井上 隆智穂(いのうえ たかちほ、1963年9月5日 - )は、日本の元フォーミュラ1ドライバーで元レーシングドライバー、実業家。兵庫県神戸市出身。血液型:O型。海外では「タキ・イノウエ (Taki Inoue) 」と呼称及び表記されることが多い。神戸生まれ。幼少期に生沢徹などが載った雑誌などを見たことがきっかけでレーサーを志すようになる。12歳の時には両親に内緒でレーシングカートを購入し、近所をバイクで走っていた高校生に混じって住宅街を走ったりしていた。1985年に富士フレッシュマンシリーズに参戦してレースデビュー。1987年にはイギリスに渡りジム・ラッセル・レーシングスクールに入学する。その頃、デイビッド・シアーズにライセンスの有無、スポンサーの有無を尋ねられレースに誘われる。1988年にはイギリスのフォーミュラ・フォード1600に参戦した。当初はスポンサーの無い状態で走ったがすぐに資金不足となり、物乞いするように会社を訪ね歩いたという。1989年に日本に帰国したもののスポンサーを見つけることができずレースから離れる。1990年から全日本F3選手権にシリーズ参戦した(チームはクリアリーカナディアン ・ダラーラ)。1991年からは英会話教室などを運営するNOVA GROUPのレース部門として株式会社スーパーノヴァ・レーシングとして参戦を開始した。バブル景気絶頂期、またその影響が残る中で参戦台数が40台近くになるなど参戦台数が多く、さらに少数派であったダラーラシャシーであるもののコンスタントにポイントを獲得し、1992年にはポイントランキング10位、1993年に同9位(ランキング10位は同じく後のF1ドライバーの高木虎之介)。最高位は4位という好成績を収めた。また1993年は、チームメイトに後に同じくF1にステップアップした中野信治を起用し、中野がポイントランキング5位を獲得した。F3では一貫してダラーラ・シャシーに乗り、「ダラーラ・ワークス」と中継などでも言われることがあったが、これはチームを設立した際、国内のラルト製シャシー販売代理店ル・マン商会がラルト・シャシーの販売を断ったため、当時日本未参入だったイタリアのコンストラクターのダラーラに注文せざるを得なかったという事情がある。その後、井上はダラーラ・シャシーの日本総輸入元を請け負った(現在は先述のル・マン商会である、現・株式会社ルマンが代理店である)。1994年には再びヨーロッパに渡り、国際F3000選手権にチームと共にステップアップした。上位入賞を度々飾ったチームメイトのヴィンセンツォ・ソスピリに比べ、井上の成績は安定していたものの表彰台獲得は果たせなかった(最高位7位)。なおこの頃井上はスポンサーでもあるNOVA GROUP総帥猿橋望の「秘書的な役割」を担っており、レースの無い平日には日本に戻りNOVAの東京本部に勤務していたという。上記のとおり国際F3000選手権に参戦していたが、のF1日本GPに日本企業のNOVAやユニマットなどのスポンサーを持込み、新興チームのシムテックからF1デビューを果たす。非力なマシンでしかも初めてのレースにもかかわらず、予選をチームメイトのデビッド・ブラバムから2つ後ろの26位で通過したものの、決勝レースは豪雨でホームストレートに「川」ができていたため、片山右京やジョニー・ハーバートなどほかの複数のドライバー同様にホームストレート上でスピンして5周でリタイアした。国際F3000で所属していたのがスーパーノヴァレーシング(大口出資者に語学学校のNOVAがいた)で、F1参入の際もNOVAがスポンサーであったため、古舘伊知郎はTVの実況で井上を「F1駅前留学」と評した。当初は1995年よりスーパーノヴァ・レーシングによるF1参戦を視野に入れ、元トムスGBのスタッフと共にデザインを起こすまで進められていたが中断した。さらにシーズン後に行われたF3000のテスト走行では終始好タイムを出していたために、F1シーズン参戦とF3000継続を迷ったものの、後述のようにF1シーズン参戦のオファーがあったためにF1への本格ステップアップを決めた。翌1995年にはかつて鈴木亜久里が所属していた中堅チームのフットワークに移籍してF1フル参戦した。F1にシーズンフル参戦した日本人レーシングドライバーとしては中嶋悟(1987年)、鈴木亜久里(1989年)、片山右京(1992年)に次ぐ4人目であり、さらに3人とは違い、日本の自動車メーカーからのサポートを全く受けずに参戦を実現したため注目を浴びた(中嶋はホンダ、鈴木はヤマハと無限、片山はヤマハのエンジンを搭載したマシンで参戦している)。しかし、チームの資金不足やエンジンパワーに劣るハートエンジンを搭載したマシンの競争力、信頼性の低さにも苦しめられ、予選では3回チームメイトを上回ったものの、完走5回、最高位はイタリアGPの8位であった。この年の井上は、2度の珍しい事故に見舞われた。なおこの年、スーパーノヴァ・レーシングは国際F3000シリーズタイトルを獲得。ドライバーズランキングもヴィンセンツォ・ソスピリがチャンピオン、リカルド・ロセットが2位という成功を収めた。なお、この時のドライバーは共に1997年にデビューしたローラ・チームよりF1にエントリーしたものの、両者共に予選落ちし、ローラが開幕戦のみで撤退をしたため、シートを失う目に合った。1996年は当初ミナルディからの参戦が発表され、フィオラノ・サーキットでのテスト走行も行っていたが、シーズン開幕直前になって突如井上はシートを失う。持込みスポンサーであるユニマットが急きょ他のチームへのスポンサーを決めたために、参戦の後ろ盾を失ったためとも報じられた。後に井上はこれを『Racing On』誌のインタビューで認めたが、詳細は語ろうとしなかった。結局このまま井上はF1を去ることとなった。日本の大手自動車メーカーの後ろ盾がないままに(つまり自分自身のスポンサー活動による資金調達のみで)F1にレギュラー参戦した日本人ドライバーは、井上の引退時点においては他におらず、井上は各インタビューで「F1はビジネスだから、ボクみたいな技術でも金さえ払えばF1ドライバーになれる」「それを(日本の)もっと若いドライバーは知るべきだ」などと発言している(外部リンク参照)。その一方F1速報でのインタビュ-では自らが国内海外で目立った成績を残していないことにもかかわらずスーパーライセンスが発給されたことに対しては「自分がスーパーライセンスをお金で買ったとか言うけれど、そんな人はいない」と語っている。F1以後は1996年の鈴鹿1000kmにコンラッド・モータースポーツから参戦したのと(18周リタイア)、1999年の全日本GT選手権第2戦からクラブイエローマジックのフェラーリ・F355でGT300クラスに参戦した程度で、耐久レースやトップカテゴリーへのシーズン参戦への復帰のないままドライバー活動を終えている(しかし下記のように、その後も様々な形でレーシングマシンのドライブを行っている)。なお上記の全日本GT選手権への参戦であるが、JGTCのGT300のチームにF1シートを喪失したソスピリのためのシートを掴もうと帰国したが、チーム側から井上自身の参戦を熱烈にオファーされ、フェラーリに乗れるのであればと了承したという。レーシングドライバー引退後はモンテカルロに在住し、1998年ごろより、イギリスでの若手ドライバー育成への限界を感じ、スーパーノヴァ・レーシングの株をシアーズ親子に売却し、オーナーの座を退く。ドライバーとしてはすでに第一線を引いており、ソスピリの他に高橋毅のマネージメントを担当していた。日本と往復しつつ様々なビジネスに取り組んでおり、一時は2002年に倒産したレイナードの欧州における資産を引き継いだとされる「International Racing Management(IRM)」社の経営陣にも名前を連ねていた。2001年にスーパーノヴァの同僚だったヴィンセンツォ・ソスピリが、イギリスの「フォーテック・モータースポーツ」に協力する形で設立した「フォーテック・イタリア・モータースポーツ」にスーパーノヴァのデイビッド・シアーズと共に旧型F3000マシンや人員、資金を提供し「ユーロノヴァ・レーシング」と改名した。井上がチームオーナー、ソスピリが社長兼チーム監督として、ジュニアフォーミュラカテゴリで活動している。かつては下田隼成(2001年フォーミュラ・ルノーイタリア)、関口雄飛(F3マカオGP)、現在は 佐藤公哉、黒田吉隆、笹原右京、道見ショーン真也、澤田真治ら若手日本人ドライバーのヨーロッパ挑戦をサポートしている。「フォーテック・イタリア・モータースポーツ」時代はスーパーノヴァ・レーシングや英会話のNOVAと共通したロゴを使用していた。2011年シーズンをもってスーパーノヴァレーシングがGP2から撤退したが、本人のツイッターによれば、それまで「フルスポンサー」とよべる程度の支援を行っていたようである。同時期から、南アフリカのシエラレオネに「サンダーボール」という名の鉱山会社を運営しており、盟友デイビッド・シアーズも関わりを持っているようである。また、関口雄飛やケイ・コッツォリーノ、石川資章などとの交流も伝えられている。また週刊プレイボーイや東京中日スポーツなどで連載を持ちつつ、ツイッターやFacebookを活用しており、レーシング関係のみならず、政治・経済など様々なジャンルに発言を行い、現役時代さながらの舌鋒で発信している。F1やGP2チームの経営事情やドライバーの移籍情報に詳しく、2012年よりキミ・ライコネンがF1復帰することを世界中のどのメディアよりも速くリークし、小林可夢偉のザウバー離脱についても語っていた。
出典:wikipedia
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