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食堂車

食堂車(しょくどうしゃ)とは、鉄道の客車(鉄道車両)の一種。広義には車内に調理を含む給食設備を設置する車両であることから本項ではビュフェ車などについて、また日本国内と海外についてはそれぞれわけて解説を行う。多くの場合は、車両全体が給食設備によって占められ客席と調理室を備える。豪華列車のステータスと見なされる場合もあり、特に戦前においては国内外の長距離列車には必ずと言っていいほど連結されていた。逆に普通列車をはじめとする短距離列車には原則として連結されない。21世紀の現代は、航空機やバスなどの発達による鉄道の地位低下や長距離を短時間で結ぶ高速鉄道の普及、食形態の多様化により、国内外を問わず連結する列車は減少する傾向にある。軽食を提供する簡易的なビュフェなどの形態を除く狭義の食堂車では、2000年のグランドひかり食堂車の営業終了により乗客が気軽に出向き注文をする形態が消滅した。厳密には北海道方面の寝台特急で残ってはいたが(但し夕食時間帯は完全予約制)、これも2016年までに全廃されたため、現在は乗車前に食事の予約をする形態のみとなっている。しかし、2010年代には様々な旅行形態が提唱されるのに伴い、新造もしくは既存車の改造により食堂車が落成する傾向にある。JR東日本の「TOHOKU EMOTION」や肥薩おれんじ鉄道の「おれんじ食堂」などは、風光明媚な車窓を愛でながら食事を楽しむことを目的とし、「ななつ星in九州」やJR東日本やJR西日本が計画中のクルーズトレインでは、その形態上食堂車も重要な意味を持つ。また、調理室などを設置しないため形式記号が「シ」ではない狭義的には食堂車ではないものの調理済み食品を搬入することで供食サービスを実施する列車は、JR東日本が運行する「きらきらうえつ」「越乃Shu*Kura」、しなの鉄道が運行する「ろくもん」をはじめ、樽見鉄道・養老鉄道・長良川鉄道・三陸鉄道・えちごトキめき鉄道・道南いさりび鉄道などで存在する。今後の新たな供食サービス提供列車としては、2017年春から前述の「TWILIGHT EXPRESS 瑞風」と「TRAIN SUITE 四季島」の運行開始が予定されている。この他西日本鉄道で2016年度以降、食堂車つき観光列車の導入を予定している。2016年現在食堂車を営業する列車について解説する。狭義での食堂車・ダイニングカーは、レストラン並みの料理を調理・供給できる調理設備と、接客に充分なテーブル席を備えるものを指す。広義には簡易食堂車であり、一般の座席車との合造となっている場合が主流の「ビュフェ」も食堂車に含められる。車両記号は国鉄・JR在来線において、食堂車・ビュフェとも「シ」で表記される。全室食堂車は車内を2部屋に区切り、一方の部屋は本格的な調理設備を設置した調理室とし、他方の部屋はテーブル席を備えた食堂とする形態が一般的である。客車の食堂車は明治末期から大正中期まで車体長17m級の2軸ボギー客車と20m級の3軸ボギー客車が混在、食堂の客席配置も洋食堂車と和食堂車で異なるなどの違いがあったが、大正末期に製造されたオシ27700形以降20m級3軸ボギー車、食堂の客席配置は4人席と2人席を備えた定員30名が標準となり、鋼製客車への移行後もこの形態が踏襲されたが、戦後初の新製食堂車となったマシ35形からは20m級2軸ボギー車となった。1956年に登場した10系客車のオシ17形では、車体幅が拡張されたことで車内レイアウトが見直され、客席のテーブルを4人掛けとして定員40名に増加し、電車・気動車を含む以後の食堂車でもこの配置が基本とされた。なお、食堂内には1936年に製造されたマシ38形で車輪の回転を動力源にした冷房装置が設けられ、マシ35形も同様の冷房を備えたが、この方式は動作に問題も多かったことからオシ17形ではエンジン駆動の冷房装置となった。厨房内の調理設備は食堂車の誕生以来1950年代まで石炭レンジと氷冷蔵庫を主に使用していた。マシ35形の姉妹形式であるカシ36形では調理室の電化が図られ電気レンジや電気冷蔵庫を装備したが、電力発生量が充分ではなく故障が多かったことから、マシ35形と同じ設備へ改修して編入した。また、オシ17形も調理設備に関しては、石炭レンジや氷冷蔵庫といった旧式の設備を踏襲した。電化調理設備の実用化と冷房設備の電動化は、電源車からの集中給電方式を採用し固定編成を前提とした20系客車のナシ20形で完成された。その後、分散電源方式を採用した14系客車のオシ14形、さらに再び集中電源方式に変更となった24系客車のオシ24形に基本設計は踏襲された。電車特急用食堂車は、151系電車のサシ151形が基本的には既に登場していたナシ20形をベースに当初より完全電化として設計された。大量に電力を消費をすることから、自車に70KVAの電動発電機 (MG) を搭載した。また回送運転台を客室側妻面に設け、編成組成上の要ともされた。従業員用トイレも設け、業務環境を改善した。のちに開発・製造されたサシ481・489・581形でも基本設計は踏襲されたが、サシ151形の使用実績を基に回送運転台が調理室側妻面にも増設されている。気動車特急用食堂車は、第1次製造分となったキサシ80形では走行用エンジンを搭載しなかったために数々の問題が露呈した。本件については国鉄キハ80系気動車#キハ82系(1961年 - 1967年)を参照のこと。製造期間が長期に亘ったために、途中でテーブル・椅子のFRP化などの改良が行われたほか、客車ではオシ14形以降、電車ではサシ181形100番台・サシ481-15以降・サシ489形・サシ581形、気動車ではキシ80 37とキサシ180形が、複層ガラスの間に手巻き式のブラインド(ベネシャンブラインド)をはめ込んだ方式に設計変更となり、従来のカーテンは廃止された。また、初期に製造された電車・気動車の食堂車には、食堂出入口ドアの上部に列車位置表示器が取付けられたが、1964年以降製造車からは廃止された。また寝台急行列車用に製造されたオシ16形は、全室食堂車でありながら寝台設営・解体時の避難場所と言う位置づけも兼ねた「フリースペース」に準ずる扱いから、ビュフェとした車両である。ビュフェでは電車内の半分程度が簡易食堂となっており、もう半分は一般の座席を配置した客室である。食堂内にカウンターテーブルがあり、カウンター内部に電子レンジや冷蔵ケースなどの簡易な調理設備を設置している。カウンターの向かい側の窓際には進行方向と平行にテーブルを設置している。調理設備が少ないためメニューは軽食に限られ、飲食スペースは狭く立食スタイルが一般的で、カウンターに椅子すらない場合もあり、カウンター席があってもその数は少ない。1958年に登場した国鉄初の電車特急「こだま」では、試作要素もあったために当初は半室食堂車のビュフェ(モハシ20→150形)とされた。このコンセプトは1960年6月に153系急行形電車で運行を開始した東京 - 大阪間の急行「せっつ」用に製造されたサハシ153形に引き継がれ、以後のサハシ165・169形・451・455形にも踏襲された。2015年現在では、JR九州の「ゆふいんの森」ならびに「あそぼーい!」とJR東日本の「きらきらうえつ」が本構造を踏襲する。上述のビュフェ車が製造開始された当初は1等車も含めて急行形車両は冷房化以前であったが、ビュフェ内部は冷房を完備していたことや調理も電化されていたために自車給電用に40KVA MGが搭載された。このため夏季には軽食を購入し涼む利用客で賑わっていた。普通車冷房化に際し、一部の車両は冷房用電源供給も兼ねた110KVA MGに換装されたためにビュフェが営業休止措置となった以降も編成から抜くことが難しく、1980年代前半までは編成に組み込まれたままの列車も多く見られた。車両の廃車後も、これらのMGは民営化直前に投入された新型車両(121系など)に流用されている。日本初の食堂車は、1899年5月25日に私鉄の山陽鉄道(現・山陽本線)が運行した官設鉄道京都 - 山陽鉄道三田尻(現・防府)間の列車に連結した食堂付1等車である。当初は瀬戸内海航路への対抗とともに1等車の付随施設の側面が大きかった。この車両は、山陽1227 - 1229号で国有後のホイシ9180形と考えられている。食堂営業は山陽鉄道の直営の後、神戸の「自由亭ホテル」(後の「みかど」)の請負となった。官営鉄道(国鉄)では1901年12月15日に新橋駅 - 神戸駅間の急行2往復に連結され「精養軒」が運営し、日本鉄道では1903年に「仙台ホテル」(現:「ウェルネス伯養軒」)の請負いによって導入された。この当時は1・2等車(現・グリーン車)の客しか使用できず、官営鉄道・日本鉄道でも同様だった。利用区分を設定した理由として、利用者層の日常的な生活習慣などを考慮、3等車の客には当時行儀の悪い者が多かったため1・2等客に不愉快な気持ちを抱かせないようにする配慮、あるいは本来の座席より良い車両で漫然と時間を過ごすことの防止であったとされる。その後、1903年10月から山陽鉄道では閑散時間帯には3等客への部分開放を行ったが、3等車から1・2等車内を通って食堂車へ来るのは禁じられ駅に停車しているときに車両の外を移動することと身なりを整えることが求められたという。鉄道院でも、1919年8月から「一部食堂車に改造を加えあるいはその連結位置を変更」して列車全体の旅客に開放した。食堂車を挟んで1・2等車と3等車を分ける施策は、戦後の初期(1950年代)まで続けられた。当初は上級旅客の利用が前提であったことや、和食より洋食が調理加工の幅が単純であるために、どの食堂車も主に洋食を提供する「洋食堂車」を連結していたが、1906年(明治39年)4月1日から新橋 - 神戸間の3等急行列車に和食堂車が初登場した。メニューは和食が主体であったが、洋食でも一般に普及している料理は提供されており、形式が制定された際「ワシ」が用いられた。1929年に愛称が付けられた特別急行列車「富士」は1・2等車のみで編成された関係で洋食を提供していたが、3等車(現・普通車)のみで編成されていた「櫻」(さくら)では和食を提供した。そして1934年以降になると、洋食を提供する食堂車は、東海道・山陽本線を走行する「富士」・1930年運転開始の「燕」・山陽本線京都 - 下関間、1等展望車連結の急行7・8列車・東京 - 神戸間1・2等車のみの急行17・18列車(通称「名士列車」)・1937年運転開始の「鷗」のみになり、他はすべて和食堂車になった。この当時、洋食堂車は完全予約制で、あくまでも洋食専門としており、和食堂車は、和食のほかに比較的安価でかつ一般にも馴染み深い洋食となりつつあったライスカレーやコロッケなどの揚げ物は勿論、ビーフステーキなど洋食堂車でも扱う料理は取り扱っていた。戦後以後の食堂車は、この「和食堂車」から継承されていく。なお、戦前の「洋食堂車」のメニュー・営業形態は現在のトワイライトエクスプレスの食堂車がそれに近い。営業面においては、1908年に鉄道国有化によって食堂直営廃止の方針が打ち出され、食堂営業はすべて請負制に移行することとなった。東海道・山陽線では「みかど」「精養軒」に大阪の「東松軒」(後の「水了軒」)が加わり、東北・常磐線では「仙台ホテル」、九州島内は門司の「日本亭」(後の1912年に福岡の「共進亭」が参入)が担当した。その後にも参入業者は増加し、サービスを競う中で東松軒では1930年7月5日から東京駅 - 大阪駅間の不定期急行列車でウェイトレスを試行、翌年10月からは特急「櫻」を皮切りに本格導入も行なわれた。利用者からは食堂車内の雰囲気がソフトになった事から利用者しやすくなったと歓迎された反面、チップ収入減少も絡んで列車ボーイからの反発もあったという。運営は順調ではあったものの昭和に入ると利用客へのサービス停滞や収支不明瞭な業者がでるなど問題となり、1938年1月に鉄道関係者と列車食堂業者による協議会がもたれ、その中で列車食堂の経営統合を計る案が浮上した。そして9月15日「日本食堂株式会社」(現・日本レストランエンタプライズ)を設立、10月1日から営業を開始した。大戦前は特別急行列車・急行列車に限らず、山陽本線・東北本線・日光線・参宮線・日豊本線・根室本線などの準急列車や長距離・観光用のものに限り普通列車にまで和食堂車が連結されていた。日中戦争や太平洋戦争による運行や物資統制により、特急列車や一部の長距離急行列車を除いて定食が簡素化し、単品の料理も1人1品の制限や代用食材の使用、テーブルクロスの廃止などで貧相になり、1944年4月1日をもって中断された。なお、食堂車廃止と引き換えの形で同日付から車内販売が開始されている。国鉄線内では1934年に試行された事はあったが、本格的な営業はこの時からである。使用が停止された食堂車は各地に疎開留置されたり3等車に改造されたりしたが、一部では旧調理室部分を利用し、小麦に乾燥野菜・みかんの皮・魚粉などを混ぜ、糖蜜を加えて製造した「鉄道パン」などを配給したものもある。戦後は、連合国軍の支配下により1945年から連合軍専用列車の食堂車の営業から再開した。その後、1949年にはスハ32形やオハ35形からの改造による半室合造車オハシ30形が登場し、同年9月の特急列車「へいわ」(翌1950年「つばめ」に改称)復活と同時に同列車と東京 - 鹿児島間の急行1・2列車に連結・営業を復活させ、以後順次拡大していった。しかし、1960年代ごろより普通列車・急行列車が徐々に客車から電車・気動車化されると急行形電車ではビュフェに転換、気動車では特急用車両のみ食堂車が製造されたことから、食堂車は客車による夜行列車ないし特急列車中心の営業となった。1958年、最初の電車特急列車として20系→151電車を用いて運行を開始した「こだま」号は、「ビジネス特急」として運行されたことや試作的な要素があったため当初は半室食堂車で3等車との合造車となるビュフェ車(モハシ20→モハシ150→モハシ180)のみであった。これが半室食堂車を「ビュフェ」と呼ぶことの初出とされる。本格的な全室食堂車は1960年の「つばめ」電車化の際に登場したサシ151形で、のちに登場した特急列車用食堂車キサシ80形・キシ80形・サシ481・489形・サシ581形・キサシ180形に構造・デザインが踏襲されている。急行列車が電車化された際には、半室食堂車のビュフェとして連結した。ビュフェでは調理設備が食堂車に比べて簡略化されており運営人員も少ないことから、本格的な調理を行なうことは少なく、比較的簡単に調理できる軽食や飲料が中心となったが、1961年12月に電子レンジをサハシ153-23に設置しテスト運用を行ったところ好評で、以後は調理済みの冷凍食品や冷蔵食品を電子レンジで再加熱して利用者に供することでメニューの幅が広がった。また、東海道本線の急行列車では寿司を、東北本線急行列車群・信越本線急行列車群・中央本線急行「アルプス」・九州直通の山陽本線急行列車などでは蕎麦・うどんや丼物を供していた 。1949年の東海道本線の特急復活を契機に再開された食堂車では日本食堂の1社が担当したが、一社独占による弊害を指摘されるようになり、1953年より特急「つばめ」の食堂車を帝国ホテルが担当したほか、都ホテル(現・都ホテルズ&リゾーツ)・新大阪ホテル(現・リーガロイヤルホテル)に続いて鉄道弘済会や上越線列車で営業した大日本食堂→聚楽(現・聚楽ティ・エス・エス)も参入。さらに1970年代には鉄道弘済会系の大鉄車販・金鉄車販(現・北陸トラベルサービス)・中国車販・九州車販(現・西日本トラベルサービス)なども在来線急行ビュフェ営業に参入し、食堂車・ビュフェ黄金時代を支えた。しかし、在来線においては1970年代以降は食堂車の営業休止もしくは連結しないケースが多くなった。これには以下のような理由がある。これらの状況から、在来線ではビュフェ車連結の電車急行列車では、1976年11月に中央東線の「アルプス」ならびに信越本線の「信州」・「妙高」を最後に廃止、食堂車連結の昼行特急列車は1986年11月の「おおとり」・「オホーツク」を最後に廃止された。一方で、1981年にはキハ183系気動車のキロ182の車内の一部を、長距離客に配慮して0系新幹線のビュフェ車と同様の設備を持つ厨房を備えた車販準備室兼売店にした。また1985年には「雷鳥」に和式グリーン車「だんらん」(サロ481形500番台)が登場した。この車両はサシ481形を改造したもので、旧調理室はビュフェとし軽食類の提供を行うという新たなサービス形態が提案された。しかし、1989年の「スーパー雷鳥」登場時に和式グリーン車そのものが廃止されたため、当該車両は一部が廃車、一部が通常座席のサロ481形2000番台に改造されビュフェ部分はラウンジに改装されたが、小規模ながら「サンダーバード」登場後の1995年11月までビュフェと売店として営業した(以後は車販基地として使用)。また、このコンセプトは「白山」に連結されたラウンジ&コンビニエンスカーでカレーライスや弁当類などの軽食を電子レンジで暖めて販売するスタイルに承継された。この時期余剰となった食堂車は廃車後、その構造を生かしてレストランに転用されるものも多かった。しかしレストランそのものが閉店、或いは郊外に設置されるものが多く老朽化が進行し、そのほとんどが設置から10年ほどで解体されており現存数は少ない。原則的に分割民営化後は、1990年までに電車・気動車の食堂車は淘汰。「九州ブルトレ」や青函トンネル開通後に運転が開始された「北斗星」「トワイライトエクスプレス」の対北海道寝台特急のみで営業が継続された。対北海道の2列車では、事前にみどりの窓口で食事券を購入するコース料理の予約制と「パブタイム」と呼ばれるコース料理終了後に設定される予約不要のスナック的営業を行い、従来の「予約不要で食事を取るための食堂車」から「列車内での食事を楽しむエンタテインメントとしての食堂車」というコンセプトへの転換が図られた。一方、九州ブルトレでは従来からの営業スタイルで一定の評価と営業実績を維持する一方、1990年3月の改正で東京 - 下関間の「あさかぜ3号・2号」にラウンジカーが登場し、サービスカウンターでうなぎ御飯・カレーライス・牛丼・焼そば・たこ焼き・シュウマイなど温かい料理を提供するようになった。しかし利用客の減少は続き、1991年6月1日に「みずほ」・「出雲1号・4号」が、1993年3月改正で九州ブルトレ全列車の食堂車営業が終了した。食堂車はその後しばらく売店として引き続き連結。日本食堂の従業員が電気コンロ以外の設備を利用して暖かい食事の提供を行ったが、売店としての営業は「さくら」が「はやぶさ」と併結運転を開始するにあたって終了。「フリースペース」として食堂車が連結されていた「出雲」は2006年に列車自体が廃止となり、北海道系統を除く寝台列車の食堂車は全廃となった。対北海道の寝台列車としては、1999年に「カシオペア」が設定される。この列車には専用車両としてE26系客車が新たに投入され、食堂車としてマシE26形が製造された。「トワイライトエクスプレス」も車両の老朽化や北陸新幹線並行区間の第三セクター化等の理由で、2015年3月13日限りで廃止された。同列車の食堂車「ダイナープレヤデス」は、元々24系客車に存在したオシ24形とは全く別の車両であり、485系電車のサシ481形・489形からの改造編入車であるため寝台車特有の高い屋根とは異なり一段低い屋根となっており、またその屋根にAU12形(1・2)またはAU13形の分散式冷房装置を搭載する点や裾絞りの車体などに特徴がある。食堂は以下の形態で営業されていた。また数量限定ながらルームサービスで以下のメニューが存在した。大阪発の下り列車は正午前の発車でありランチタイムを営業することから食堂車で朝昼夕の3食を提供する列車であった。2015年3月14日のダイヤ改正以降、臨時運転となっていた「北斗星」も、青函トンネルの北海道新幹線試験走行の本格化に伴い、同年8月22日発の列車で運行を終了した。「北斗星」に連結されていたスシ24形は、「トワイライトエクスプレス」同様にサシ481形・489形を改造したスシ24形であったが、種車が後期形であるため屋根上搭載の冷房装置はAU13形のみであった。廃止時点における「北斗星」(グランシャリオ)の営業形態は、後述する「カシオペア」と同じであった。対北海道の寝台特急列車として最後まで残った「カシオペア」は、北海道新幹線開業に伴い、2016年3月21日上野駅到着の列車をもって定期的な運行を終了した。「カシオペア」の食堂車(ダイニングカー)は、以下の形態で営業されていた。食材は下り列車の始発である上野駅構内の加工センターで予め加工調理した物を搭載していた。到着駅である札幌では車内販売のビール樽・各種ドリンク程度のみの補充となるが、車内で調理する鶏卵等が予想よりも消費が多い場合などには稀に補充される場合もあった。東海道新幹線開業当初は、運転時間が短いため本格的な食堂車の連結は見送られ12両編成中に35形ビュフェ・普通合造車を2両連結して営業した。ビュフェ部はテーブルと回転椅子を装備した着席式で、メニューの上でも比較的食堂車に近い機能を有していた。大阪万博開催に伴う輸送力増強に伴い、編成を「ひかり」編成と「こだま」編成に分離し「こだま」編成では5号車を売店車(25形400番台)に差し換え、以降「こだま」用編成はビュフェ1両が正規となった。1972年の山陽新幹線岡山暫定開業時も、引き続き食堂車の連結は見送られた。1975年の博多開業に際して、最速の「ひかり」でも所要時間が6時間以上となるために、1974年より既存のひかり編成に36形食堂車が組み込まれることとなり、博多開業を前に一度に96両が製造された。戦後、食堂車が新規かつ大量に製造されたのはこのときが最後である。新幹線では車体長が在来線より5m長く幅も50cm広いことから、在来線の設計を基本にしながらも食堂内の山側は4人掛け海側は2人がけのテーブル設置とし、山側に独立した通路を設置し通り抜け客と食堂車利用者の分離を図った。また、同時にビュフェ車は立食式の簡易形に設計変更された37形に移行した。1985年にデビューした100系電車では、食堂車は2階建車両で2階は客席、1階は厨房と売店および通り抜ける乗客の通路とした、168形を組み込んだ(X編成)。しかし、1987年の増備車からは東京 - 新大阪間での運用が主体となることや、スピードアップにより食堂車利用客が減少しつつある状況を踏まえて、食堂車を止めて1階をカフェテリア、2階をグリーン車とした148形を組み込んだG編成に移行した。ただし、1989年から西日本旅客鉄道(JR西日本)が製造したグランドひかり用V編成では、東京 - 博多間での営業運転が主体となるため、再び168形食堂車とした組成に変更された。全盛期には、臨時列車を含む全ての「ひかり」で全列車食堂並びにビュフェの営業が行われていた。後に一部の臨時「ひかり」で営業休止になり、さらに後には定期「ひかり」でも営業休止の列車が現れた。一部列車ではグリーン車へのシートサービスも試みられていたが、カフェテリア車により食堂営業は縮小に転じた。さらに1992年の「のぞみ」運転用に開発された300系電車では食堂車が製造されず、1995年には0系「ひかり」食堂車は営業休止となり、2000年には100系食堂車の営業も終了し、東海道山陽新幹線での歴史に幕を閉じた。特筆される例として、JR化後の1988年3月13日ダイヤ改正で運転が開始された「ウエストひかり」では、旅客需要の小さい山陽新幹線を運営するJR西日本が、航空会社との競合が激しい京阪神 - 北九州市・福岡市間での運転で最も売り上げを見込まれたことから、サービス政策上ビュフェを営業することとなった。これには0系37形のビュフェ室を拡大し、椅子とテーブルを設置するなどの大幅なアコモ改良を行い投入した。しかし、2000年に「ひかりレールスター」に置き換えられ、運転ならびにビュフェの営業を終了した。運転時間が短い東北・上越新幹線では237形ビュフェ車のみとされた(2003年に営業終了)。また、100系同様に2階建車両も製造されたが、200系電車では食堂車は製造されずカフェテリア車の248形とされ、カフェテリアにはイートインスペースも設けて、簡易ビュフェ的な機能も持たせた。これら新幹線でも営業終了の理由は在来線と同様なもので利用率低下があったほか、次にあげる要因がある。営業担当業者は、博多開業の時点で日本食堂・ビュフェとうきょう(日本食堂から分離されたジェイダイナー東海に1993年4月合併→現・ジェイアール東海パッセンジャーズ)・帝国ホテル列車食堂・都ホテル列車食堂の4社が担当していたが、上越新幹線開業で聚楽が、JR化後に運転開始された「ウエストひかり」で丸玉給食(1988年3月改正から2000年の同列車廃止まで)・にっしょく西日本(日本食堂からJR西日本エリアを分離。のちJウェストラン→現・ジェイアール西日本フードサービスネット)が新たに加わり合計7社が食堂営業を行っていた。当時の時刻表には列車ごとに担当の会社が記載されており、また一部では、ステーキやカレーなど一部の特化メニューによって営業を行う事例も見受けられた。なお、都ホテル列車食堂は1990年3月ダイヤ改正を以って、帝国ホテル列車食堂も1992年3月ダイヤ改正を以ってそれぞれ営業を終了した。分割民営化後に東日本旅客鉄道(JR東日本)・九州旅客鉄道(JR九州)で新造したほか、北海道旅客鉄道(JR北海道)では改造名義だが車体新造された車両が落成した。国鉄・JR以外の日本の鉄道事業者(いわゆる私鉄。以下単にこう称する)では、所要時間が(国鉄→)JR線ほど長くないため、厳然たる食堂車は存在せず、多くがビュフェなど軽食を提供するものにとどまる。古くは、南海鉄道(現・南海電気鉄道)が大阪 - 和歌山間の急行列車(浪速号・和歌号:1日2往復)で一等・喫茶室の合造客車を連結している。この車両は1907年の南海線電化完成時に喫茶室の営業を終了し、その後1917年に廃車となったが、電7系ではこの一等・喫茶室合造客車のコンセプトを踏襲する形で、また近い将来開業が予定されていた阪和電気鉄道に対抗する目的で、日本の電車では初となる食堂車の電附6形211 - 220(製造直後に551 - 560に改番)が製造された。これは手荷物室・特別室(特等)・本格的な厨房を備えた食堂の合造車で、食堂に日本の鉄道車両としては初となる扇風機を設置、さらに一部の車両ではこれも日本初の車内ラジオ放送まで行われた。戦後、国鉄・JRの車両と同じ事例として本格的食堂車を製造したのは伊豆急行サシ191形のみである。1964年にサントリーが後塵を拝していたビール事業テコ入れのために観光地でのPRも兼ねて、「10年間は食堂車で車内でサントリー製品を販売する」という契約で伊豆急行に贈与という形で登場した。食堂車を称してはいるが、前記のような理由から車内で本格的な食事が供される機会は少なく、ビアガーデンに類似した営業形態であった。スウェーデン語・デンマーク語など北欧言語で「乾杯」を意味するスコールにちなみ「スコールカー」と名付けられたサシ191形はデビュー当初は話題になったが、国鉄が伊東線乗り入れに難色を示し、後年には伊東線へ乗り入れはおこなったものの、食堂車は伊東線内営業休止であったため、収益が上がらず次第に存在意義が薄れてしまった。結局、営業自体も早期中止となり使用されないまま伊豆稲取駅の側線に留置され、契約の切れた1974年に普通車のサハ190形に改造され、2004年に廃車された。其の後、食堂車営業できなかった伊東線を引き継いだJR東日本側が伊豆クレイルとして逆乗り入れ(伊豆急線内における食堂車営業運転復活)に触発されて、伊豆急も親会社の東京急行電鉄と組んで、横浜~伊豆急下田に食堂車運行を開始、当然ながら食堂車営業区間も含めてJR伊東線に乗り入れることになり、国鉄時代を含めて伊豆急側による初めての食堂車乗り入れが実現することになった。また、私鉄の長距離列車としては最長でも距離は200km、乗車時間は2 - 3時間でしかないため供食設備・メニューも茶菓・軽食中心になっている。戦後は、小田急ロマンスカーや近鉄特急に存在したスナックカーでの調理スペースで調理(電子レンジで加熱)した軽食を座席まで運ぶシートサービス方式が主流で、東武鉄道100系(スペーシア)にはビュフェサービスが設置されているものの、始発駅発車直後にスタッフが各座席にメニューを配り乗客が購入に出向く売店形式を採っている。ただし、これらの設備も通勤時間帯や運行距離の短い列車では運行されない事例も多く見受けられる。一部列車では、スタッフの帰宅・出勤など人員の確保問題、着席サービスが優先であること、物品の補充問題などの理由により営業されない事例も多い。2010年代に運行が開始された供食自体を目的とした諸列車については「現況」節に譲り、以下では1990年代以降に通常の定期列車で実施されている(た)供食サービスについて説明する。アメリカ合衆国で本格的な食堂車が登場したのは1860年代である。それ以前にも供食設備を持つ客車は存在し、列車内における食事の提供は1830年代から行われていたようだが、継続的なサービスに繋がっていなかった。この時代、駅や車内では物売りが果物や軽食を販売し、食事時には食堂のある停車駅で食事のための停車時間がとられていたので、車内での飲食を望む優等旅客はそれほど多くなかった。このような事情から、初期の食堂車のほとんどは客車の一部を食堂とした小規模なものであった。寝台車サービスで有名なプルマン社は1868年に全室食堂車「デルモニコ」を建造したが、これは例外的な存在であった。プルマン社は優等旅客への供食サービスにも力を入れていたが、その主役はホテル・カーと呼ばれる厨房付きの寝台車で、食事時には座席にテーブルが据え付けられ食事が提供された。全室食堂車が流行したのは1870年代後半で、東部や中西部の鉄道会社はこぞって食堂車を建造し、コース料理の提供をはじめた。この傾向は貫通路が開発され、車両間の移動が簡単になったことで加速し、19世紀の終わりには長距離列車には食堂車の連結が当たり前となった。アメリカの食堂車は慢性的に赤字であった。優等旅客を対象とすることからメニューはフランス料理やクレオール料理のコースが主流で客単価も高く、一流レストランと同等以上のサービスを提供するために多数の要員を必要としたことがそれ以上の費用を要した。このため、プルマン社は波動輸送用の数十両を除けば全室食堂車を経営することはなく、各鉄道会社は自社で食堂車を経営し旅客誘致の目玉としてサービスや味を競い合い、全盛期の1920年代には60の鉄道会社が1000両以上の食堂車を運営していた。食堂車運営にあたっては個々のサービスの向上は勿論のこと、経営主体が同じであれば列車が異なっても同質のサービスを提供することが重視され、食器やウェイター、ウェイトレスの制服の統一が図られた。アッチソン・トピカ・アンド・サンタフェ鉄道(ATSF鉄道)で食堂車を受託経営したフレッド・ハーヴィ・カンパニーの制服はその典型的な例で、この制服をまとった女性従業員「ハービー・ガール」は中西部から西海岸にいたる広大な営業エリアで提供された均質で高いサービスの象徴として好評を博した。全盛期のアメリカの鉄道では、食堂車のほかにビュフェ・カフェカー・ランチカウンターカーといった簡単な厨房を持つ車両で供食サービスを提供するケースも多かった。その目的は、コース料理を必要としない普通旅客に対する安価な食事の提供と優等旅客の軽食や喫茶の需要に応えることにあり、長距離列車では目的に応じた設備を持つ車両が数両連結されるのが通常であった。上記のようにアメリカの食堂車は1920年代から40年代にかけて全盛をきわめたが、それ以降は急速に衰退する。優等旅客は航空機に、普通旅客は長距離バス(グレイハウンド)にシェアを奪われ旅客は大幅に減少。多数の要員を必要とする食堂車の経営は成り立たなくなってしまった。多くの場合は列車の廃止とともに消滅したが、食堂車サービスのみ削減し車内販売に置き換えるケースも散見される。サザン・パシフィック鉄道では大陸横断の長距離列車でも自動販売機による軽食販売に置き換えるケースなどがあり、その劣悪なサービスがアムトラック成立の後押しをしたとも言われている。その後、アメリカの長距離旅客列車の多くは1971年にアムトラックに移行し、食堂車もアムトラックの経営となり現在に至っている。アムトラックの長距離列車のほとんどで供食設備を備える。夜行列車ではコース料理を提供する食堂車を連結しており、中距離列車もカウンターとテーブル席を備えたホットドッグやサンドウィッチを提供するカフェ・カーを連結している。分割・併合などの関係で食堂車が連結されない編成でも、寝台客に対してボックスランチ形式の食事が提供される。運転時間が長大であることと、駅構内の売店が少ないことや弁当という風習が一般的でないことなどがその理由である。なお、アムトラックでは1986年に寝台料金の10%値上げとともに寝台利用客の食事を原則無料としている。また、高速列車のアセラ・エクスプレスでは、カフェ・カーを連結しているほかにファーストクラス利用者に対して食事のシートサービスが行われている。特異な例として、ニューヨーク近郊を走るメトロノース鉄道のニューヘイブン線では通勤形電車にビュッフェつき車両を連結した電車を走らせ、夕方から夜にかけての一部の列車で軽食やアルコールの販売を行っていたが、2014年の新型車導入を契機に廃止された。カナダの旅客列車を運行するVIA鉄道においても事情は同様であるが、中距離列車では、供食車両を設ける代わりに旅客機の機内食同様の食事のシートサービスが行われている。西ヨーロッパでは日本と同様、食堂車は減少・簡略化傾向にあるが、その様相は国ごとに異なる。フランスでは、かつて「ル・ミストラル」などの優等列車ではフルコースのフランス料理が提供されていたが、夜行列車を含めてサンドウィッチ程度の軽食を提供するビュフェ車以外は全廃されている。ドイツ・イタリア・スペインなどに向かう国際列車に食堂車を連結するものがあるが、これらはすべて乗り入れ先の国側の鉄道事業者が運営するものである。ユーロスターなど一部の高速列車では狭義の食堂車は連結されていないが、2等車乗客向けにビュフェ車が連結されており、1等車の乗客には座席に飛行機の機内食同様の配膳サービスが行なわれている。ドイツでは、食堂車の慢性的な経営難により、国際列車や夜行列車を除く本格的な食堂車のビュフェ車(ビストロ)への改装が進められている。メニューは、他国に比べると豊富で経営規模も比較的大きい。一方、イタリア、スイス、スペインや中央ヨーロッパ諸国では昼行列車の食堂車のてこ入れが積極的に行われている。ユーロスター・イタリアの食堂車は本格的な厨房設備を擁する。スイスではファストフード店に似た供食設備を持った車両の試みも行われているほか、一部私鉄の列車にも食堂車が連結され大手私鉄のレーティッシュ鉄道では10両以上の食堂車を保有し、氷河急行などの特別列車のほか通常の急行列車の一部にも食堂車が連結される。スペインでは、国内の長距離列車・国際列車などでのフルコースメニューを中心としたサービスが継続されている。西ヨーロッパの夜行列車の個室寝台車では、簡単な朝食のサービスを行う列車が多く、朝食料金は寝台料金に含まれている場合が多い。夜行列車の夕食・朝食時刻は前夜指定するのが通例だが、客席まで朝食が届けられる場合と夕食同様に指定した時刻に食堂車へ客が赴く場合の2種類が存在する。中華人民共和国の場合、運行時間が2時間程度の広九直通列車から、24時間以上(最も長い広州 - ラサ間で運行されるZ264/265・Z266/263次列車は55時間以上)かけて走破する長距離列車に至るまで、食堂車が連結されているケースが多い。食堂車は中国語では「餐車」(:ツァンチョー cānchē)と呼称される。中華料理は地方によって味付けの違いに特色があるが、食堂車でも所属鉄路局によって味付けに地方色がある。また、中国の食堂車は乗務員の食事を賄うのが主であるため、所属鉄路局や列車の等級によってサービスや料理の質が異なる。メニューは炒め物中心で、朝食は粥や麺料理のみの場合が多いが、一部の列車ではセットメニューの提供やバイキング()も実施している。飲料はビールなどアルコール類のみの提供であるが、水や茶などは持ち込みも可能である。また、車内販売の弁当()も食堂車で調理している。従来の車輛では石炭コンロによって調理されていたが、2004年に登場したから電気コンロや電子レンジが装備されるようになった。なお、高速鉄道の食堂車には厨房設備自体がないため、電子レンジ加熱品のみの提供となった。韓国では、セマウル号を中心にソウルプラザホテル運営の食堂車を連結し、車内で韓国料理の提供を行っていた。ソウルプラザホテルは食堂車営業を行うにあたって、当時の日本の食堂車事業者(日本食堂および帝国ホテル)で研修を受けてノウハウを習得したため、韓国の食堂車は盛り付けや配膳において、日本の食堂車との類似点が多かった。しかし、ソウルプラザホテルが運営から撤退し、その後アシアナ航空の機内食を担当しているランチベル社が事業を引き継ぎ運営していたが、2008年9月をもって撤退。現在は食堂車を改造し、軽食を中心とした「カフェ客車」として運用されている。過去には、車内でハンバーガーを提供するロッテリア運営の食堂車も存在した。2004年3月開業の韓国高速鉄道 (KTX) には食堂車・ビュフェ車ともに連結されていないが、2010年3月2日より運行を開始したKTX-山川では、スナックバーコーナーが設置されている。純粋な食堂車は、クルーズトレインヘランが唯一の存在となっている(ただし、厨房設備は備えておらず、調理済みの料理を搬入し、車内で簡単な調理、盛り付け程度に限られる)。日本統治時代の1912年(大正元年)から食堂車が存在し、中華民国の台湾鉄路管理局となってからも洋食を提供する食堂車が連結されていた。しかし、「莒光号」に連結されていた食堂車を最後に、1980年代に姿を消した。また、2002年に自強号に半室ビュフェ車が連結されたが、外部業者への委託営業であり、その上多額の欠損を出した結果、短期間で営業を終了した。現在では、一部観光列車でのみ運用されている。ベトナムの列車にも食堂車が連結されているが、食堂車は乗務員の休憩スペースとなっており、乗客への供食は主に車内販売によって行われる。車内販売では、食堂車の厨房設備で調理した弁当やスープ、フォーなどが販売される。タイでは、現在も客車列車によるクルンテープ駅発着の長距離特急列車において食堂車が営業している(気動車列車には食堂車はない)。ただ、食堂車も含めて車両が老朽化していることもあり、2014年に中国中車に食堂車9両を含む客車115両を新規に発注した。これらは2016年6月から同年末にかけて納入され、順次投入される予定。インドでは自分の座席や寝台を離れて食堂車へ行くという習慣は無いものの、長距離急行列車(Express, Mail)の大部分にはパントリーカー(Pantry Car 略称PC)と呼ばれる厨房付き車両が編成内に含まれている。この車両では食事や軽食の調製が行われ、車内で温かい食事をとることが出来る。容器は使い捨ての薄いアルミ箔製。販売方法は従業員が座席や寝台をまわって注文をとり、食事の配達と代金の回収を行う方式だが、パコラやサモサなどの軽食や飲料は注文を取らずに随時歩き回って販売する。最上位の急行列車、事実上の特急列車に位置付けられるラージダーニー急行(Rajdhani Express)などでは食事料金込みの運賃になっている。宗教上の理由からベジタリアン向けのメニューが常備されており、注文時にどうするか尋ねられるのも特徴。手製の弁当を持ち歩く習慣もあり車内で広げている旅行者や家族連れも多い。韓国、台湾と違いモンゴルとサハリン・シベリアでは比較的、一般的な営業をしている。ただし、モンゴルでは国際列車でしか営業しておらず、国内列車では車内販売のみとなる。一方、サハリンも夜行列車で営業。シベリアでもシベリア鉄道の長距離列車で営業している。このほか、長時間走行を行う列車が存在する国や地域においては何らかの供食設備を持つことが普通である。東ヨーロッパやロシアなどの長距離列車は食堂車を連結する。オーストラリアのメルボルンでは路面電車に調理設備とテーブルを備え、市内を運行しながらディナーを提供する「トラムカーレストラン」と呼ばれる電車がある。他、南米・アフリカの一部の長距離列車でも営業している。

出典:wikipedia

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