燼滅作戦(じんめつさくせん)とは、日中戦争(支那事変)中に日本軍の陸軍、特に北支那方面軍などが1940年8月以降、中国華北を中心に、抗日ゲリラ対策として抗日根拠地へ行ったとされる掃討作戦。北京語では「殺し尽くし・焼き尽くし・奪い尽くす」()の接尾文字「光」をとって三光作戦(さんこうさくせん)または三光政策(さんこうせいさく)と呼ばれている。主に共産党の八路軍根拠地に対して行われたとされる。ただし、日本軍には「儘滅作戦」や「三光作戦」、「三光政策」といった作戦名はなかった。中国語での呼称である三光作戦は、1941年の『解放日報』に初出が見られるという(尚、当時の『解放日報』は、中国共産党の博古が責任者を務めている)。日本では撫順戦犯管理所等に収容され、後に解放された中国帰還者連絡会が1957年にカッパブックスから出版した『三光』から、この「三光作戦」という呼称が広がった。日本語では「三光(参照:Wiktionary)」と言うと三光鳥/サンコウチョウの呼び名などでも知られるように、大抵は「日・月・星」の三つの光を指して言う。かつては、三光汽船という名の会社も在り、現在でも企業名や学校名などに日・月・星から付けた「三光」という名が見られる。日本では「儘滅作戦」という呼称を使用する者もいるが、この呼称について笠原十九司は、作戦名としては存在しないが、1940年(昭和15年)8月26日、北支那方面軍第一軍参謀長の田中隆吉少将が「敵根拠地ヲ燼滅掃蕩シ敵ヲシテ将来生存スル能ハザルニ至ラシム」と命令したことから来ているとしている。「三光」との呼称が中国語であることなどから、中国やそれに同調する学者やマスコミによるプロパガンダであるという見方がある。。一方で、三光政策という呼称で歴史的事実とする立場もある。。2004年7月に防衛庁は、かねてから存在の知られていた三光作戦の根拠の一つとされる、戦時史料あんの歩兵第二二四聯隊「冬季山西粛正作戦戦闘詳報」を公開し、その中で山西省での燼滅作戦について『撒毒』の記述が確認された。一方で以下の記述も確認された。其三、住民地の状態一、住民 殆ンド逃避シアリ為情報収集二不便ヲ感ズ 掃討二際シテ土民ヲ獲得セル時ハ大部分成功ス日本軍が到着した際には既に住民の殆どが逃げた後であり、掃討を行った際に住民を容易に獲得できたとしている。つまり、三光の“殺し尽くした”の主張と反した内容が書かれている。報復清野を奨励する方法(大公報所載より抜粋)共匪は大いに階級闘争を主張する故に地方の不良分子は平素些細の事にも相争いあって報復する。其れは口訴、文書、孰れも歓迎するのである。報告があれば隊を派遣して包囲し其の者を縛り上げ其の者の財を掠める。如何に誣枉せられても辨訴の権利はない。甲が乙を訴ふれば乙を縛し丙が甲を訴ふれば又甲を縛し丁が丙を訴ふれば又斯くの如し、順繰りに拘引し瓜蔓の如くに連行する金銭を以て刑を贖うものは別として其の大部分は首を連ねて殺される。一地を占領する毎にまず現金を取り上げ次ぎに首飾り、次ぎに布疋次ぎに家畜、次ぎに食糧とあるだけのものを匪巣に搬入する。従ってそれ等の地方は家は岩家の如く食うにも蓄えの食糧なく鼠雀の外に家畜なく鍬鋤の外に金物は殆ど見当たらない。青野を励行して国軍の新軍討伐に困難を感ぜしめる、計略としてこれほど甚だしいものはない。
出典:wikipedia
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