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卑弥呼

卑弥呼(ひみこ、175年 - 247年あるいは248年頃)は、『魏志倭人伝』等の中国の史書に記されている倭国の王(女王)。邪馬台国に都をおいていたとされる。封号は親魏倭王。後継には宗女の壹與が女王に即位したとされる。「魏志倭人伝」によると卑弥呼は邪馬台国に居住し(女王之所都)、鬼道で衆を惑わしていたという(事鬼道、能惑衆)。この鬼道や惑の意味には諸説あり正確な内容は不明。ただし中国の史書には、黎明期の中国道教のことを鬼道と記している例もある。既に年長大であったが夫を持たず(年已長大、無夫壻)、弟がいて彼女を助けていたとの伝承がある(有男弟佐治國)。王となってから後は、彼女を見た者は少なく(自爲王以來、少有見者)、ただ一人の男子だけが飲食を給仕するとともに、彼女のもとに出入りをしていた(唯有男子一人、給飲食、傳辭出入)。宮室は楼観や城柵を厳しく設けていた(居處宮室・樓觀、城柵嚴設)。卑弥呼が死亡したときには、倭人は直径百余歩(この時代の中国の百歩は日本の二百歩に相当する)もある大きな塚を作り、奴婢百余人を殉葬したとされている(卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、狥葬者奴碑百餘人)。塚の大きさが直径で記されているところから、円墳であったと考えられる。『三國志』(三国志)の卷四 魏書四 三少帝紀第四には、正始四年に「冬十二月倭國女王俾彌呼遣使奉獻」とある。『三国志』魏書東夷伝、『後漢書』の通称倭伝(『後漢書』東夷傳)、『隋書』の通称倭国伝(『隋書』卷八十一 列傳第四十六 東夷 倭國)、『梁書』諸夷伝、『三国史記』新羅本紀では表記は「卑彌呼」、『三国志』魏書 帝紀では「俾彌呼」と表記されている。一説には、中華思想により、他国の地名、人名には蔑字を使っている為に、この様な表記となっている。また他の一説には、古代日本語を聞いた当時の者が、それに最も近い自国語の発音を当てた為に、また(中国から見て)単に外来語であることを表す目印として先頭の文字を特別なものとしているというものがある。これは現代日本語でのカタカナの使用や英語での固有名詞の表記、ドイツ語での名詞の表記に似た方法である。現代日本語では一般に「ひみこ」と呼称されているが、当時の正確な発音は不明。など諸説ある。一方、中国語発音を考慮すると、当時の中国が異民族の音を記す時、「呼」は「wo」をあらわす例があり(匈奴語の記述例など)、卑弥呼は「ピミウォ」だったのではないかとする説もある。弥生時代の日本語の発音および当時の中国語の音写の法則については説が確立していない。日本側の古事記表記の比売后〈Bǐ mài hòu〉比咩后(Bǐ miē hòu)説以外には類似する発音は今のところ存在しない。これからは古代日本語の音韻論及び古代漢語の発音を究明する「音韻学」を基本に考察し模索していかねばならない。魏志倭人伝では、卑弥呼の死の前後に関し以下の様に記述されている。この記述は、247年(正始8年)に邪馬台国からの使いが狗奴国との紛争を報告したことに発する一連の記述である。卑弥呼の死については年の記載はなく、その後も年の記載がないまま、1年に起こったとは考えにくい量の記述があるため、複数年にわたる記述である可能性が高いが、卑弥呼の死が247年か248年か(あるいはさらに後か)については説が分かれている。また247年(正始8年)の記述は、240年(正始元年)に梯儁が来てから以降の倭の出来事を伝えたものとし、卑弥呼の死も240年から246年までに起きた出来事とする考えもある。「以死」の訓読についても諸説ある。通説では、「以」に深い意味はないとするか、「死スルヲ以テ」つまり「死んだので」墓が造られた、あるいは、「スデニ死ス」と読み、直前に書かれている「拜假難升米 爲檄告喻之」(難升米が詔書・黄幢を受け取り檄で告諭した)の時点で卑弥呼はすでに死んでいた、と解釈する。この場合、死因は不明である。一方、「ヨッテ死ス」つまり「だから死んだ」と読んだ場合、この前に書かれている、卑弥弓呼との不和、狗奴国との紛争もしくは難升米の告諭が死の原因ということになる。そのために狗奴国の男子王の卑弥弓呼に卑弥呼は殺されたと考える説もある。天文学者の斎藤国治は、248年9月5日朝(日本時間。世界時では9月4日)に北部九州で皆既日食が起こったことを求め、これが卑弥呼の死に関係すると唱えた。井沢元彦も『逆説の日本史』でこの説を支持している。さらに、橘高章と安本美典は、247年3月24日夕方にも北部九州で皆既日食が起こったことを指摘し、247年の日食が原因で卑弥呼が殺され、248年の日食が原因で男王に代わり壹与が即位したと唱えた。これらの説は、邪馬台国北九州説や卑弥呼・天照大神説と密接に結びついている(ただし不可分ではない)。しかし現在の正確な計算によると皆既日食は日本付近において、247年の日食が朝鮮半島南岸から対馬付近まで、248年の日食が隠岐付近より能登半島から福島へ抜ける地域で観測されたと考えられ、いずれの日食も邪馬台国の主要な比定地である九州本島や畿内の全域で(欠ける率は大きいが)部分日食であり、部分日食は必ずしも希な現象ではないことから、日食と卑弥呼の死の関連性は疑問視されている。卑弥呼は径百余歩の墓に葬られたとする。この墓がどこか様々な説がある。一歩 (尺貫法)の単位については、周代では約1.35m、秦・漢代では約1.38m、魏代では約1.44mと言われている。卑弥呼の死んだ時期は弥生時代から古墳時代への移行期に当たる。邪馬台国が畿内にあれば卑弥呼の墓は古墳の可能性があり、箸墓古墳(宮内庁指定では倭迹迹日百襲姫命墓)に比定する説もある。一方、九州説では平原遺跡や九州最大・最古級の石塚山古墳などを卑弥呼の墓とする説などがある。また、魏志では徇葬者は奴婢百餘人と記述されている。卑弥呼の墓は、古墳に埴輪が導入される以前だったかもしれないとの説もある。『日本書紀』垂仁紀には、野見宿禰(のみのすくね)が日葉酢媛命の陵墓へ殉死者を埋める代わりに土で作った人馬を立てることを提案したとあり、これを埴輪の起源とするためである。邪馬台国畿内説の奈良県桜井市の箸墓古墳を卑弥呼の墓とする説では、箸墓古墳の後円部は約150mで径百余歩に近いからとする。箸墓の築造年代は3世紀第3四半期頃に絞り込まれつつあり、この説は箸墓を寿陵とみるか否か、および卑弥呼の死去を何年頃と見積もるかに大きく依存することになる。また、奈良県御所市玉手山の尾根が径百余歩で、卑弥呼の墓という説が近年出された。この説は六代孝安天皇を卑弥呼の男弟とする説で、孝安が葬られたとする玉手山にその古墳が存在することを重要な根拠とする。九州にある石塚山古墳については、築造時期が3世紀中頃(古墳時代開始時期)〜4世紀初頭で、墳丘長は120m〜130m前後と考えられている。ヤマト王権の象徴である前方後円墳(国内でも最古級)である一方、吉備地方に起源をもつ特殊土器類(特殊器台・特殊壺)や埴輪は確認されていないという特徴を持つ。出土鏡はすべて舶載鏡(中国鏡)と考えられている。また、平原遺跡については古墳時代以前、弥生時代後期から晩期の5つの墳丘墓がある遺跡である。1号墓からは「大型内行花文鏡」が出土されているが、原田大六によってヤマト王権の三種の神器の一つ「八咫鏡」の起源であると主張されている。平原遺跡出土の「大型内行花文鏡(内行花文八葉鏡)」は直径46.5cm、円周は46.5×3.14 = 146.01cmであり、弥生時代後期から晩期にこのサイズの鏡が存在したことは確かとなっている。尚、咫(あた)は円周の単位ともされ、約0.8尺である。径1尺の円の円周を4咫としていた。したがって「八咫鏡は直径2尺(46cm 前後)の円鏡を意味する」といわれている。尚、『御鎮座伝記』には「八咫鏡」の形は「八頭花崎八葉形也」と記載されている。卑弥呼が『古事記』や『日本書紀』に書かれているヤマト王権の誰にあたるかが、江戸時代から議論されているが、そもそもヤマト王権の誰かであるという確証はなく、別の王朝だった可能性もある。また一方、北史(隋書)における「倭國」についての記述で、“居(都)於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也”「都は邪靡堆にあるが、魏志に則れば、いわゆる邪馬臺者である。」とあり、基本的には連続性のあるヤマト王権の誰かであるだろうとして『日本書紀』の編纂時から推定がなされている。中国の史書に残るほどの人物であれば、日本でも特別の存在として記憶に残るはず。ヤマト王権の史書編纂者にとって都合が悪い事実であっても何らかの形で記されたはずであり、日本の史書でこれに匹敵する人物は天照大神(アマテラスオオミカミ)しかないとする説。白鳥庫吉、和辻哲郎らに始まる。卑弥呼=倭迹迹日百襲媛命=天照大神の説もある。アマテラスの別名は「大日孁貴」(オオヒルメノムチ)であり、この「ヒルメ」の「ル」は助詞の「ノ」の古語で、「日の女」となる。意味は太陽に仕える巫女のことであり、卑弥呼(陽巫女)と符合するとする。卑弥呼の没したとされる近辺に、247年3月24日と248年9月5日の2回、北部九州で皆既日食がおきた可能性があることが天文学上の計算より明らかになっており(大和でも日食は観測されたが北九州ほどはっきりとは見られなかったとされる)、記紀神話に見る天岩戸にアマテラスが隠れたという記事(岩戸隠れ)に相当するのではないかという見解もある。ただし、過去の日食を算定した従来の天文学的計算が正しい答えを導いていたかについては近年異論も提出されている。安本美典は、天皇の平均在位年数などから推定すると、卑弥呼が生きていた時代とアマテラスが生きていた時代が重なるという。また卑弥呼には弟がおり人々に託宣を伝える役を担っていたが、アマテラスにも弟スサノオがおり共通点が見出せるとしている(一方スサノオをアマテラスとの確執から、邪馬台国と敵対していた狗奴国王に比定する説もある)。魏志倭人伝には卑弥呼が死去した後、男王が立ったが治まらず、壹與が女王になってようやく治まったとある。この卑弥呼の後継者である壹與(臺與)はアマテラスの息子アメノオシホミミの妃となったヨロヅハタトヨアキツシヒメ(万幡豊秋津師比売)に比定できるとする。つまり卑弥呼の死後男子の王(息子か?)が即位したが治まらず、その妃が中継ぎとして即位したと考えられる。これは後のヤマト王権で女性が即位する時と同じ状況である。ちなみにヨロヅハタトヨアキツシヒメは伊勢神宮の内宮の三神の一柱であり(もう一柱はアマテラス)、単なる息子の妃では考えられない程の高位の神である。安本美典は、卑弥呼がアマテラスだとすれば、邪馬台国は天(『日本書紀』)または高天原(『古事記』)ということになり、九州にあった邪馬台国が後に畿内へ移動してヤマト王権になったとする(邪馬台国東遷説)。それを伝えたのが『記紀』の神武東征であるとしている。また井沢元彦は『逆説の日本史』で、伊勢神宮はアマテラスを祀った施設で宇佐八幡宮はそのモデルとなった卑弥呼を祀った墓所であるとし、卑弥呼が祀られた理由をタタリへの恐怖心と断定している。この説の難点としては九州にあった邪馬台国が東遷して畿内に到着したとは限定できず、畿内で卑弥呼女王の邪馬台国や倭国連合も創立されたとする説も十分成り立つところである。また、そもそも「皇祖神たる太陽女神」なる観念そのものがさして古いとはいえない説があり、事実、『隋書』にあり『日本書紀』に記述がない第一回目の遣隋使(名前の記述なし)の記事には、倭国の倭王が天と日を兄と弟としていた(「俀王以天爲兄 以日爲弟」)とある。天照大神という神格は天武天皇の時代に始まるとする説もある。また、天照大神は本来は男性の神とする説もある。また、「ヒルメ」を「日の女」であるから巫女である、とする説は他に「〜ノメ」を巫女とする用例がなく(ミヅハノメやイワツツノメなどは巫女とされた例はない)、根拠に乏しい。「大日孁貴」の孁字が説文解字において巫女、妻の意があるとする説は説文解字に「女字也」とのみあることから、これは誤りである。『海部氏勘注系図』『先代旧事本紀』尾張氏系譜に記される、彦火明六世孫、宇那比姫命(うなびひめ)を卑弥呼とする説。この人物は別名を大倭姫(おおやまとひめ)、天造日女命(あまつくるひめみこと)、大海靈姫命(おおあまひるめひめのみこと)、日女命(ひめみこと)ともある。この日女命を卑弥呼と音訳したとする。またこの説では、卑弥呼の後に王位に就いたとされる台与(とよ)を、系図の中で、宇那比姫命の二世代後に記される、天豊姫(あまとよひめ)とする。また和邇系図では和邇氏の祖天足彦国押人命の子である押媛命と和爾日子押人命の母をこの宇那比媛命としており、宇那比媛命には配偶者がいたことになる。いずれにしろ両系図の伝承を重んずる限り、宇那比姫はほぼ孝安天皇と同世代の人であり、孝安天皇は天足彦国押人命の実弟で、宇那比媛と孝安天皇は義理の姉弟という関係である。このことから魏志倭人伝にでてくる「卑弥呼の男弟」を孝安天皇のことだと解釈することもできる。孝霊天皇の皇女倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)は、『日本書紀』の倭迹迹日百襲姫命または倭迹迹姫命、『古事記』の夜麻登登母母曾毘賣命。近年、卑弥呼と同一人物として推定される候補の中では最有力の説となってきている。もともと『古事記』の崩年干支から歴代天皇の実年代を求めようという説は古くから数多く、崇神天皇崩御の戊寅年については258年とみる説がもっとも一般的であり、この場合、卑弥呼は記紀でいう崇神天皇と同時代となる。『日本書紀』により倭迹迹日百襲媛命の墓として築造したと伝えられる箸墓古墳は、邪馬台国の都の有力候補地である纏向遺跡の中にある。同時代の他の古墳に比較して規模が隔絶しており、また日本各地に類似した古墳が存在し、出土遺物として埴輪の祖形と考えられる吉備系の土器が見出せるなど、以後の古墳の標準になったと考えられる重要な古墳である。当古墳の築造により古墳時代が開始されたとする向きが多い。この箸墓古墳の後円部の大きさは直径約160メートルであり、「魏志倭人伝」の「卑彌呼死去 卑彌呼以死 大作冢 徑百余歩」と言う記述に一致している。『日本書紀』には、倭迹迹日百襲媛命についての三輪山の神との神婚伝説や、前記の箸墓が「日也人作、夜也神作」という説話が記述されており、神秘的な存在として意識されている。また日本書紀では、倭迹迹日百襲媛命は崇神天皇に神意を伝える巫女の役割を果たしたとしており、これも「魏志倭人伝」中の「倭の女王に男弟有り、佐(助)けて国を治む」(有男弟佐治國)という、卑弥呼=倭迹迹日百襲媛命と男弟=崇神天皇との関係に類似する。もっとも、倭迹迹日百襲媛命は崇神天皇の親戚にあたるが、姉ではない。そこで、『魏志倭人伝』は崇神天皇と百襲媛命との関係を間違って記述したのだという説(西川寿勝などが提唱)が存在する。さらに魏志倭人伝の「卑彌呼以て死す。(中略)徇葬する者、奴婢百余人。」と、日本書紀の「百襲」という表記の間になんらかの関連性を指摘する向きもある。従来、上記の箸墓古墳の築造年代は古墳分類からは3世紀末から4世紀初頭とされ、卑弥呼の時代とは合わないとされてきた。しかし最近、年輪年代学や放射性炭素年代測定による科学的年代推定を反映して、古墳時代の開始年代が従来より早められた。箸墓古墳の築造年代についても、研究者により多少の前後はあるものの卑弥呼の没年(248年頃)に近い3世紀の中頃から後半と見る説が最近では一般的になっている。現在では畿内説論者でも、卑弥呼を具体的に記紀の登場人物にあてはめようとする説は多くないが、記紀の登場人物にあてはめる場合には倭迹迹日百襲媛命とされることがもっとも多い。この説の弱点は、倭迹迹日百襲媛命が、皇族の一人ではあっても、「女王」と呼べるほどの地位と権威を有していたとは、考えにくいことである。安本美典の批判するところによれば、「「魏志倭人伝」には、卑弥呼が亡くなって国中に争いが起きたと記述があるが、「日本書紀」等我が国の文献では、百襲媛命は天皇の親戚の巫女に過ぎず、亡くなって国中に争いが起きるほどの重要人物だとはとうてい考えられず、両者を同一人物とするには矛盾がある」となる。しかし、日本書紀によれば、倭迹迹日百襲媛命が亡くなった後、崇神天皇は群臣に「今は反いていた者たちはことごとく服した。畿内には何もない。ただ畿外の暴れ者たちだけが騒ぎを止めない。四道の将軍たちは今すぐ出発せよ」という詔を発し、四道将軍に各地方の敵を平定させており、国中に争いが起きたことは確かであって、安本美典の批判は当たらない。記紀は律令国家時代の編纂なので、初期の天皇も中華式の王朝として描き、天皇より上の権威を認めなかったが、上述のように倭迹迹日百襲媛命の墓は崇神天皇陵より巨大であって、当時は天皇よりも権威をもっていた可能性が高い。戦前の代表的な東洋史学者である内藤湖南は垂仁天皇の皇女倭姫命(やまとひめのみこと)を卑弥呼に比定した。この説の支持者には橘良平、坂田隆などがいるが倭迹迹日百襲媛命説と比べると支持者は極めて少ない。『日本書紀』の「神功皇后紀」においては、「魏志倭人伝」の中の卑弥呼に関する記事を引用しており、卑弥呼を神功皇后と同一視できるように編集されている。この説への反論としては、神功皇后の百済関係の記事が、卑弥呼よりも120年(干支2回り)あとの時代のものであり、それを120年繰り上げているために卑弥呼の時代ではありえないことが井上光貞ほかから指摘されている。しかし、古事記の神功皇后には干支を伴った朝鮮関係の記事はなく、朝鮮関係記事は日本書紀編纂時に組み込まれたものにすぎないことは通説になっているため、この批判は「組み込まれる前の帝紀の原形がどうなっていたか」とはとりあえず関係がなく、これをもって神功皇后説を否定することはできない。現在でも、倭迹迹日百襲媛命説ほどではないがそれに次いで支持者が多い。また九州説論者でも神功皇后説を採る論者が何名もいる。本居宣長、鶴峰戊申、那珂通世らが唱えた説。本居宣長、鶴峰戊申の説は卑弥呼は熊襲が朝廷を僭称したものとする「偽僣説」である。本居宣長は邪馬台国を畿内大和、卑弥呼を神功皇后に比定した上で、神功皇后を偽称するもう一人の卑弥呼がいたとした。ニセの卑弥呼は九州南部にいた熊襲の女酋長であって、勝手に本物の卑弥呼(=神功皇后)の使いと偽って魏と通交したとした。また、宣長は『日本書紀』の「神代巻」に見える火之戸幡姫児千々姫命(ヒノトバタヒメコチヂヒメノミコト)、あるいは萬幡姫児玉依姫命(ヨロツハタヒメコタマヨリヒメノミコト)等の例から、貴人の女性を姫児(ヒメコ)と呼称することがあり、神功皇后も同じように葛城高額姫児気長足姫(カヅラキタカヌカヒメコオキナガタラシヒメ)すなわち姫児(ヒメコ)と呼ばれたのではないかと憶測している。那珂通世も、大隅国姫木を邪馬台国とし、卑弥呼は九州の女酋であり、朝廷や神功皇后とは無関係であるとする。星野悟は、新井白石が邪馬台国を筑後国山門郡に比定したのを承けて、卑弥呼は山門郡にいた土蜘蛛(土着の豪族)の田油津媛(日本書紀によると神功皇后に成敗されたという)の先代にあたる女酋だとした。宣長は日本は古来から独立を保った国という考えに立っており、「魏志倭人伝」の卑弥呼が魏へ朝貢し倭王に封じられたという記述は到底受け入れられるものではなかった。これらの考えは、九州王朝説へと引き継がれている。九州王朝説を唱えた古田武彦は、『筑後風土記逸文』に記されている筑紫君の祖「甕依姫」(みかよりひめ)が「卑弥呼(ひみか)」のことである可能性が高いと主張している。また、「壹與(ゐよ)」(「臺與」)は、中国風の名「(倭)與」を名乗った最初の倭王であると主張している。ただし筑後風土記逸文の原文からは、甕依姫がいつ頃の人なのか不明でありその生存年代をうかがう術はまったくない。

出典:wikipedia

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