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新世界 (大阪)

新世界(しんせかい)は、大阪府大阪市浪速区恵美須東に位置する繁華街。中央やや北寄りに通天閣が建ち、南東部にジャンジャン横丁がある。当地は、1897年(明治30年)に大阪市へ編入される以前は西成郡今宮村の一部で、畑地や荒地が広がっていた。市街化のきっかけとなったのが、1903年(明治36年)に開催された第5回内国勧業博覧会で、東に隣接する旧東成郡天王寺村の一部とともに会場敷地となった。「内国」とあるが、国内外からの最新技術が披露された点では「万博」に近いものがあり、博覧会は5ヶ月間で入場者530万人という大盛況の内に幕を閉じた。博覧会に合わせて日本橋筋の3丁目以南(現在のでんでんタウン)が整備された。会場の西縁には既に1885年(明治18年)12月に南海鉄道(現・南海本線)が、南縁には1889年(明治22年)5月に大阪鉄道(初代。関西鉄道を経て現・JR関西本線)が通じていたが、会期中は南海鉄道が今宮戎駅南側に「博覧会会場門」駅を、関西鉄道が天王寺駅西側に「博覧会」駅をそれぞれ開設。来場者の利便性を図った(博覧会終了後は両駅とも廃止)。1907年(明治40年)には片岡直輝ら大阪財界有志が恵美須町から浜寺までの鉄道敷設を申請。1910年に「阪堺電気軌道」(旧)が設立され、翌1911年に恵美須町から市之町までが開業した。大阪財界は恵美須町がターミナル駅として発展することを見越して、博覧会跡地を一大娯楽センターとする計画を立案する。1908年(明治41年)には博覧会跡地北西角の恵美須交差点から大阪市電南北線が難波を経由して梅田まで開通している。博覧会跡地は日露戦争中に陸軍が使用したのち、1909年(明治42年)に東側の約5万坪が大阪市によって天王寺公園となった。西側の約2万8千坪は大阪財界出資の大阪土地建物会社に払い下げられ、1912年(明治45年)7月3日、「大阪の新名所」というふれこみで「新世界」が誕生。通天閣とルナパークが開業した。開発当初は「新巴里」「第二千日」と仮称されていたが、開業の際、「新世界」と改められた。1911年に開業した阪堺電気軌道は、難波に拠点を置く南海鉄道と路線が競合することになった。ターミナルの立地面で不利な阪堺は、新世界を集客施設と位置づけ、その運営に深く関わっていく。南海は1914年、「ミナミの大火」で壊滅的な被害を受けた千日前に「楽天地」を開設し、対抗した。新世界のコンセプトは、現在の「テーマパーク」に似ており、パリとニューヨークという欧米を代表する二大都市の風景を模倣しながら、最新の文化や風俗を輸入・融合させる試みを行った。街は北から順に、恵美須町1丁目(現・恵美須東1丁目)には南端中央に円形広場を設け、パリの街路に見立てた3方向の放射道路を北へ配すことになった。放射道路は西から順に「恵美須通」(現・通天閣本通)、「玉水通」(現・春日通)、「合邦通」と命名された。北霞町(現・恵美須東2丁目)には北端中央にエッフェル塔を模した塔を建て、「仲町」とも称する中心街区を形成することとし、塔は儒学者である藤沢南岳により「通天閣」と命名された。南霞町(現・恵美須東3丁目)にはニューヨーク・コニーアイランドのに似た遊園地を開くこととし、「ルナパーク」と命名された。この時の通天閣は凱旋門の上にエッフェル塔を載せた様子を模したもので、現在とは外見が異なり、また、現在のものよりも南側にあった。通天閣とルナパークの間にはイタリアのセレッティ・タンファーニ (Ceretti&Tanfani) 社が製造した日本初の旅客用ロープウェイを設置し、ルナパーク内に置かれた「幸運の神」ビリケン像と共に名物となっていた。通天閣及びルナパークの開業により、新世界には芝居小屋や映画館、飲食店が集まるようになった。1915年(大正4年)、新世界の運営に深く関わってきた阪堺電気軌道が南海鉄道と合併し、事実上、新世界の運営から手を引くことになる。同年、隣接する天王寺公園内に大阪市立動物園が開園した。1918年(大正7年)には南東に隣接して飛田遊廓( - 1958年)が開業、1919年(大正8年)には新世界に大阪国技館が建設されるなど、経営環境や周辺地域が目まぐるしく変化する中、新世界は道頓堀、千日前に次ぐ歓楽街として隆盛を極める。一方ルナパークは、期待したほどの人気が得られず、「楽天地」など類似施設の開業も影響し、1923年(大正12年)に閉園した。跡地は大阪市電天王寺車庫に転用された。1930年代に入ると、郊外鉄道が多く集まる阿倍野界隈に近代的な映画館や百貨店が開業し、古色蒼然とした新世界とは違う、新たな歓楽街として台頭し始める。1938年(昭和13年)に地下鉄御堂筋線が難波駅から天王寺駅まで延伸され、新世界の最寄駅として動物園前駅が開業している。第二次世界大戦中の1943年(昭和18年)1月、通天閣が脚下の大橋座の火災に巻き込まれて損傷。同年2月、敵軍による空襲の標的にされやすいことに加えて金属類回収令による鉄材供出のために解体された。加えて1945年(昭和20年)3月13日の第1回大阪大空襲では新世界も被災・壊滅した。1947年(昭和22年)、ジャンジャン横丁がまず復興し、1956年(昭和31年)10月28日には現在の二代目通天閣が開業した。なお、二代目通天閣は初代通天閣のあった場所より少し北側の場所に建設された。1958年(昭和33年)に施行された売春防止法によって、飛田遊廓が(表向きは)廃業。それに伴い、歓楽街としての新世界の活気も衰えはじめ、界隈を歩くのはあいりん地区の労働者が大半を占めるようになる。1961年(昭和36年)に起こった釜ヶ崎暴動が追い打ちをかけ、隣接する新世界のイメージも悪化。次第に「怖い街」と認知されるようになっていった。1960年代後半になると、1970年(昭和45年)の大阪万博開催に向け、鉄道や道路のインフラ整備を担う労働者が全国各地から大阪に集結。新世界も束の間の活況を呈するが、それがかえって、「労働者の盛り場」の色を濃くする結果となってしまった。若者はキタやミナミに流れ、家族連れの姿も見られず、1970年代から1990年代にかけて、新世界の地盤沈下は止まらなかった。通天閣の年間入場者数も1975年(昭和50年)には20万人を割り、過去最低を記録。映画館も閉館が相次ぎ、残った映画館も成人映画専門か名画座となった。至る所に街娼が立つなど風紀が乱れ、街全体の雰囲気も暗く、日中の通行人はまばらであった。戦前から庶民的な繁華街として親しまれてきた新世界だが、大手私鉄のターミナル駅に恵まれなかったことや観光の多様化などに伴い、前述のとおり、1970年代以降は長期にわたって低迷が続いていた。しかし、1990年代あたりから「昭和の名残」を感じさせるレトロな街の雰囲気が「戦後」を知らない世代などに再評価され、新たな観光地として変貌を遂げつつある。あいりん地区や飛田新地に近いロケーションながら、街全体を覆う独特の雰囲気に惹きつけられる人も徐々に増え、小説や漫画の舞台となったり、テレビや雑誌で街を好意的に紹介される機会も多くなっていった。バブル景気による土地の有効活用が叫ばれた1980年代後半、新世界周辺にある大阪市電天王寺車庫跡地や新今宮駅北側に広がる中山太陽堂の工場跡地の再開発計画が持ち上がる。市電車庫の跡地には大型複合娯楽施設の建設、工場跡地には岸和田競輪場と和歌山競輪場の場外車券売場の建設が進められることとなったが、場外車券売場は地元住民の反発で建設が中止された。そして1997年(平成9年)、新世界では久々の大型娯楽施設としてフェスティバルゲートとスパワールドが市電車庫跡地に開業し、新世界復興へ向けて大きな期待が高まった。だが、フェスティバルゲートは2004年(平成16年)6月に経営破綻し、2008年(平成20年)に全面閉鎖された(跡地にはマルハンがドン・キホーテを核にした商業施設を2015年2月27日に開業した)。1989年(平成元年)、新世界を舞台にした阪本順治監督のデビュー作「どついたるねん」が公開。後に続く「王手」(1991年公開)、「ビリケン」(1996年公開)とともに「新世界三部作」と称され、忘れられた歓楽街だった新世界が再評価されるきっかけとなった。1996年には、NHKの連続テレビ小説「ふたりっ子」の舞台にもなった。これら映画やテレビドラマの影響で、次第に全国ネットの旅番組やバラエティ番組で紹介されることも増え、日本全国に新世界が知られるようになっていく。その結果、週末になると新世界には数多くの観光客が詰め掛け、通天閣やビリケン像などをバックに写真を撮ったり、スマートボールに興じている姿を見受けられるようになった。1980年代までは映画館、2000年代前半まではパチンコ店、ゲームセンター、成人向け店舗が目立った通天閣南本通りや公園本通りには、2000年代後半から串カツ店が乱立。派手な外観の店舗前では客の呼び込みが行われ、かつての寂れた歓楽街の面影は見られなくなった。新世界は大阪第3のゲイ・タウンでもあり、かつて有名人らが多数お忍びで訪れたゲイ旅館「竹の家」があった。因みにゲイバーは25店、ゲイ系店トータルでは32店集まっている。("詳細はゲイタウン・新世界参照")。ルナパーク時代の名残として多くの劇場が今も営業中である。ジャンジャン横丁の南端に「新世界交番」が、新今宮駅北側に「恵美須交番」がある。。

出典:wikipedia

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