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虹と雪のバラード

「虹と雪のバラード」(にじとゆきのバラード)は1972年2月に開催された札幌オリンピックのテーマソングである。本曲は作詞:河邨文一郎、作曲:村井邦彦。五輪開幕2年前の1970年、NHKは河邨に作詞を依頼する際に、の3つを要望した。依頼を受けた当初はなかなか構想がまとまらず、河邨は2週間ペンが進まなかったという。1971年2月から3月までNHK『みんなのうた』の「札幌五輪のうた」のコーナーで流された。東京オリンピックのテーマ曲である「東京五輪音頭」や日本万国博覧会のテーマ曲である「世界の国からこんにちは」の例に倣い、この曲も複数歌手による競作となり、トワ・エ・モワ、黛ジュン、菅原洋一、ピンキーとキラーズ、佐良直美、トワ・エ・モワと同一の芸能事務所に所属していたジャッキー吉川とブルー・コメッツやスクールメイツなどが歌唱したが、最終的にトワ・エ・モワ版が定着しこの年の『第22回NHK紅白歌合戦』でもトワ・エ・モワがこの曲を歌った。2003年、河邨が初代教授を務めた札幌医科大学整形外科のパーティで、トワ・エ・モワが「虹と雪のバラードの詩碑はどこにあるのですか?」と質問したのをきっかけに詩碑建立計画が始まり、揮毫は河邨と交流が深かった書家の中野北溟、デザインは札幌市立高専教授で彫刻家の國松明日香に依頼した。2005年9月11日、札幌オリンピック ノルディックスキージャンプ競技の舞台となった大倉山ジャンプ競技場に詩碑が設置され、除幕式にはトワ・エ・モワの2人も参加してこの歌を熱唱した。なお、河邨は2004年3月30日に他界しており、詩碑の完成を見ることはできなかった。2011年から始まった「みんなのうた発掘プロジェクト」により、映像が提供され、2012年3月15日深夜(3月16日未明)放送の『みんなのうた発掘スペシャル』で、実に41年ぶりの再放送となった。なお同番組では当時の映像のほか、当時の曲名・歌詞などのテロップがそのまま放送された。札幌オリンピック当時は多くの学校で唱歌として採用された。そのため1番2番の歌詞を知っている人が多い歌でもある。今でも学校唱歌として、時々使用されている。また人が集まるイメージと、町ができあがるイメージなどを盛り込んだ歌としてオリンピック後も人々に親しまれ、時々CMソングとしても流れる事がある。札幌を代表する歌のひとつとしてさっぽろ雪まつりの会場内でも頻繁に流されている。トワ・エ・モワ版『虹と雪のバラード』は1971年8月25日 に発売され、オリンピックの開催に合わせたように徐々に売上を伸ばし、オリコン・チャートの7位まで上昇した。売上は累計で60万枚に達した。トワ・エ・モワの白鳥英美子は「河邨さんは“詩人”なんだなぁ、そしてこれは札幌に住んでいる方でないと書けない“深いところまで見据えた言葉遣い”をされているなぁと感じました。それまでのトワ・エ・モワの曲とは少し異なる行進曲風の曲調で、何度もなじむまで歌いました。」と、初めて歌詞を読んだ当時を回想している。トワ・エ・モワ版のシングル盤レコードの方は、小谷充がアレンジを担当した。その為、『みんなのうた』版(アレンジは川越守)と歌い方が若干異なる。トワ・エ・モワは1973年に解散していたが、1998年の長野オリンピックに先立ち再結成した。芥川澄夫は、札幌オリンピックの日の丸飛行隊の3人にこの曲を生で聞かせるよう求められたと話している。前作「生きるよろこびを」の発売から2週間後の1971年9月10日に発売された。多くのグループとの競作となったが、レコードはトワ・エ・モワが多くを売り上げたため、ブルー・コメッツ版のこの曲が表に出ることはあまり無かった。レコードジャケットには「札幌オリンピック組織委員会選定/札幌オリンピックの歌」と記されている。また、ジャケットに写るメンバーの写真は「海辺の石段」のB面・「冬の嵐」のジャケットで使われた写真がそのまま流用されている。B面は「愛の子守歌」(橋本淳 作詞、高橋健二 作曲、筒美京平 編曲)。ブルー・コメッツのベーシスト・高橋健二が作曲した歌謡曲風の曲。1970年12月10日に発売されたブルー・コメッツのアルバム「ベスト・オブ・ブルー・コメッツVol.2」に収録されたのが、この曲の初出である。

出典:wikipedia

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