打席で葛西稔から満塁本塁打を放った。この本塁打は、この年田代が放った唯一の安打で、当初は試合の最後まで出場する予定だったが、この満塁本塁打を最後の打席とするために途中交代した。からまで、テレビ神奈川・ニッポン放送で解説者をする傍ら、ラーメン好きが高じて茅ヶ崎市の自宅でラーメン店「田代ラーメン」を経営。味で勝負するために、現役時代の写真や、来店する選手の写真・サインなどは一切置かなかった。テレビ東京系『浅草橋ヤング洋品店』の人気コーナー「お料理水戸黄門」で取り上げられ、加藤博一と共に出演した。より大洋の後身である横浜ベイスターズ二軍(に「湘南シーレックス」と改称)打撃コーチに就任し、それと相前後してラーメン店は廃業した。までは湘南シーレックス打撃コーチ、は一軍打撃コーチを務め、は再び湘南シーレックス打撃コーチ、からは一軍打撃コーチを務めた後、からは湘南シーレックス監督に就任した。5月18日、横浜ベイスターズの監督である大矢明彦の無期限休養に伴い、一軍監督代行に就任(通常はヘッドコーチが代行するが、オーナーの方針で、前年までヘッドコーチであった弘田澄男の後任を置かず空席としていた)。この際に田代は、高木由一のヘッドコーチ就任を球団へ要望したが却下された。同年5月20日のロッテ戦で監督代行として初白星を挙げた。しかし、チームを立て直すことはできず、5位と16ゲーム差も離れた最下位でシーズン終了となり、一軍監督代行を退任した。からは再び湘南の監督に復帰し、背番号は「76」から「78」に変更した。横浜球団は田代に対して来季からのフロント入り(編成担当)を打診したが、田代は「現場にこだわりがあり、背広は似合わない」と固辞した為、その季限りで横浜球団を退団する運びとなった。尚、シーズン最終戦まで指揮は執り9月27日退団した。コーチとして、多村仁志・金城龍彦・内川聖一・村田修一・吉村裕基・下園辰哉・筒香嘉智といった野手を育てた。、韓国KBO・SKワイバーンズのコーチに就任。だがシーズン中の8月18日、監督の金星根解任とともにSKのコーチを辞任した。、東北楽天ゴールデンイーグルス入りし、二軍打撃コーチを担当。2013年からは一軍打撃コーチを務める。銀次・枡田慎太郎・島内宏明、岡島豪郎を育て、同年のリーグ優勝・日本一に貢献した。2014年限りでの退任を表明していたが球団と監督の星野仙一からの強い説得で辞意を撤回し残留することになった。2015年7月30日、辞任。シーズン中の辞任は異例で、理由については、打撃不振の責任を取ったためとされているが、サンケイスポーツと東京スポーツはオーナーの三木谷浩史による現場への介入に不満がたまったことが最大の理由と報じている。田代を取材したことがあるスポーツライター・赤坂英一によると、2014年の件についても三木谷への不満が理由とされている。2015年10月29日に、読売ジャイアンツ(巨人)のファーム巡回打撃コーチに就任することが発表された。巨人では、二軍に加えて、2016年から新設される三軍の打撃指導も担当する。3月29日、二軍打撃コーチの二岡智宏が入院休養の間二岡の不在期間二軍打撃コーチ務める。ニックネームの「オバQ」は、プロ入り当初、間の抜けた受け答えをした田代に対して、沖山光利二軍打撃コーチが「おまえはオバQみたいな性格してるな」と表現したことに由来する。大洋では松原誠と双璧をなす長距離打者で、滞空時間の長い放物線を描くホームランを量産した。全盛期の横浜大洋初期時代に、球団の制度でヘルメットの横に打ったホームランの数だけ星印のシール(通称:ホームランスター)を付けていたが、その星印が上の方(頭頂部)に近いぐらいになる程であった。一方で「人間扇風機」とあだ名が示すように、打率は低く、3度のシーズン最多三振を喫するなど三振の多い打者(通算1081三振)でもあった。長く大洋の主力選手として活躍しながら、一軍ではベストナインやゴールデングラブ賞も含めてタイトルを獲得していない(この時期の同じサードで阪神の掛布雅之や広島の衣笠祥雄というセ・リーグの看板選手がいたため)。また優勝も現役時代は経験していない。オールスターゲームは1977年の一度のみ出場(1980年は選出されたが怪我により出場辞退)。

出典:wikipedia

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