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久保康友

久保 康友(くぼ やすとも、1980年8月6日 - )は、横浜DeNAベイスターズに所属するプロ野球選手(投手)。奈良県橿原市出身。橿原市立鴨公小学校時代は藤原京跡グラウンドをホームグラウンドとする少年野球チーム「ホワイトベアーズ」に所属し、橿原市立八木中学校時代は軟式野球部でプレーしていた。関西大学第一高校時代は、同校に合宿所がないこともあり、橿原市の自宅から大阪府吹田市の学校まで電車を乗り継ぎ、1時間半かけて通学していた。3年時にはエースとして同校の69年ぶりとなる第70回選抜高等学校野球大会に出場し、松坂大輔・小池正晃・後藤武敏・小山良男らを擁する横浜高校に次ぐ準優勝を果たした。夏の第80回全国高等学校野球選手権大会にも出場を決めて春夏連続出場を果たし、また同校初の選手権大会となったが、8強入りしたものの最後は寺本四郎・高橋一正らを擁する明徳義塾高校に2-11で敗れた。大会後に中村順司が率いる第3回AAAアジア野球選手権大会日本代表に選出され、同大会優勝に貢献。高校時代の同級生には工藤和樹がいる。高校卒業後は松下電器に入社したが、野球部入部当初は度重なる故障に悩まされて登板機会が少なく、入社5年目の後半から好成績を残して主力選手に成長した。同年の社会人野球日本選手権大会では圧倒的優位が予想されていた対伏木海陸運送戦でリリーフ登板し、4イニングを投げて最速148km/hの速球で7三振を奪ったが、9回裏の先頭打者に四球を与えたのをきっかけにサヨナラ負けを喫した。はこの時の反省を生かしエースとしてフル回転し、後にプロでチームメイトとなる手嶌智・能見・渡辺亮らと共に第22回ハーレムベースボールウィーク日本代表に選出された。同年秋のドラフト会議において自由獲得枠で千葉ロッテマリーンズに入団。松坂世代で最後に自由獲得枠でプロ入りした選手となり、2007年のドラフト会議で北海道日本ハムファイターズに多田野数人が指名されるまでは「松坂世代最後の大物」と呼ばれていた。4月2日の対福岡ソフトバンクホークス戦にリリーフでプロ初登板。4月24日の対東北楽天ゴールデンイーグルス戦でプロ初先発・初勝利・初完封を記録。5月4日にチームが45年ぶりの12連勝を記録した試合で勝利投手になり、5月19日まで7連勝を記録。しかし8月10日の対北海道日本ハムファイターズ戦で連勝は止まり、の荒巻淳、榎原好以来となる球団新人記録の8連勝はならなかった。9月17日の対西武ライオンズ戦で3度目の完封勝利となる10勝目を挙げ、前述の荒巻(26勝8敗)と榎原(16勝7敗)以来球団史上55年ぶり、右投手では球団初となる新人での2桁勝利を記録した。最終的に規定投球回到達はならなかったが、オフの11月4日には球団史上6人目、投手としてはチームが前回日本一になったの三井雅晴以来となる新人王を獲得。同日に婚約を発表した。は清水直行、渡辺俊介らがWBCからの帰国直後で休養をとる必要があり、小林宏之が右太腿筋痛を訴え、小野晋吾は発熱するなどのチーム事情から、3月25日の対ソフトバンク戦で開幕投手を務めたが5失点で敗戦投手となった。同年は前半だけで6勝を挙げたが、セ・パ交流戦以降は防御率6点台で、8月以降は6連敗を喫するなど最終的には7勝にとどまった。シーズン防御率は4点台でリーグ2位の13敗を記録した。なおプロ入り初めて規定投球回に到達した。3月20日に高校時代の監督だった尾崎光宏が胃がんで67歳で死去し、訃報の報道に「人に一切弱みを見せない監督でした」と故人を偲んだ。前半戦は勝利投手となっても防御率がよくない状態が続き、6月25日の対横浜ベイスターズ戦で左手甲に打球を受け左第5中手骨骨折で全治6週間と診断され6月29日に登録抹消された。8月7日に一軍復帰して以降は防御率3点台前半と好調を維持した。10月3日、10月5日には同年初の中継ぎ登板をしたが、これは10月8日から始まるクライマックスシリーズを見据えての調整登板だった。同年は9イニング平均で与四球が0.77個と少なかった。は開幕から大量失点を繰り返し、中継ぎへの配置転換や二軍降格も経験した。シーズン後半は巻き返しも見せたが、共に自己ワーストの4勝、防御率4.95に終わり、投球回数も初めて100に届かなかった。3月4日、橋本健太郎との交換トレードで阪神タイガースへ移籍。社会人時代の同僚でバッテリーを組んでいた岡崎太一と再びチームメイトとなった。背番号は橋本が着けていた「34」をそのまま受け継いだ。3月5日に入団発表を行い、翌6日にチームに合流した。4月7日の対広島東洋カープ戦で移籍後初登板。チームは勝ったものの勝敗がつかず、その後も好投しながら勝ち星が付かなかったが、5月25日の対ロッテ戦で古巣相手に移籍後初勝利を挙げた。7月14日の対中日ドラゴンズ戦において史上7人目、最年少での全球団勝利を達成し、7月30日の対横浜戦では4年ぶりの完封勝利を記録するなどシーズンを通して先発ローテーションとして投げ、防御率3.75, 9勝8敗の成績を記録した。その一方でリーグ最多の16死球、同2位の9暴投など制球面での不安定さも見せた。は3月31日の対広島戦で先発としてシーズン初登板・初勝利を挙げた。故障や不調で手薄だった先発陣の中で唯一、先発ローテーションを最初から最後まで守りきり、打線の援護にも恵まれて勝利を重ねた。8月12日の対広島戦で10勝目を挙げて5年ぶりの2桁勝利を達成。8月29日の対東京ヤクルトスワローズ戦では、自己新記録となる11勝目を挙げた。最終的には14勝してリーグ最高勝率となる勝率.737を記録し、自身初のシーズン200投球回に到達した。は契約更改が遅れたことにより、春季キャンプには当初は自費で参加し、そのキャンプ中に契約更改を行った。前年の実績もあり開幕投手候補にもなったが、開幕2カード目の対中日1戦目がこのシーズンの初登板となった。当初は先発投手陣の一角を担っていたが、シーズン中盤に左脇腹の故障で一時離脱したことが響き、成績は8勝止まりだった。も先発陣の一角となったが、5月20日の対楽天戦にて4回4失点で敗戦投手となったのを機に一軍登録を抹消、交流戦明けの7月14日の対ヤクルト戦で先発復帰し、勝敗はつかなかったものの7回を無失点に抑えたが、以降は打線の援護に恵まれない場面が続き、最終的に自身初の防御率2点台を記録しながらも自己ワーストタイの4勝、さらに移籍後初のシーズン負け越しとなった。なお、この年はシーズン終了間際に国内フリーエージェント (FA) 権を取得とNPBが一時発表したが、9月22日、NPBのミスによりFA資格を得るための日数が「7年23日」から「7年」と訂正。2012年の国内FA権取得は不可能となった。同日、甲子園で行われた対中日戦前、NPBの下田事務局長が久保に直接謝罪した。、前年まで抑えを務めてきた藤川球児のMLB移籍に伴い、久保が後任として抑えに転向、4月11日の対読売ジャイアンツ戦でプロ初セーブを挙げた。3月・4月は11試合で2勝1敗、4セーブ2ホールド、防御率0.64の成績だったが、5月に入って8試合で防御率12点台と打ち込まれるようになった。28日の対楽天戦では9回表1アウト後に銀次に安打、松井稼頭央に二塁打、島内宏明に三塁打を許して降板、代わった筒井和也がさらに聖澤諒に本塁打を打たれるという「サイクル被安打」を浴びた。敗戦投手になった久保はこの試合が6度目の救援失敗で、翌29日に登録を抹消された。太ももの故障も重なり、一軍復帰は8月5日にまでずれ込んだ。その間の抑えには福原忍がほぼ定着していたが、久保は7回 - 8回にかけてのセットアッパーとの起用となり、先発登板はなかった。オフの11月15日に国内FA権を行使することを表明した。FA宣言後、阪神およびDeNAとの交渉を経て、2013年12月2日にDeNAが獲得を発表。背番号は大洋のかつてのエース平松政次が着用していた「27」に決まった。移籍に伴って先発へ再転向し、シーズンの開幕から先発ローテーションの一角を担った。7月には5試合に登板し4勝、防御率2.79を記録し月間MVPの候補にもなった。この月の援護率は8.16と高い数値であり、ランディ・メッセンジャー、山井大介、菅野智之らとリーグ最多勝争いを繰り広げた。8月終了時点で11勝を挙げていたが、9月は5試合登板で40イニングを投げ防御率0.90, WHIP 0.85であった一方援護率は1.98にとどまり、結局この月は1勝を挙げたのみで、最多勝のタイトルも逃した。年間を通しては12勝(6敗)と4年ぶりの2桁勝利を記録した。は開幕投手に抜擢されるなど、前年通りの成績を期待された。しかし、21試合に投げて防御率4.12、9月には肩の痛みを訴え離脱するなど前年通りの成績は収められなかった。勝利数はチームトップの8勝を記録した。平均球速約142km/h、最速151km/hのストレートにスライダー、カット・ファスト・ボール、フォークボール、シュート、チェンジアップなどの多彩な球種を投げ分ける。球威のある投手ではあるが、球速に頼らない投球を行う。クイックモーションは通常は1.2秒台で及第点と言われているが、社会人時代には1秒を切って0.99秒を記録している。当時バッテリーを組んでいた岡崎の二塁送球は1.8秒台(1.8 - 1.9秒台が「強肩」の基準)だったため、塁上の走者が盗塁を行うのは不可能に近かったという。ロッテで同僚だった渡辺俊介は自身の著書『アンダースロー論』の中で、「久保のクイックも速いけど、あれは全ての動作が速い。真似出来ません」と述べている。2013年シーズンに抑えで起用されることになったのも、このクイックモーションの速さが決め手の一つであった。ロッテ在籍時の愛称は、松下電器(パナソニック)出身であることから「パナ」、および一般公募で決まった「ソニック」。▪︎「Sonatine I」久石譲 (2016年)

出典:wikipedia

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