メジロパーマーは日本の競走馬、種牡馬。逃げ馬として知られ、1992年の宝塚記念、有馬記念に優勝、史上4頭目の春秋グランプリ連覇を達成した。同年のJRA賞最優秀5歳以上牡馬および最優秀父内国産馬。2016年現在、障害競走転向から平地競走に復帰しGI競走に優勝した唯一の馬である。馬名は馬主の冠名「メジロ」と、プロゴルファーのアーノルド・パーマーに由来する。1987年、北海道洞爺湖町のメジロ牧場で生まれる。父は本馬と同様に逃げ馬として人気を博したメジロイーグル。同期にはいずれも後にGI競走に優勝するメジロマックイーン、メジロライアンらがおり、のちに「メジロ'87年組」と称される豊年の生まれだった。しかし、幼駒時から高い評価を受けていたマックイーン、ライアンに対し、本馬はさほど大きな期待はされていなかった。3歳時に栗東トレーニングセンターの大久保正陽厩舎に入り、8月にデビューを迎える。2度の2着を経て3戦目で初勝利を挙げると、次走のオープン特別戦も連勝する。しかしその後の2戦を着外(5着以下)に敗れると、京都3歳ステークスの競走後に左後脚の骨折が判明、長期休養を余儀なくされた。翌年6月に復帰するも精彩を欠き、重賞初出走となった函館記念の競走後に再び骨折し、再度の長期療養となった。古馬となっての復帰緒戦は12着と惨敗。ここで陣営はメジロパーマーの障害転向を検討し、平地競走に出走する傍らで障害練習が始められた。獲得賞金規定により500万下クラスに降格する夏の成績次第での入障が検討されたが、降格後初戦を2着とした後、次走・十勝岳特別を大差で逃げ切り、約1年9ヶ月振りの勝利を挙げた。これを受け、続いては格上挑戦でGIIIの札幌記念に出走。51kgの軽量も利して逃げ切り、重賞初優勝を果たした。しかし以降は再び精彩を欠き始め、10月に出走した京都大賞典では最下位に惨敗した。これを受けて改めて障害転向が決定し、11月に障害競走デビューを迎えた。この初戦は圧倒的な1番人気に応えて6馬身差で勝利、次走でも2着となったが、競走後には全身傷だらけで戻ってくるなど飛越が下手であった。このため人馬共に事故が起きかねないという判断で、この2戦のみで障害に見切りを付け、休養に入った。翌年春に復帰すると、2戦を消化して出走した新潟大賞典で重賞2勝目を挙げる。次走の宝塚記念では、メジロマックイーンの骨折休養により有力馬不在となった中でも9番人気という低評価だった。しかし1番人気のカミノクレッセに3馬身差を付けて逃げ切り、GI初制覇を果たした。鞍上を務めた山田泰誠にとっても、これがデビュー4年目でのGI初優勝となった。他方、この優勝は馬主さえ予想しておらず、マックイーンが出走不可能となった時点で牧場からの応援観戦予定が取り消しとなっていたため、通常は関係者が一堂に整列して行う記念撮影等も、非常に簡素なものになった。秋は前年最下位の京都大賞典から始動し、2番人気に支持されたが9着と敗れる。続く天皇賞(秋)も、前半1000mを57秒5というハイペースで逃げた結果、ブービーと惨敗。「宝塚記念優勝はフロック」という評価を付され、有馬記念に出走した。春の骨折から復帰した前年のクラシック二冠馬トウカイテイオー、この年の菊花賞でミホノブルボンの三冠を阻んだライスシャワー等が揃う中、メジロパーマーは春のグランプリを制しながら16頭立て15番人気という評価だった。スタートが切られると、序盤から単騎逃げでレースを先導、途中上がってきたダイタクヘリオスと共に後続に10数馬身の差を付ける大逃げ打ち、第4コーナー手前で失速したヘリオスを尻目に直線で独走。最後は追い込んできたレガシーワールドをハナ差で凌ぎきり、史上5頭目の春秋グランプリ連覇を果たした。馬連配当3万1550円は、有馬記念史上最高の払戻額となった。この年のGI競走2勝が評価され、翌1月には最優秀5歳以上牡馬と最優秀父内国産馬に選出された。なお、山田泰誠が主戦であり続けた理由の一つに「独特の手首の返しがこの馬に合っている」との話もある。7歳シーズン初戦には、天皇賞(春)の前哨戦・阪神大賞典に出走。大逃げを見せる。最後の直線ではナイスネイチャに一度は馬体を併せられながらもゴール前で再び突き放し、3分9秒2のレコードタイムで優勝した。3年連続出走となった天皇賞(春)では、いったん抜かされたメジロマックイーンに食い下がって、ライスシャワー、メジロマックイーンに続く過去最高の3着に逃げ粘り、グランプリホースの存在感を示した。しかし連覇を目指して出走した宝塚記念では、掛かったニシノフラワーに競られてメジロマックイーンの10着と大敗すると以降は低迷し、秋は4戦して全て着外に終わった。そして迎えた8歳シーズン初戦の日経新春杯で60.5kgのトップハンデを背負いながらムッシュシェクルの2着と好走したのを最後に、競走馬を引退した。競走馬引退後は北海道のアロースタッドで種牡馬として繋養された。しかし産駒には障害重賞の京都ハイジャンプを制したメジロライデンがいる程度で、総合的に種牡馬成績は芳しくなく、2002年を最後に種牡馬からも引退した。以後は故郷のメジロ牧場で功労馬として過ごしている。2006年には函館競馬場で行われたイベントに参加し、パドックでその姿がファンに公開された。ちなみに前年はメジロマックイーンが、翌年はメジロライアンが同様のイベントに参加している。なお、初めて母父ともにメジロの冠名の付くメジロ牧場生産の種牡馬でもある(母父ともにメジロの冠名の付く種牡馬は同期で1年早く種牡馬入りしたメジロマックイーンがいるが、マックイーンはメジロ牧場生産ではなく吉田堅の生産である)。2012年4月7日、功労馬として余生を送っていたレイクヴィラファームにて、心臓麻痺にて死亡した。25歳であった。逃げ切りか惨敗かという極端な成績、「障害帰り」という異色の経歴、父子二代の逃げ馬という背景などから、同時代屈指の個性派として人気を博した。また、数々の騎手が騎乗した中でも特に6歳以降の山田泰誠とは名コンビとされた。元々はレースで不真面目な態度を見せるパーマーに対し、馬の我儘を許さない山田の性格が買われて主戦騎手に抜擢されたもので、「大逃げ」という戦法で一流馬に成長させたのは山田であるという評価もある。他方、その実力に対しては春秋グランプリを連覇してもなお「フロック」という評価が根強く、有馬記念後に出走した阪神大賞典で牝馬のタケノベルベットにも劣後する3番人気であったことからも窺える。このため、山田はマスコミに対し常々「パーマーは本当に強い馬なんです」と訴えていた。また競馬評論家の井崎脩五郎は、1992年に出走した天皇賞(春)で史上屈指のハイペースで逃げながら7着となったのを見て「あのハイペースで逃げたなら最下位が当たり前なのに、7着とは相当強い」と感じたと述べている。障害転向については単に経歴に色を付けたのみに留まらず、障害練習を行ったことにより、腰回りをはじめとする後躯の筋肉が強化され、本格化を促したという説もあるが、管理した大久保は馬自身の成長であるとしている。
出典:wikipedia
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