ヨハネの黙示録(ヨハネのもくしろく 、)は、『新約聖書(クリスチャン・ギリシャ語聖書)』の最後に配された聖典であり、『新約聖書』の中で唯一預言書的性格を持つ書である。『ヨハネの黙示録』は、単に『黙示録』あるいは『ヨハネによる黙示録』、『神学者聖イオアンの黙示録』(日本ハリストス正教会)、『使徒聖ヨハネ黙示録』(天主公教会)、『ヨハネへの啓示』(ものみの塔聖書冊子協会)ともいわれる。タイトルの「黙示」とはギリシャ語の「アポカリュプシス()」の訳であり、(覆う)に接頭辞の(離れて)が組み合わさった(明かす、明らかにする)という動詞に、という抽象名詞を作る接尾辞が付いた複合語である。英語では「」と言い、上記と同義のラテン語(暴露、すっぱ抜き)に由来する。『黙示録』はキリスト教徒の間でも、その解釈と正典への受け入れをめぐって多くの論議を呼びおこしてきた書物である。ヨハネの黙示録は2世紀に書かれたと言われているムラトリ正典目録に含まれており、A.D.397年に開催されたカルタゴ会議では、ヨハネの黙示録を含む27文書が正典として認められた。旧約・新約をとおしても『黙示録』は聖書の中で最もその扱いが議論されている。聖書自身の自己証言による伝統的な理解では『ヨハネによる福音書』、『ヨハネの手紙一・二・三』、『ヨハネの黙示録』の著者をすべて使徒ヨハネであると考えてきた。西暦2世紀のパピアスは、この書を使徒の作とみなしていた。2世紀の殉教者ユスティヌスは自著、『ユダヤ人トリュフォンとの対話』の中で「キリストの使徒の一人で、名をヨハネという、ある人がわたしたちと共にいた。彼は自分の受けた啓示によって預言をした」と述べている。エイレナイオスは、2世紀末および3世紀初頭のアレクサンドリアのクレメンスやテルトゥリアヌスと同様、使徒ヨハネがその筆者であることを述べている。3世紀の聖書学者であるオリゲネスはこう述べている。「わたしはイエスの胸に寄り掛かったヨハネについて語っているが……彼は一つの福音書を残した……彼はまた、黙示録をも記した」。さらに、『黙示録』の著者は、自らを「しもべヨハネ」と称し、「神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた」と記しているが、これは伝承による使徒ヨハネの晩年の境遇と一致する。また、新約聖書において「小羊」という言葉をキリストの象徴として用いているのは、『ヨハネの黙示録』と『ヨハネによる福音書』だけである。一方で、著者「ヨハネ」に関してもほとんど知られていないとし、2世紀には、文体上の違いに着目し、『ヨハネの黙示録』は、使徒以外の「違うヨハネ」の筆であることを指摘する議論があったことを、教会史家エウセビオスは伝えている。また『黙示録』(特に21章と22章)における終末理解と『ヨハネによる福音書』の著者の終末理解には大きな隔たりがあることを指摘する学者もおり、現代の聖書学者でこの説を支持しない者もいる。だが、『福音書』の記事はイエス在世中の出来事であり、『黙示録』はイエス復活後数十年を経ての終末に関する新たな啓示を記した記録であるので、そこに何らかの差異があっても不自然ではない。4世紀には、東方で、ヨハネス・クリュソストモスと他の主教たちの間で『黙示録』の聖書正典収録に関しての議論が巻き起こった。理由は『黙示録』が難解であるため、その表現を都合よく解釈して悪用されることを恐れたためである。シリアのキリスト教徒の間においても、『黙示録』は、モンタノス派が自らの正当化に利用したため排斥された。9世紀にはコンスタンティノープル総主教ニケフォロス1世がその著書の中で、『ヨハネの黙示録』を『ペトロの黙示録』と共に「真性に疑問のある書物」であるとしている。最終的には中世末期、正教会でも正典に加えられはしたものの、聖書の中で唯一奉神礼で朗読されることのない書となっている。伝統的に、『黙示録』の成立はドミティアヌス帝時代の紀元96年周辺であると考えられてきたが、聖書学者の中にはネロ帝時代の69年頃と考える者も居る。前者の説の有力な傍証とされるのは202年に死去したエイレナイオスの著書『異端反駁』5巻30における証言である。エイレナイオスは著者ヨハネと会ったという人物から『黙示録』の執筆は「というのは、それが登場したのは余り前のことではなく、殆ど我々の時代、ドミティアヌスの治世の終わり頃のことである」という証言を直接聞いたと記す。さらに96年成立説を有力なものとするのは、『黙示録』に小アジアにおける迫害というテーマが含まれていることである。ネロ帝のキリスト教徒迫害はローマ周辺に留まっていた為、小アジアでも迫害が行われたドミティアヌス帝時代の成立の方が、遙かに辻褄が合うということになる。『ヨハネの黙示録』は、古代キリスト教の小アジアにおける七つの主要な教会にあてられる書簡という形をとっている。七つの教会とは、エフェソス、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアである。文中では著者自ら「ヨハネ」と名乗り、終末に於いて起こるであろう出来事の幻を見たと語る。『黙示録』は以下の様な構成となっている。『黙示録』は歴史の中で様々に論じられてきた。特に『聖書』の中でもここにしか現れない「千年王国」論の特殊性への賛否やキリストの再臨の解釈をめぐって多くの議論を巻き起こした。しかし、歴史の中で現れた多くの解釈をまとめると預言書、文学、普遍的イメージの三つの見方に集約することが出来るとする立場もある。この見方は『黙示録』を『ダニエル書』などの流れにある終末預言の一つであるとして、未来の事柄についても語られた終末預言書とみる見方である。マルティン・ルターら歴史的なプロテスタントの黙示録理解は、歴史主義解釈というもので、起こっていない未来の出来事を預言として与えられたという見方である。この立場では、未来にキリスト教の教理であるイエス・キリストの再臨、人間の体の復活、最後の審判、天国あるいは地獄への裁き、新天新地の到来があると信じられている。この見方では、『黙示録』は、紀元前2世紀以降のユダヤ教で起こった終末思想とそれにしたがって書かれた『ダニエル書』などの一連の黙示文学の影響を受けたキリスト教的黙示文学であると解釈する。この見方が18世紀以降、自由主義神学の高等批評を受け入れる研究者の中では主流となっている。この解釈に沿ってみていくと、『黙示録』が『ダニエル書』などの一連の黙示文学と同じ「幻のうちに受ける啓示」、「歴史区分の提示」、「神の完全な支配の実現」などのパターンに沿って書かれているということがよくわかるとされる(「黙示」の項も参照のこと)。この立場の学者は、レンスキ、ナイルズである。ルドルフ・ブルトマンの非神話化では、イエス・キリストの来臨はすでに起こったこととされている。20世紀以降、『黙示録』を「善と悪の対立」および「善の最終的な勝利」という普遍的テーマを著者のイマジネーションによって自由にイメージ化した作品という解釈が現れた。他にも著者ヨハネが死に瀕した苦痛を和らげるため天然麻薬であるニガヨモギを吸い、それによって見た幻覚であるという説(麻薬幻覚説)もあるが、この説は正式な学問的確証に基づいたものでないため、聖書学者たちに受け入れられたことはない。幻覚説を除けば、三つの説はいずれも排他的なものでなく、どれか一つをとれば他の二つは間違いであるといった性質のものではないとする立場もあるが、一般に現代のリベラルな教派の間では、第二の「文学類型」的解釈が主流で未来に起こることが預言として与えられていると考える者は少ない。過去主義者の解釈では『黙示録』が1世紀の終わりに起きた大迫害を預言していたという見方があるが、ヨハネがこの書を書いたのが1世紀の後半だと考える立場からは当然に支持されない。過去主義者の体系的記述はイエズス会修道士アルカザールのもので、宗教改革者がローマ・カトリックを大淫婦バビロンとみなしたため、それを否定するためにあみだされたものであるが、その後に預言を否定するリベラルなウィリアム・ラムゼー、シェイラー・マシューズによって主張されている。ただし、プロテスタントの信仰告白では、ウェストミンスター信仰告白にも、未来に起こることがらである再臨と最後の審判の根拠の聖句としてあげられている。今日でも歴史的なキリスト教終末論の理解からは、使徒ヨハネが神の啓示を受けたと信じられている。黙示録の中にはさまざまなイメージが現れ、歴史の中で多くの芸術家にモチーフを提供してきた。(『黙示録』をテーマとする芸術としてはアルブレヒト・デューラーの一連の木版画などが有名である。)「文学類型」的解釈の立場に立つ学者たちは、『黙示録』のイメージを歴史的事実や、歴史上の人物などにあてはめることで解釈しようとしてきた。たとえば13章にあらわれる竜に権威を与えられた「海からの獣」は、強大な力を持ってキリスト教に対抗するものということで、ローマ帝国もしくはローマ皇帝であると考えられる。その獣が持つ七つの頭は、アウグストゥス以来の七人のローマ皇帝にあてはめて解釈される。13章18節にあらわれる第二の獣に従うものに押された「六百六十六」という数字は数秘術ゲマトリアで「獣の数字」と呼ばれ、皇帝ネロ(ネロン・ケサル)を表すとよく言われるが、これに対しては数が合わないという異論もある。写本によっては六百十六と書かれているものがあることは古くから知られている。また、16章16節にあらわれる「ハルマゲドン」という言葉に関しては、本来の意味が知られずにおどろおどろしいイメージだけが独り歩きしている感があるが、「メギドの丘」という解釈が主流である。黙示録の中では神との戦いに備えて汚れた霊が王たちを集める場所をさす名称である。メギドは北イスラエルの地名で戦略上の要衝であったため、古来より幾度も決戦の地となった。このことから「メギドの丘」という言葉がこの箇所で用いられたと考えられている。
出典:wikipedia
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