『八甲田山死の彷徨』(はっこうださんしのほうこう)は、世界山岳史上最大とも言われる犠牲者が発生した、青森県八甲田山における山岳遭難事故(八甲田雪中行軍遭難事件)を題材として新田次郎が執筆した山岳小説である。1971年(昭和46年)9月、新潮社より書き下ろしで刊行された。1978年(昭和53年)2月、新潮文庫版が刊行された。1977年(昭和52年)、『八甲田山』のタイトルで映画化された(高倉健、三國連太郎、北大路欣也主演)。日露戦争直前の1902年(明治35年)に、ロシアとの戦争に備えた寒冷地における戦闘の予行演習として、また陸奥湾沿いの青森から弘前への補給路をロシアの艦砲射撃によって破壊された場合を想定して、日本陸軍が八甲田山で行った雪中行軍の演習中に、参加部隊が記録的な寒波に由来する吹雪に遭遇し、210名中199名が死亡した八甲田雪中行軍遭難事件を題材にした山岳小説。演習当日には、北海道で史上最低気温が記録されるなど、例年の冬とは比べ物にならない寒さだったといわれている。この作品はノンフィクション小説として扱われることも多いが、実際には、事実を題材としながらも作者自身の解釈や創作が加えられたフィクションである。作品中では青森第5連隊と弘前第31連隊が共通の目的の下に協調して雪中行軍を計画したように描かれているが、これは事実ではない。実際には双方の計画は個別に立案されたもので、実施期日が偶然一致したにすぎない。また、作中で描かれる双方の指揮官の交流も新田の創作であり、両隊になんらかの情報交換があったか否かについては、現在残されている資料からは確認できない。人物描写の都合上メインとなる神田大尉(史実の神成文吉大尉)と山田少佐(史実の山口鋠少佐)の描写も、神田大尉寄りにかなり脚色されている。本事件については、新田の小説に先行して、青森県の地元紙記者だった小笠原孤酒が長年にわたる資料収集や第5連隊の生還者(小原元伍長)への聞き取り調査などに基づいてまとめた書籍『吹雪の惨劇』が存在した。こちらは『八甲田山死の彷徨』とは違い、ノンフィクションを志向している。ただし、出版社を通さない私家本であるため、『八甲田山死の彷徨』に比べ知名度は低い。これを知って取材を申し入れた新田に対し、小笠原は資料提供や現地案内など多くの助力を提供した。新田もあとがきで小笠原に対する謝辞を記している。一方で、新田が作品中で遭難に至った青森第5連隊の行軍計画を「人体実験」と表現した点について、小笠原は大きなショックを受け、作品そのものについては否定的な評価を残している。小笠原の足跡などを記した書籍『八甲田死の雪中行軍真実を追う』(三上悦雄、河北新報出版センター)も存在する。青森歩兵第5聯隊は、中隊編成で、青森市から八甲田山に入り八甲田山中にある田代元湯(現在廃湯)に1泊、さらに野営1泊後に聯隊に帰営する雪中行軍を計画する。しかし準備と経験とを欠いた状態のまま難所に差し掛かり、猛吹雪により進路を誤り遭難した。弘前歩兵第31聯隊は地元出身者を主体に編成され、徳島大尉は1年前に雪中行軍演習を行った経験を持っていた。綿密な下準備を行なった上で、大人数では危険な雪山で行動力が低下する恐れがあるため比較的小規模な小隊編成とし、また徴兵されて在営している兵卒は徳島大尉の従卒と八甲田山系出身者の計4名にとどめ、あとは雪山の経験があり身長制限を通過した将校・下士のみ(他に東奥日報記者が1名随行)で行軍隊を構成した。弘前市を出発し十和田湖畔を通り一旦三本木町(現十和田市)に出て、三本木町から八甲田山中を通って青森市に抜け、さらに青森市から梵珠山を走破し弘前に帰営する総距離240kmを11日で踏破する計画(ただし青森市から弘前市へのルートは第5聯隊の遭難発覚後に中止し、汽車で帰営)で、落伍者なく成功させた。ただし途中で下士官1名が転倒して足首を痛め、それまでにまとめられた報告書を託され、馬車と鉄道を乗り継いで弘前へ戻されている。
出典:wikipedia
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