真田 重蔵(さなだ じゅうぞう、1923年5月27日 - 1994年5月30日)は、和歌山県和歌山市出身の元プロ野球選手(投手、内野手)・コーチ、解説者・評論家。1948年から1954年までの登録名は真田 重男。実家は和歌山市内で果物菓子商を営む家庭で、七人兄弟の末子として生まれる。和歌山市立吹上尋常小学校から和歌山高等小学校を経て、1938年に海草中(現:向陽高校)に入学。スポーツに関して天性の才能があり何をやらせても抜群で、尋常小学校5年生の時には、全国小学校相撲大会で優勝したという。海草中では嶋清一の3年後輩に当たる。当初は一塁手や捕手を務めた後、2年生のには夏の甲子園大会に三塁手・5番で出場、嶋の伝説的な快投による全国制覇のメンバーとなる。嶋の進学を受けて投手に転向。真田は当初転向を渋っていたが、明治大学OBの長谷川信義監督の厳しい指導を受けて嶋の後を継ぐエースとなる。の夏の甲子園大会に優勝して海草中の2連覇達成に貢献し、戦前最後の怪腕と呼ばれた。3連覇を目指していたの夏の甲子園大会は文部省の指示で中止となるが、秋の明治神宮中等野球大会では海草中の3連覇をもたらした。なお、に文部省主催の全国中等学校野球大会が開催されるが、この大会では出場規定に満19歳未満という年齢制限が追加されたため、真田は出場することができなかった。同年の秋の明治神宮中等野球大会では4連覇を達成。海草中卒業後、に朝日に入団。これは中学時代の活躍に注目した朝日の球団オーナー田村駒治郎の肝煎りによるものだった。田村は入団時から真田に目をかけ、他の選手が田村邸の敷地にある合宿所住まいだった中で、真田だけを自邸の離れに住まわせる程だった。後年の小鶴誠らとの不和には、生え抜きである真田といわゆる赤嶺一派に属し大映スターズから移籍した小鶴らとの確執に加え、こうした差別待遇も背景があったと言われている。1943年は新人ながら13勝防御率1.98(リーグ7位)を記録し、朝日の上位進出(3位)に貢献する。同時に真田は日本大学大阪専門学校(現:近畿大学)にも学籍を置いていたが、これにより学徒とみなされて、同年秋の学徒出陣により海軍に入隊する。このため、戦前のプロ野球での実績は1943年の1シーズンのみであった。海軍では航空隊を志願するも不合格となり、1944年6月に横須賀の通信隊に配属されて、嶋と再会した。嶋と真田は9月に揃って和歌山・由良の紀伊防備隊に転属したが、2ヶ月足らずで真田は特殊潜航艇の要員として石川県に再び転属し、終戦を迎えた。に田村が新たに創設したパシフィックに入団してプロ野球界に復帰。速球と「懸河のドロップ」を武器に1946年からまで3年連続20勝を挙げる。またこの間の1948年9月6日の大阪タイガース戦で1リーグ時代最後のノーヒットノーランを達成。1失策があり完全試合は逃すが、史上初の無四死球となる準完全試合であった。二リーグ分裂後のには最多勝となる39勝を挙げて、沢村賞とベストナインを獲得し、松竹のリーグ優勝に大きく貢献した。ちなみにこの年の真田の39勝とチーム全体での98勝は、現在でもセ・リーグ記録となっている。同年の日本シリーズでは第3戦と5戦に先発。3戦は打ち込まれながらサヨナラ勝ち、逆に5戦は味方の失策で9回に決勝点を奪われる対照的な結果となった。日本シリーズ終了後に実施された最高殊勲選手(MVP)投票では小鶴誠の12票に対し、真田は7票(投票総数41票)で次点にとどまり、獲得はならなかった(これに関する詳細は後述)。はそれまでの酷使で肘を痛め、24試合の登板(7勝6敗)にとどまる。オフに大阪タイガースに移籍するが、田村は経営する田村駒の業績悪化で球団にまで手が回らず、移籍は田村の知らない所で決まった。5月7日の広島戦で2回目のノーヒットノーランを達成。通算打率.255と打撃もよく、現役晩年は三塁手としても出場した。1954年7月25日の中日戦(大阪球場)では、3点をリードされた延長10回裏に代打として起用されて三振に終わったが、3ストライク目がファウルチップで捕手が落球したとして、阪神の松木謙治郎監督と藤村富美男が抗議。ファンがグラウンドになだれ込んで試合が一時中断し、この試合は阪神の放棄試合となった。オフに発生した藤村排斥事件では排斥派の一人となる。12月4日に球団側から金田正泰とともに「来季の契約更改をおこなわない」との通告を受ける。球団側は12月25日に金田は復帰させたが、真田については「力の衰えから戦力にならないため」という理由で方針を変更せず、真田はそのまま退団した。真田自身は後年「(球団との仲介をした外部の人間から)金田も帰るからお前も帰ってこいといわれた。しかし、そんな気になれんかった」と述懐している。真田は後日「野球界の一匹オオカミは真田だけだった」と藤村富美男がコメントしているのを読んだという。プロ通算178勝は、甲子園大会とプロ野球の両方で選手として優勝を経験した投手としては、シーズン終了時点で最多勝記録である。この記録には桑田真澄があと5勝まで迫っていたが、2007年にメジャーリーグに移籍し、未勝利のままで引退した。引退後はスポーツニッポン評論家()や東海ラジオ解説者()を務めた。からは評論活動の傍らで明星高等学校の監督となり、の夏の甲子園で優勝した。甲子園優勝投手が甲子園優勝監督となった第1号である。にプロ球界へ復帰し、東京オリオンズの一軍投手コーチに就任。退任。以降は阪急ブレーブス一軍投手コーチ( - )を務め、4度のリーグ優勝に貢献。その後はサンテレビ解説者()を経て、近鉄バファローズ一軍投手コーチ( - )を務め、チームのリーグ2連覇に貢献。に野球殿堂入り。晩年にはボーイズリーグチームの監督を務め、弱小だったチームを全国大会出場に導いている。5月30日に死去。享年71歳。中野晴行の『球団消滅 幻の優勝チーム・ロビンスと田村駒治郎』によると、1950年のシーズン中、オーナーの田村は最高殊勲選手(MVP)は真田と考えて、真田に「もし最高殊勲選手を取ったら、小鶴誠には自分から賞金を出す」と話した。これは「真田ばかりかわいがられている」と見られることを案じたものであったが、真田が「もし小鶴が取った場合は自分に金を出すということか」と問うと田村は「そういうことになるか」と返答する。日本シリーズ敗退後に最高殊勲選手が小鶴と発表されると、真田は「最高殊勲選手が取れなくても社長が金をくれると言っている」とチームメイトに話してしまい、これがチーム内に波紋を広げ、監督の小西得郎には「日本シリーズ中に田村から金を渡された」と歪んで伝わることになった。この件に関しては小西の回想録『したいざんまい』(実業之日本社、1957年)では、シリーズ前にMVPが小鶴に決まったことで田村が真田に「おれがそれ以上のことをしてやる(金でやる)」と告げたことを真田が他の選手に話したとある(同書P166)。また、鈴木龍二は回顧録で「日本シリーズ中(シリーズ前と書いた箇所もあり)に最高殊勲選手が小鶴と発表されたので、田村が真田に金を渡し、チーム内に内紛が生じてシリーズに敗れた」と記している。しかし、実際に最高殊勲選手が発表されたのは日本シリーズ終了後の11月30日で、前後関係からは「シリーズ前または途中にMVPが決まったため、田村が真田に金を渡す話をした(または渡した)」という話は成り立たない。中野の本にはこの二つの著作も「参考文献」として挙げられており、その上で異なる記述をしている点に留意する必要がある。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。