グラード()は、イタリア共和国フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州ゴリツィア県にある、人口約8400人の基礎自治体(コムーネ)。ローマ時代にさかのぼる歴史を有する中心市街は、アドリア海北縁の潟湖(ラグーナ)に浮かぶ島に位置する。標準イタリア語以外の言語では以下の名を持つ。ゴリツィア県南部に所在するコムーネである。潟湖上のグラードの街は、モンファルコーネから南西へ約18km、州都トリエステからトリエステ湾を隔てて西へ約30km、県都ゴリツィアから南西へ約34km、ウーディネから南南東へ約45km、ヴェネツィアから東へ約85kmの距離にある。自治体(コムーネ)としてのグラードは、潟湖上の多くの島々や、本土を含んでおり、広大な範囲にわたっている。グラード潟上の島々のほとんどは無人島である。隣接するコムーネは以下の通り。UDはウーディネ県を示す。中心市街はアドリア海(ヴェネツィア湾)北縁の潟湖(ラグーナ)・グラード潟の周辺に浮かぶ島、イーゾラ・ドーロ()にある。潟湖上の島という立地条件はヴェネツィアと似ている。著名な島としては、潟湖東部に位置して教会が建てられ聖地とされているバルバナ島が挙げられる。グラード()の中心市街は、イーゾラ・ドーロの潟湖側に発達した都市である。グラード=ピネータ()はイーゾラ・ドーロのアドリア海側の町である。本土側にもいくつかの小集落があり、そのうちで最も大きいものがフォッサロン・ディ・グラード()である。町の歴史は古く、ローマ時代には、 の名で知られた。この地方の中心都市であったアクイレイアは、潟湖を挟んで10km北にあり、グラードはその外港としてアクイレイアと密接な関係を持っていた。西ローマ帝国の末年、異民族の侵入にさらされると、多くの人々が安全な場所を求めてアクイレイアからグラードへ逃れてきた。452年にはアクイレイア司教のニケタスがグラードに一時逃れて来ている。5世紀頃には、サンタマリア・デッレ・グラツィエ聖堂や、サンテウフェミア聖堂が建てられた。また、この町はアクイレイア総大司教国の海軍の拠点となった。568年、ランゴバルド人の侵入を受け、アクイレイア総大司教パウリヌスはグラードに遷座した。その後、この地方を管轄する教会は分裂し、二人の総大司教が並び立つことになる。アクイレイアの総大司教と、ヴェネツィア潟やグラードなど沿岸地方のラテン人を基盤とするグラードの総大司教(のちにチヴィダーレに移転)である。990年、アクイレイア総大司教ポッポーネがグラードを占領したが、これを維持することは出来なかった。1027年、教皇がグラードとヴェネツィア地方におけるアクイレイア大司教の優越した地位を確認することで、事態は収拾された。1451年、教皇ニコラウス5世によって、総大司教座はグラードからヴェネツィアに移された。これにより、グラードは小さな町へと転落した。グラードは、ナポレオン戦争中の1810年にイギリスに、1812年にフランスによって占領され、そのたびに略奪を受けた。1815年にオーストリア領になった。第一次世界大戦休戦後の1918年、この地はイタリア王国の手にわたり、1920年に正式にイタリアの領土となった。かつてはアドリア海の漁業の拠点のひとつであった。また温泉があり、湯治場・観光地としても知られている。国立統計研究所(ISTAT)は居住地区()別の人口として以下を掲げている。統計は2001年時点。
出典:wikipedia
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