エミール・ワルトトイフェル(, 1837年12月9日ストラスブール - 1915年2月12日パリ)は、フランスの作曲家。大衆音楽、とりわけワルツ『スケートをする人々』『女学生』やポルカなどのダンス音楽の作曲家として知られ、ワルツ王ヨハン・シュトラウス2世にならって「フランスのヨハン・シュトラウス」「フランスのワルツ王」と呼ばれた。ストラスブールにて、アルザスのユダヤ人()(アシュケナジム系ユダヤ人が多い)の家庭に生まれる。出身地アルザスはドイツ語圏であり、1793年以前および1871年から1918年まではドイツ領であったが、ワルトトイフェルもその名が示すとおり、シャルル・ミュンシュ、アルベルト・シュヴァイツァーらの多くのアルザス人と同じくドイツ系の文化圏に生まれ育ったといわれる。一族は音楽家、父ルイ・レヴィは有名なオーケストラの統率者で、兄レオンは人気の音楽家だった。レオンがパリ音楽院に入学したのを期に、一家でパリに転出し、以降エミールは一生をこの地で過ごす。1853年から1857年までパリ音楽院でピアノを学ぶ。同級生に有名なオペラ作曲家のマスネやビゼーがいた。この間、父親のオーケストラがパリで最も有名な楽団となり、しばしばエミールも重要な行事に招かれて演奏した。28歳の時、ナポレオン3世の皇后ウジェニーの宮廷ピアニストになり、また帝国主宰の舞踏会で楽団を指揮する。普仏戦争によって第二帝政が崩壊した後は、楽団はエリゼ宮の大統領主宰の舞踏会で演奏を行なった。この頃にはエミール・ワルトトイフェルの名はフランス上流社会の一部で知られているのみで、30代後半までさほど有名な存在ではなかった。1874年10月にワルトトイフェルは、当時英国皇太子だったエドワード7世の臨席する行事で演奏を行う。ワルトトイフェルのワルツ『マノロ』("Manolo" )に魅了されたエドワード7世は、ワルトトイフェルの曲をイギリスに盛んに紹介し、またロンドンを拠点とする出版社Hopwood & Crewが彼と長期契約を結んだ。そのような経緯を経て、ワルトトイフェルの作品はバッキンガム宮殿においてヴィクトリア女王臨席の下で御前演奏された。ワルトトイフェルの名はロンドンの楽壇を制すると、世界中で有名になった。最も有名な、今なおよく演奏されるワルトトイフェルの作品が作曲されたのも、この時期である。有名な『スケーターズ・ワルツ』("Les Pâtineurs" )が作曲されたのは1882年のことである。もっとも、この曲は日本での人気が突出しており、海外ではワルトトイフェル名曲集のようなアルバムから外れることもある。一般的に代表作と見なされることが多いのは『女学生』の方である。エミール・ワルトトイフェルはいくつかのヨーロッパの都市で演奏を行なった(1885年ロンドン、1889年ベルリン、1890年~1891年パリ)。1899年に引退するまで活動を続け、フランス大統領主宰の舞踏会のためのダンス音楽を作曲・指揮した。声楽家の夫人セレスティーヌ・デュフォーとの間に二男一女をもうけた。ワルトトイフェルは、ヨハン・シュトラウス2世と違い、ヴァイオリンの弓でなく指揮棒を振って楽団を指揮した。作曲はまずピアノで行なってから、後でオーケストレーションを施した(近年、ピアノによる草稿の録音がCDで発売されている)。ワルトトイフェルのオーケストレーションは2管編成を基準としつつも、金管楽器が充実している。シュトラウスの大胆で「男性的な」作風に比べると、ワルトトイフェルは巧妙な和声法と優雅なフレーズが特徴的である。しかし、ワルトトイフェルの作品は革命的とはいえず、印象主義音楽がパリを制する頃になると、時代の趣味から取り残されていくこととなった。戦後もワルトトイフェル作品集を録音したのは、ロベルト・シュトルツ、ヴィリー・ボスコフスキーといったシュトラウスのスペシャリスト達であり、ヨハン・シュトラウス全集、ヨゼフ・シュトラウス全集に続いてCD全集を完成させたマルコ・ポーロ社も含めて、フランスよりもドイツ圏でその業績が伝え続けられている。『スケーターズ・ワルツ』がBGMとして抜群の人気を誇る日本では、歌として親しまれている曲も幾つかあり、ドイツ圏に次ぐ人気を保つ国といえる。
出典:wikipedia
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