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ヴィルヘルム・グストロフ (客船)

ヴィルヘルム・グストロフ(Wilhelm Gustloff)は、ドイツのナチス党が工場労働者・農民・会社員等の一般勤労者に安価な海外旅行を提供するために建造した客船である。1945年1月30日にゴーテンハーフェン(現ポーランドのグディニャ)の港から東プロイセンの避難民や傷病兵を乗せて出航した後にソ連海軍の潜水艦に撃沈され、海事史上最大の犠牲者を出した。同船は当時ドイツの政権を担っていたナチス党のロベルト・ライの率いるドイツ労働戦線(DAF)の下部組織である歓喜力行団(KDF)の客船としてハンブルクのブローム・ウント・フォス造船会社において総工費2,500万ライヒスマルクをかけて建造された。新造時の総トン数は25,484トン。歓喜力行団の所有する13隻のうちの一隻で、地中海クルーズやノルウェイのフィヨルド・クルーズを提供した。船名は、1936年2月4日にユダヤ系クロアチア人の医学生ダヴィッド・フランクフルターに射殺されたスイスにおけるナチス党の指導者ヴィルヘルム・グストロフ に由来する。本来、「アドルフ・ヒトラー」と命名することが予定されていたが、ヒトラーの希望により「ヴィルヘルム・グストロフ」に変更された。これは、ユダヤ人に殺害された最初のナチス党員の名を利用したプロパガンダであった。1945年1月21日、ソ連軍の猛攻(東プロイセン攻勢)にさらされる傷病兵や民間人200万人を、客船や貨物船、軍艦などあらゆる種類の船を動員してドイツ西部へ海路脱出させる為の海上避難輸送計画「ハンニバル作戦()」が発動された。ヴィルヘルム・グストロフも同作戦に投入される事となり、1月30日午後にゴーテンハーフェンを出港した。公式記録では、乗組員173名、第2潜水艦訓練部隊の海軍軍人918名、海軍女性補助員()373名、傷病兵162名、難民4,424名の計6,050名が乗船していたとされ、この数字は厳格にまとめられたもので信用できるものと考えられる。しかし、出港後に乗船を懇願する難民を乗せた多くの小舟に取り巻かれ、少なくとも2000人以上の難民を急遽乗船させたので、実際に何人が乗船していたのかは不明である。元乗組員のハインツ・シェーン (Heinz Schön) が戦後調査したところに拠ると、当時乗客は10,582名、うち8,956名が難民ということで、殆どが女性・子どもであったと判明している。船は2,000名弱の乗客を想定して建造されていたが、レクリエーションのための共用空間の多い豪華クルーズ船だったため、そこに多くの乗客たちを押し込めることができた。ただし装備されていた救命用具は1万名を越える乗客の半数分に満たない数であった。ヴィルヘルム・グストロフは同様に難民を満載した客船ハンザと共に、潜水艦訓練部隊が使用していた訓練魚雷回収艇、TF-1とレーヴェ(元ノルウェー海軍スレイプニル級駆逐艦「」)の2隻を護衛として航海する予定であった。しかし、ハンザは機関故障によりダンツィヒ湾(現グダニスク湾)で航海を断念、TF-1も船体溶接部の亀裂が発見されてゴーテンハーフェンに帰投した為、ヴィルヘルム・グストロフはレーヴェただ1隻のみを伴って航海を続ける事となった。船は民間人3人、軍人1人の4人の船長有資格者を乗せていたが、彼らはソ連軍の潜水艦攻撃から身を守る航路について合意できなかった。その中の一人で海軍乗船者の代表であるヴィルヘルム・ツァーン(Wilhelm Zahn)少佐は潜水艦が行動しづらい海岸近くの浅い海を無灯火で進むよう進言したが、最年長(67歳)のフリードリッヒ・ペーターゼン(Friedrich Petersen)船長は大量の乗船者による過積載で船の喫水が深くなっている点を憂慮していた。最終的には、悪天候により視界が殆どきかない点に期待して水深の深い航路をとる事となったが、18時頃に海軍からヴィルヘルム・グストロフと反航する掃海艇部隊の存在について通信連絡を受けたペーターゼンはそれら艦艇との衝突を恐れ、ツァーンの反対にも拘らず船に赤色と緑色の航海灯を点灯をさせた為、暗闇の中で敵からも視認されやすい状態となってしまった。ちなみに現在では、当時その海域に掃海艇船団は存在せず、通信内容が何らかの原因による誤りであった事が判明している。ヴィルヘルム・グストロフは21時頃、ポンメルン地方沿岸の 30km 沖合、グロッセンドルフ(Grossendorf、現ポーランドのヴワディスワヴォヴォ Władysławowo)とレバ(Leba、現ポーランドのウェバ Łeba)の中間地点でソ連潜水艦S-13に発見された。レーヴェに装備されていた探針儀は厳寒により作動状態になく、ドイツ側はS-13を探知できなかった。約15分後、約700m離れたS-13から放たれた4本の魚雷の内3本がヴィルヘルム・グストロフの左舷に命中した。船内にパニックが起こり、多くの難民が救命ボートや救命胴衣に殺到し、救命用具のいくつかは混乱の中で失われた。無線機は使用不能となり、ツァーンは発光信号でレーヴェに救援を求めた。魚雷攻撃から約1時間後の22時15分頃、ヴィルヘルム・グストロフは沈没し、多くの人々が凍る海に投げ出された。この時期のバルト海の水温は通常摂氏 4℃だが、この日はとりわけ寒さの厳しい日で、気温はマイナス10℃からマイナス16℃にまで下がり、海上には氷が漂っていた。レーヴェが472名を救出し、沈没直後に駆けつけた水雷艇T-36は564名を救出した。更に掃海艇M-341が37名、魚雷練習艇TS-IIが98名、貨物船ゲッティンゲンが28名を救出した。翌31日朝、難民輸送中の貨物船ゴーテンラントが9名を海から救い上げ、訓練魚雷回収艇TF-19が7名、監視艇VP-1703が乳児1名を救出した。沈没での生存者は1,216名(ドイツ語版では1,252名)、犠牲者は9,343名(ほとんどが一般市民で、半分以上が子供)とされているが、これは乗組員の生存者、ハインツ・シェーンの調査結果で、もっとも信頼できるものと評価されている。しかし、もともと何人乗っていたかが不明なため、実際の死者の数もはっきりとはわかっていない。事件直後は死者5000人、生存者964人とされていた。ある証言者によれば、一発目の魚雷攻撃の1分後、船の通路は乗客の悲鳴や興奮で一杯となった。船内のスイミングプールだった場所に乗っていた別の生存者は、両手首を切った女性を見た。ほかの人々は甲板や階段で押し潰され、たくさんの人が暗く凍ったバルト海に飛び込んだ。さらに別の目撃談によれば、子供たちは大人にしがみつき、女性は乳児を守ろうとしていたが、次々に押し寄せる波が彼らをばらばらに飲み込み、多くの人はそのまま姿が見えなくなった。また、大人用の救命胴衣を着用した小さな子供達は脚が浮き上がって頭が水面下に沈み、溺れてしまったという。ヴィルヘルム・グストロフが投入された避難民輸送では、2月10日に客船シュトイベンがまたもS-13に撃沈され、4月16日に客船ゴヤもそれぞれソ連潜水艦の雷撃を受けて沈没し、難民などに大勢の犠牲者(シュトイベンでは4,500名、ゴヤでは6,666名)を出している。1945年4月はじめまでに、ドイツ海軍は東プロイセンからドイツ西部への250万人の軍民を避難させることに成功したが、その過程で33,000人の難民や軍人が亡くなった。ヴィルヘルム・グストロフはポンメルン地方(現ポーランド領ポモージェ)の沖30km、北緯55度07分、東経17度41分の深さ45mの海底に眠っている。第二次大戦中、避難民を乗せた船舶多数が連合国側・枢軸国側によって沈められた。ヴィルヘルム・グストロフはその中でも犠牲者数が最大のものであった。これが戦争犯罪に当たるかについては今もなお議論がある。難民船であるグストロフ号を沈めたのはあきらかに犯罪という意見があるが、当のドイツのキール海事法研究所は、ハインツ・シェーンからの問い合わせに対して、この船は軍の施設として利用され、海軍の潜水艦要員も乗せており、かつ武装した状態で航行していた軍の船で正当な軍事目標であり、犯罪にならないという結論を伝えている。ソ連海軍の潜水艦S-13の艦長だったアレクサンドル・マリネスコ()はヴィルヘルム・グストロフ撃沈の後、同じく避難民や傷病兵を輸送する客船シュトイベンも沈め、ソ連潜水艦長としては沈めた船のトン数が最大という戦果を挙げた。現在では、ソ連/ロシア潜水艦隊の英雄の一人であるが、この当時は、日頃の酒癖の悪さを疎まれていたうえに、酔った挙句の無断外泊でスパイ行為の疑いをかけられてもいた。そのせいもあってか、撃沈規模による報告書を上官たちは信用することを拒み、一万人以上の難民を死なせたことに論争もあったため、「英雄としてふさわしくない」として、ソビエト連邦英雄の称号は与えられず、赤旗勲章だけが贈られた。一方で「ゴヤ」を撃沈した艦長が英雄称号を受けて立腹した彼は、海軍首脳部に対して批判的な態度を取って怒りを買った上に、友人たちの忠告を無視して、それまでのソ連海軍の潜水艦運用を批判する論文を発表したことでさらに嫌われ、45年9月には潜水艦長を解任された。1960年に名誉回復がなるまでは、シベリア送りも経験している。

出典:wikipedia

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