惣無事令(そうぶじれい)は、豊臣秀吉が大名間の私闘を禁じた法令とされるもの。藤木久志によって提唱され定説化したが、現在では様々な疑問が提出されている。藤木久志は、刀狩令や海上賊船禁止令、喧嘩停止令など、私闘を抑制する一連の法令と併せて豊臣平和令(とよとみへいわれい)という概念を提唱した。これは神聖ローマ帝国のラント平和令などに示唆を受けている。豊臣平和令のうち、大名間の私的な領土紛争を禁止するものが惣無事令とされる。つまり、領土紛争においてはは、全て豊臣政権がその最高処理機関として処理にあたり、これに違反する大名には厳しい処分を下すという法令である。また、秀吉は関白の立場を明確に示す形で、あくまでも天皇の命令(勅定)によって私闘禁止(天下静謐)を指令するという立場を掲げたと藤木久志は考えた。惣無事令は、1585年(天正13年10月)に九州地方、1587年(天正15年12月)に関東・奥羽地方に向けて制定された。惣無事令の発令は、九州征伐や小田原征伐の大義名分を与えた。特に真田氏を侵略した後北条氏は討伐され北条氏政の切腹に至り、また伊達政宗、南部信直、最上義光らを帰順させる事に繋がった(奥州仕置)とされる。この惣無事令によって、天正十六年の後陽成天皇の聚楽第御幸の際など、参集した全国の諸大名から関白である秀吉への絶対服従を確約する誓紙を納めさせ、その違背に対して軍を動員した包囲攻撃のみならず、一族皆殺しを含む死罪・所領没収ないし減封・転封といった厳罰を与えた。いわば、天下統一は惣無事令で成り立ち、豊臣政権の支配原理となったのである。惣無事という表現は2.の段階で現れる。上記の2つは著名であり「日本史史料3」岩波書店などの学術用の日本史史料集に掲載されている。特に2.の「多賀谷修理進」宛書状の年次比定は、惣無事令論の是非に大きな影響を及ぼす。藤木久志は天正15年、鴨川達夫は天正16年とする。一方、粟野俊之・藤井譲治らは天正14年に比定している。上記のような文書を「惣無事令」という豊臣秀吉が統一権力として施行した法令と考えることには、竹井英文と藤井譲治から批判がなされている。なぜなら秀吉以前にも、信長や足利将軍をはじめ、権力者が出した停戦令は数多くあったからである。例えば、織田信長は、1582年(天正10年)の甲州征伐後の東国統治において、「惣無事」と称して戦闘停止を命じている。また、「惣無事」という言葉も戦国期を通じて関東などにおいて用いられていたものだった。また「惣無事令」の根拠となっている文書の多くは、単に秀吉に接触してきた領主たちに対する返書であったり、個別の領主に対する委任に過ぎなかったりするのである。すなわち、従来「惣無事令」とされてきたものは、強力な政権が一方的に領主に対して命じた「令」という性質のものではなく、秀吉が東国の領主たちを支配下に置く過程で彼らに対して行った働きかけの集積にすぎない。それにもかかわらず、それを「惣無事令」と呼び習わすことは、実態に即していないこととなる。また、藤木が提唱するに当たり行なった各種文書の年代確定にも疑問が呈されている。藤井譲治は「惣無事令」とされる文書が秀吉の関白任官前に発給されたものでないことを指摘した。そのため、秀吉の関白任官を前提とする「勅定による惣無事令」という藤木久志の見解は成立しなくなった。。「惣無事令」が法令にあたらないという見解に対しては、丸島和洋らによって再反論がなされている。すなわち、惣無事令論を中世法の一環であると位置づければ、法令として理解できるとする議論である。なお、「惣無事令」をめぐる議論の背景には、豊臣政権の基本的な性格をめぐる学説の対立がある。すなわち、秀吉が武力による強硬な外交政策を進めたという藤田達生などの見解と、秀吉の政策基調を社会の「平和」化にあるとする藤木久志らの見解の対立である。
出典:wikipedia
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