


ハードバージ(1974年3月15日 - 1987年7月)は、日本中央競馬会に登録されていたサラブレッド競走馬である。1977年に福永洋一とのコンビで皐月賞に優勝した。同競走における福永の卓越した騎乗や、東京優駿(日本ダービー)における乗り替わり劇でも知られる。競走馬引退後の1981年より種牡馬となったが成績が振るわず、1986年の引退後は観光用馬に転用され、クラシック競走の優勝馬としては異色の晩年を過ごした。馬齢は2000年以前に使用された旧表記(数え年)に統一して記述する。1974年、北海道静内町の名門・藤原牧場に生まれる。父は凱旋門賞優勝馬ラインゴールドなどを出していたファバージ、母ロッチは中央競馬で3勝を挙げ、その母に優駿牝馬(オークス)と有馬記念に優勝したスターロッチがいた。幼駒の頃は小さく不格好な馬体で牧場を訪れる調教師から敬遠されていたが、放牧をすると低く沈み込むフォームで体の小ささを感じさせない動きを見せた。また、母、祖母と共通するカンの良さと根性を備えていた。競走年齢に達し、牧場と親交が厚く縁戚者でもあった伊藤雄二(栗東トレーニングセンター)の元に入厩。1976年7月にデビューしたが、3歳時は勝ち上がれず、初勝利を挙げたのは年明けの未勝利戦であった。初勝利までに7戦を要したが、特別戦をはさんで出走した毎日杯で重賞初勝利を挙げた(内田国夫騎乗)。4月17日に迎えたクラシック初戦・皐月賞では、前年まで6年連続のリーディングジョッキー(年間最多勝利騎手)を獲得し、「天才」の異名を取った福永洋一が騎乗した。ハードバージはデビュー時の450kgから体重が減り続け、この競走では430kgまで細化しており、厩舎スタッフはレースについて悲観的であった。ただし、伊藤雄二は馬主の吉嶺一則に対し「米国式にビッチリ仕上げた」と語っていた。当日の評価は8番人気であった。レースではラッキールーラが速いペースで馬群を先導し、ハードバージは中団から後方に位置した。最後の直線では13番人気のアローバンガードが馬場内側を突いてラッキールーラを交わしにかかったが、直後に追い込みをかけた福永ハードバージがさらに内の埒沿いを突いて両馬を一気に交わし、2馬身半の差を付けて優勝した。2着ラッキールーラは伊藤正徳、3着アローバンガードには柴田政人騎乗と、いずれも福永と同じ騎手養成所第15期生(俗に「馬事公苑花の15期生」と呼ばれる)が3着までを占めた。奇襲的な作戦を成功させた福永の騎乗は高い評価を受けた。日本中央競馬会の広報誌『優駿』で観戦記を担当した劇作家の武市好古は、最後の直線の様子を次のように描写している。ラッキールーラ騎乗の伊藤は、後に福永の騎乗をプロボクサー・ガッツ石松の「幻の右」と称されたパンチに喩え、「ゴツンと殴られたみたいだったよ」と述べた。またアローバンガードの柴田は、「ラッキールーラの内を突いた自分の馬より、もっと内を来る馬がいるなんてね。一瞬、ラチの上を走ってきたのかと思ったよ」と述べている。福永自身は「ツキのない時は何をしてもダメですが、ツキの回ってきている時は、レース判断に迷いがないし、積極的なレースができるもんです。皐月賞は、馬の根性と自分のツキとの人馬一体で勝ち取ったものだと僕は思っています」と語った。この競走は福永の代表的な騎乗のひとつに数えられ、この前年に生まれ後に騎手デビューした福永の長男・祐一も「父が騎乗した内で最も好きなレース」に挙げている。次走は東京優駿(日本ダービー)が目標となり、伊藤雄二は引き続き福永に騎乗を依頼したが、福永は自身が新馬戦から騎乗していたホリタエンジェルの陣営に先約があるとしてこれを断った。伊藤は「洋一、もしこの馬に乗らなかったら、お前は一生ダービーを獲れないかもしれないんだよ」と語りかけ翻意を促したが福永の意志は変わらず、ハードバージの鞍上は同じくトップジョッキーであった武邦彦に任された。ホリタエンジェルを管理した中尾謙太郎によれば、「ホリタエンジェルは新馬のときから洋一に依頼してきたんやし、ダービーに出られることになったら洋一を乗せて出たい」と福永に言ったことがきっかけであった。また、福永によれば4月にホリタエンジェルで一般戦に臨んだ際、「この平場を勝ったらダービーへいこう」と、福永の方から中尾に持ちかけていたという。日本ダービー当日、ハードバージは1番人気に支持され、2番人気には3連勝のあとトライアル競走のNHK杯で2着となり「関西の秘密兵器」として期待を集めたホリタエンジェルが推された。スタートが切られるとハードバージは第1コーナー、第2コーナーで2度前が塞がり、後方からのレース運びとなった。道中も後方を進み、最後の直線で大外から追い込んだが、先行したラッキールーラをクビ差捉えきれず2着と敗れた。競走後のハードバージは真っ直ぐ歩けないほど疲労しており、厩務員と調教助手は「こいつ、こんなになるまで走って」と涙した。また武もこの様子にもらい泣きし、騎手生活で唯一の涙を流した。馬主の吉嶺は武の騎乗について「武騎手は彼なりに考えて乗ってくれましたが、欲を言えば向こう正面あたりで、もう少し強気にいって欲しかった。だが、そんなことをしたら2着もあったかどうか分かりませんね。あの時点では、なんとしても勝って欲しかったと無念に思いましたが、いま振り返ってみると、からだの小さい馬をよく2着に持ってきてくれたと思っています」と述べている。一方、福永のホリタエンジェルは15着と大敗した。福永は「優勝したラッキールーラーの伊藤君とは、馬事公苑の同期生でした。同期生の活躍は僕にとっていい刺激になります。もちろんこれからもダービーをねらいます。ハードバージに乗れなかったことは別に残念だとは思いません。あの馬には皐月賞を勝たせてもらっただけで十分です。これも自分の運ですし、僕はこれで良かったんだと思います」と述べた。しかし福永は2年後の毎日杯で落馬して騎手生命を絶たれ、ダービーに優勝することはできなかった。中尾謙太郎は「ホリタエンジェルはNHK杯のときがピークで、ダービーでは調子が落ちていた。こんなことならば、洋一にはハードバージにそのまま乗ってもらったほうがよかった。悪いことをした」と述懐している。競走後、ハードバージは屈腱炎を発症。再起を図って治療が試みられたが快復に至らず、ダービー以降出走のないまま1980年に引退した。引退後は北海道門別町の門別スタリオンセンターで種牡馬となった。初年度には48頭の交配相手が集まるなど当初は順調であったが、産駒成績が振るわず、1986年に種牡馬シンジケートが解散。「余生を大事に送らせること」を条件として家畜業者の手に渡ったのち石狩市の乗馬クラブに引き取られて去勢され、翌1987年には福井県の観光会社に譲渡された。観光会社に譲渡後は観光客を乗せる引き馬や馬術ショーなどに使役され、1987年3月~5月に彦根城で開催された世界古城博覧会のイベント(ハードバージは西洋の甲冑に身を包んだ中世の騎士を乗せている)に参加するなどしていたが、同年7月に乗馬クラブでの放牧中に日射病に罹り、死亡した。享年14歳だった。ハードバージの辿った末路は新聞記事で取り上げられ、名馬の余生を考えるきっかけとなり、やがては競走馬の養老施設や助成制度が作られる契機となった。一方で一流馬の引退後の処遇に対しての日本中央競馬会の対応を批判する論調もあった。なお、本馬の全弟には種牡馬で、平成期にゲームソフト「ダービースタリオンIII」において、種付け無料という設定で注目を浴びる事となったマチカネイワシミズがいるが、マチカネイワシミズは「皐月賞馬ハードバージの全弟」という血統を見込まれて種牡馬入りしたものである。何頭か繁殖牝馬となった産駒もいるが、現在では全くその血は残っていない。
出典:wikipedia
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