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山形屋

山形屋(やまかたや、英称:"YAMAKATAYA Co., Ltd.")は、鹿児島県鹿児島市の老舗百貨店であり、南九州地域(鹿児島・宮崎両県)で5店舗を展開する山形屋グループ百貨店の旗艦店である。山形屋の創業は1751年(宝暦元年)、デパートメントストア化は明治時代中頃、近代的なデパート建築(清水組による施工)となったのは大正時代初期と古く、地方百貨店の先駆け的存在であり、神戸以西におけるデパート第1号である。商業面積は約33,000㎡、年間売上高は約500億円にも上り、地方百貨店としてはトップクラスの収益力を誇っている。百貨店の共同仕入機構であるA・D・Oに加盟している。以前、1号館1階には山形屋バスセンター(鹿児島交通・三州自動車のバスターミナル)を併設していたが現在は閉鎖、鹿児島市内及び薩摩半島中南部を中心とした広域エリアから集客に貢献していた。山形屋グループ百貨店は、上記のとおり、それぞれ独立した企業として運営されている。したがって、厳密には「山形屋」とは株式会社山形屋が運営する鹿児島市の旗艦店のみを指す。かつては、島津氏の勢力圏そのままに、熊本県人吉市や沖縄県那覇市(沖縄山形屋)にもグループ百貨店が存在した。現在、山形屋グループは、南九州地域(鹿児島・宮崎両県)において、上記のグループ百貨店をはじめ、スーパー部門子会社の山形屋ストア、山形屋ショッピングプラザなどの企業を展開している。電車通りに面した1号館は1999年に昭和初期のルネサンス調の外観に復元され、夜間には美しくライトアップされる。建物内部も曲線をもつ柱や梁などが復元されており、1号館1階は高い天井とシャンデリア、柱には大理石の化粧貼りが施されている。今では珍しくなった大食堂が健在である。山形屋子会社のベルグ(旧山形屋食堂)が1943年(昭和18年)7月に運営を開始し、1972年(昭和47年)から現在の7階で営業している。他の百貨店では複数の専門店から構成されるレストラン街に移行したところが多いが、山形屋では大食堂が盛況を維持し、視察に来た他店の関係者が驚くという。名物は1958年(昭和33年)から出している「焼きそば」で、揚げ麺に野菜たっぷりのあんかけをかけたものである。安価に設定されているものの、年間13万食が提供され、このメニューだけで大食堂の売り上げの半分を占める。
屋上には遊園地の「山形屋ファミリーランド」が平成27年1月8日まで存在した。
また、無料給茶機や個別空調を完備した休憩室も設けられている。山形屋の「北海道の物産と観光展」(北海道物産展)は1964年12月1日に第1回展が開かれ、2013年で50回目を迎える鹿児島の秋の風物詩である。2012年の売上高は8億9700万円で、北海道が主催する物産展としては13年連続で日本一を記録している。山形屋の北海道物産展では、同社のバイヤーが直接北海道入りし、仕入れ交渉や商品開発の運営まで担う特徴がある。商品の例としては、鹿児島向けに甘い醤油が使用されたいくらしょうゆ漬けや松前漬けが開発されている。2013年の第50回展では記念式典が開催され、高橋はるみ北海道知事から山形屋に感謝状が送られた。この第50回展では、通常は商業施設の催事などは取り上げることがないNHKも全国放送で生中継を実施した(「情報まるごと」)。担当したのは、当時NHK鹿児島放送局に勤務していた、山形県出身の大石真弘アナウンサーだった。店内放送のチャイム(山形屋グループ百貨店共通)として「アルプスの牧場」が使用されているが、これは国鉄の20系客車で使用されていたものと同じである。創業は宝暦元年(1751年)。創業者は近江商人の血を受け継ぐ現在の山形県庄内地方の北前船商人で、薩摩藩主の許可を得て開業した鹿児島城下唯一の呉服商が現在の山形屋の前身といわれる(1号館の壁面に山形屋呉服店のレリーフが掲げられている)。大正時代には、1912年(大正元年)に山形屋に先んじて「明治屋呉服店」というデパート風の商店が近くに開業した。ルネサンス風の3階建ての壮観な建物を持ち、店員150人、年間売上200万円に上るなど、鹿児島随一の店舗とされていた。しかしこの頃、鹿児島市電(当時は民営の鹿児島電気軌道)の建設計画が進んでいた。その路線計画は現行の電車通りより海側の、当時の繁華街であった広馬場を通るものであった。広馬場周辺の商店主は、電車を通すために必要な道路拡幅で、店舗用地を削られることを嫌って反対し、計画は難航していた。そこで当時の山形屋の当主であった岩元信兵衛は早速電車会社に対して用地提供を申し出て、そのために必要な店舗建物の撤去費用も自分で負担するとした。電車会社としても広馬場周辺の商店主としてもこれに異論はなく、こうして現在の電車通りに路面電車が通ることになった。折から山形屋は本格的な百貨店へと新築工事を進めているところであったが、本来の計画では西側に正面を向けることになっていた。しかし東側の通りが電車通りとなったことから設計が変更され、電車通りに正面を向けて華やかなショーウィンドウを備えた建物となった。路面電車の運行によって人の流れが変わり、従来の繁華街広馬場から山形屋のある金生町周辺がメインストリートへと変貌した。この流れに抗することができず、明治屋も1931年(昭和6年)に電車通り沿いの高見馬場に移転することになったが、結局第二次世界大戦時の鹿児島大空襲により焼失してそのまま閉店した。また、1927年(昭和2年)の昭和金融恐慌時には、破格売出を行ったほか、他の商店等において支払が遅延する中、掻き集めた売上金を鹿児島から大阪まで列車輸送し、問屋に通常決済を行ったことなどにより、鹿児島県内の顧客のみならず全国の問屋から信用を勝ち取った。こうしたことから、地域における商品力、ブランド力は昔から格段に強く、鹿児島市の中心繁華街である天文館地区においてガリバー的存在として君臨している。そのため、鹿児島市の商圏規模を考えれば共存できるはずの丸屋デパート(後の鹿児島三越・三越鹿児島店、現在のマルヤガーデンズ)や高島屋デパート(現在のTAKAPLA(当初は高島屋プラザ)で大阪に本社を置く同名の百貨店とは無関係)といった競合店は苦戦を強いられてきた。。地元には山形屋を脅かす競合店が存在せず、また北部九州地域との交流も限定的であったため、文字通り「一人勝ち」の状況が続いてきた。しかし、新幹線や高速道路などの高速交通網の整備や、大規模小売店舗立地法の施行に伴う郊外大型商業施設の増加などの影響もあり、近年売上高は減少傾向にある。こうした状況の中、山形屋も業績を拡大するべく、2004年の九州新幹線の部分開業以前には「ジェイアール九州山形屋(仮称)」として、鹿児島中央駅ビルへの出店を計画していたが、経済情勢等から断念した。その後は、鹿児島中央駅ビルアミュプラザ鹿児島のオープンや、イオン鹿児島ショッピングセンター(現・イオンモール鹿児島)など郊外大型商業施設の相次ぐオープンに対抗するため、「We Love 天文館協議会」への参画や各種イベントの開催などにより、天文館地区における協力調和と地域活性化を図る姿勢を明確にしている。2007年8月、都市間競争や郊外大型商業施設への対抗策として、増床計画の概要が発表された。その後、2008年のリーマン・ショック以降の消費不況の長期化から、計画は無期限延期となっているが、事務所やエネルギー設備が入る新3号館は2009年11月に完成し、新2号館の建設用地は暫定的にイベント広場として地域に開放されている。以下、当初計画の概要を記す。2006年6月、国分山形屋を「きりしま国分山形屋」として新築移転した。同店は鹿児島県内初出店のテナント誘致に成功し、また鹿児島県内百貨店として初めて電子マネーEdyカードの利用が可能となった。また、2006年9月には宮崎山形屋がイオン宮崎ショッピングセンター(現・イオンモール宮崎)への対抗策として新館を増床し、2007年3月末に全館リニューアルを完了した。2007年3月から8月の間、通信販売で「地鶏」と表示した商品を260人に販売したが、地鶏ではなくブロイラーを使用していた事が判明した(購入者に対して謝罪し、代金の返還や別の商品への差し替えを行った)。原因は「担当者の入力ミス」とされた。同年10月25日、宮崎県の東国原英夫知事(当時)は「この時期に、『単純なミスだった』という説明で済むのか?」と疑問を呈したうえで、「今後、このような事がないようにしてほしい」と述べた。なお、商品には東国原知事をデフォルメしたキャラクターのイラストが使用されており、このイラストの扱いについても検討すると述べた。1954年7月から2015年8月31日まで、1号館1階に設けられていた鹿児島交通・三州自動車の21路線が乗り入れするバスターミナルで、開設された当初は屋根が無かったものの、1963年の1号館の増改築で屋根付きで3本のホームを有するターミナルとなった。計算上は最大9台(各ホーム3台ずつ)のバスが入線出来る広さであるが、ターミナルの構造上、スーパーハイデッカーなど車高の高いバスは入線できなかった。閉鎖翌日の2015年9月1日からは山形屋バスセンターに代わり、既存の金生町バス停(ただし始発便・到着便・経由便でそれぞれバス停の場所が異なる)での運行を開始。1番乗り場は市内線・薩摩半島方面の路線(鹿児島交通担当)の始発便、・2番乗り場は同路線の終着便、3番乗り場は国道10号・大隅半島方面の路線(三州自動車担当)が使用、1番線乗り場の向かいに当バスセンターの案内放送が出来る案内所があり、地下および1階の売場と連絡していた。閉鎖後も連絡通路のみ引き続き使用できたが、2016年5月以降は耐震補強工事に伴い使用できなくなっている。以下の路線が始発便として運行される。それ以外は金生町バス停を利用。

出典:wikipedia

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