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レイトンハウス

レイトンハウス("Leyton House")は、1980年代後半から1990年代前半の「バブル景気」期にかけてF1やF3000、スポーツカー世界選手権などの国際格式のレースで世界的に活躍した日本の企業及びその傘下のレーシングチームである。また同名のアパレルも展開し一世を風靡した。不動産会社「丸晶興産」の社長で、オフィスビルやゴルフ場を経営し、その後ホテルレイトンや1987年に発生した照明器具落下事件で有名になった六本木のディスコ「トゥーリア」の経営や地上げを行うなど、手広く事業を展開していた実業家の赤城明が、スポンサー獲得のために飛び込み営業で訪問してきたレーシングドライバーの萩原任と萩原光兄弟の求めに応じて1984年の秋から全日本選手権クラスのレーシングチームのスポンサーとなった。当初は「丸晶興産」あるいは同社の子会社の「メーベル商会」名義でスポンサーを行っていたが、「レーシングカーに漢字やカタカナは格好悪い」という社員の意見から、1985年の後半よりイギリスのウォルサム・フォレスト・ロンドン特別区にある「」という地名をもとに「レイトンハウス」のブランドを使い始めた。なお、レイトンハウスのブランド名はメーベル商会の女性社員が考案したと言われている。1985年のル・マン24時間レースに参戦するトムスのスポンサーになった時、同社社長の舘信秀に「レイトンハウスって何ですか」と聞かれて赤城明は「いや、実体はまだないんですよ。それはこれから作りますから」と答えたという。レイトンハウスの名前を冠したレーシングチームを立ち上げたばかりの1986年4月、萩原光はスポーツランドSUGOでのメルセデス・ベンツ190E2.3-16のマシンテスト中に事故死。ここでスポンサーを辞めてレース界から退くという選択肢もあったが、萩原の遺族の意向もあり、赤城はレーシングチームの運営を続行した。1986年シーズンには富士グランチャンピオンレースや全日本F3選手権、全日本F2選手権(→全日本F3000選手権)、全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権や全日本ツーリングカー選手権といった全ての国内選手権クラスのレースへの同時参戦を開始し、それに合わせる形で子会社の「メーベル商会」の社名を「レイトンハウス」に正式に変更した。社名変更と時を同じくして「レイトンハウス」ブランドによるアパレル展開もスタートした。なお当初「レイトンハウス」ブランドのアパレルは、東京都内の本店ブティックにおいて、「レイトンブルー」と呼ばれたチームカラーのブルーをあしらった男性向けのブルゾンやトレーナー、ポロシャツを中心に展開した。その後女性や子供向けのアパレルにも展開を拡大したほか、首都圏やサーキット内へのブティックの出店を進めていくことで売り上げが増大した。1987年に、F3000やF3などのフォーミュラカーを中心として活躍していたイギリスの名門のレーシングカーコンストラクターであるマーチと提携する形で「レイトンハウス・マーチ・レーシング」としてF1に進出した。ドライバーは前年に全日本F2選手権にレイトンハウスから参戦するなど、かねてから赤城が目をかけていたイヴァン・カペリの1台体制であった。非力な自然吸気エンジンであるコスワースDFZを搭載したマシンであったものの、カペリの奮闘もあり同年のモナコグランプリで早くも初入賞を挙げた。1988年には空力に優れ、自然吸気エンジンながら高い安定性を持つジャッドエンジンを搭載した新型マシン、マーチ・881を投入しマウリシオ・グージェルミンを加え2台体制となり、終盤にはトップ争いに食い込む活躍を見せた。さらに1989年にはマーチを買収して「レイトンハウス・レーシング」とした。チームの好調振りに合わせるかのようにアパレル事業も順調に発展、一時は首都圏やサーキットのみならず、全国の大都市にブティックを展開し、アパレル事業単体で年商20億円を超えるビジネスに発展した。ついには親会社の丸晶興産がマクラーレンのスポンサーとしても知られた西ドイツの有名アパレルブランド、「ヒューゴ・ボス」を400億円で買収するという話までになった。なお、この買収に伴い丸晶興産は傘下のヒューゴ・ボスを通じてマクラーレンのスポンサーになり、F1の2チームにかかわることとなる。また、親会社の本業の不動産でも横浜市に「レイトンハウス」の名を冠した高級賃貸マンションや、釧路市で式場併設のホテルレイトン(釧路全逓会館〈ホテルユニオン〉を買収)も展開するなど、レイトンハウスブランドを積極的に展開していった。F1参戦前年の1986年にはレコードレーベル「レイトンハウス音楽産業」を設立。1990年にはポッカコーポレーション(現・ポッカサッポロフード&ビバレッジ)から「レイトンハウスF1ドリンク」というスポーツドリンクが発売され話題になった他、様々なグッズも販売した。しかし1991年のバブル景気の崩壊と共に資金繰りが悪化した上に、同年9月には赤城が富士銀行不正融資事件に絡み逮捕され、1987年から1990年の間に同行より2000億円に上る不正融資を受けていたことが判明し懲役10年の判決を受けたことなどが重なり、同年のシーズン終了後に赤城はF1チームのオーナー権を手放さざるを得なくなった。また資金不足に陥ったチームはシーズン終盤に、全日本F2選手権時代からの関係であったカペリとの契約を解除し、スポンサーを持ち込んだカール・ヴェンドリンガーを採用せざるを得なくなってしまった。翌1992年にはチームマネージャーの萩原任(萩原光の弟)らがレイトンハウスの全日本F3000部門を受け継ぐ形で「萩原レーシング」の名称で全日本F3000での活動を継続したものの、同年一杯で全日本F3000での活動を停止。これにより「レイトンハウス」の名前を冠したレーシングチームは事実上消滅し、以後は同チームの元スタッフらがジュニア・フォーミュラを中心とした育成カテゴリーで活動していくことになる。企業としてのレイトンハウス並びに丸晶興産はその後も事業を継続したが、ヒューゴ・ボスや多くの資産を手放さざるを得なくなったうえ、1998年6月に丸晶興産は債権者からの申し立てにより破産宣告を受けた(負債総額は約1670億円)。丸晶興産の倒産後、レイトンハウスの商標は同年10月に三誠商事に譲渡されており、現在同社が同ブランド名で主にスポーツウェア・シューズ類の製造・販売を継続している。ただし2009年現在レイトンハウスという商標には三誠商事以外にも静岡県の個人が保有しているものが存在しており、三誠商事による無効の申立も却下されているため、今後同社以外からレイトンハウスブランドによる商品が発売される可能性もある。なお三誠商事では、2015年にブランドを復活させる予定をアナウンスしている。エメラルドグリーンに近いパステルカラーの「レイトンブルー」をチームカラーとし、同チームのマシンだけでなく、同時に全国的に展開したアパレルも全て「レイトンブルー」に統一したため、現在でもこのカラーがバブル景気期のモータースポーツシーンを象徴する色として語られることが多い。なおこの色は、ホンダ・シティ・カブリオレのボディカラーにあった「マイアミ・ブルー」を赤城がコーポレートカラーとして採用したものだという。当初のロゴマークには「LEYTON」と「HOUSE」のロゴの間に黒人が頭の上に荷物を乗せて歩く姿が描かれていたものの、ヨーロッパでのレース参戦時に「黒人奴隷を想像させ人種差別的」との指摘を受け1987年以降削除された。ただし商標登録上は現在も黒人の姿が残されており、特許電子図書館の商標データベースで確認できる。

出典:wikipedia

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