清元節(きよもとぶし)または清元(きよもと)とは、三味線音楽のひとつで、浄瑠璃の一種。主として歌舞伎や歌舞伎舞踊の伴奏音楽として用いられる。清元は豊後節系浄瑠璃として、また浄瑠璃一般としてもっとも遅く成立した流派で、初代清元延寿太夫(1777年 - 1825年)が1814年(文化11年)に創始したものである。延寿太夫は初代富本斎宮太夫に師事して、二世富本斎宮太夫を襲名し、その後富本節を離れて豊後路清海太夫を名乗っていたが、1814年(文化11年)11月、市村座顔見世に出演して清元の名称を興した。以降、歌舞伎の伴奏音楽として徐々に発達し、江戸後期にはその瀟洒な節まわしが世人に広く愛好されたものである。音楽的な特徴としては、豊後節系統の叙情的で艶っぽい風情を濃厚なものとし、これに長唄の影響を受けて歌うような声ののびやかさや節回しの面白さを加味したものであり、語りものの豪壮さはいささか影が薄い。その代わり、瀟洒かつ粋で軽妙な音楽であり、特にその高音を多用する語りは江戸浄瑠璃の精髄を示すものとして広く愛された。基本的には劇付随音楽であるが、その唄い物的な要素のため、芝居よりも所作事で用いられることのほうが多く、また時代が下るにしたがって純粋な観賞用としての側面も持つようになった。なお河竹黙阿弥が清元を愛し、いわゆる余所事浄瑠璃として多くの清元を作詞している。これによって幕末期から明治初期にかけて清元は新たな展開を見せた。1922年(大正11年)12月、当時の家元五世延寿太夫と、三味線方の三世清元梅吉(後の二世清元寿兵衛)とが不和となり、梅吉は一門の弟子を伴って清元宗家から独立。清元流を創立した。現在は三世梅吉の孫である四世梅吉が家元を継承している。そのため、清元は現在も二流派が存在し、延寿太夫側を「清元宗家高輪会(あるいは単に「宗家」)」または「高輪派」、梅吉の清元流を『清元流』または「梅派」(以前は「赤坂派・築地派」という呼び名もあったが、現在ではあまり用いられない)と呼び区別している。不和となって以後、長唄や、同じ豊後節系の常磐津節などと違い、流派を超えた合同演奏は一部の例外を除いて行なわれることはなく、それぞれが独立した演奏組織となっていた。1964年(昭和39年)12月、高輪派と梅派が寄り合い、清元協会を設立、六世延寿太夫が会長に、二世寿兵衛が名誉会長に就任。1966年(昭和41年)7月3日歌舞伎座での第1回を皮切りとして定期的に清元協会演奏会を催していたが、その後梅吉からの合同演奏の呼びかけに高輪派が応じないことから梅派は協会から脱退し、それ以降長らく高輪派の演奏家のみが所属する団体となっていた。また、協会の設立を熱望し合同演奏会の開催を待ち望んでいた寿兵衛は第1回演奏会の1か月前に没し、出演は叶わなかった。現在松竹の歌舞伎公演に出演しているのは高輪派のみであり、梅派は舞踊の地方や素浄瑠璃の演奏会を主な活動の場としている。2010年(平成22年)8月24日、NHKエンタープライズの企画『芸の真髄シリーズ第4回 清元 清き流れひと元に』(於:国立劇場)で延寿太夫と梅吉が88年ぶりに同じ山台で演奏を行った。この公演を機に双方が歩み寄り、翌年の2011年(平成23年)8月9日には、宗家側のみとなっていた清元協会に梅派が再合流し、双方から役員を選出。宗家の延寿太夫が会長に、梅派の梅吉が副会長に就任し、新生清元協会が発足した。さらに翌年2012年(平成24年)8月29日には三越劇場において初の清元協会演奏会が開催された。2014年(平成26年)には清元節生誕から200年の記念の年となり、3月28日には清元延寿太夫主催により清元宗家高輪会と清元流の演奏家、また趣味で稽古を受けている愛好家、指導を受けている花柳界、所縁の役者衆が一堂に会し、歌舞伎座において『清元節生誕二百年記念演奏会』を催した。また常磐津節などに続いて、2014年10月、伝統芸能としての清元節が重要無形文化財に指定され、清元節保存会会員がその保持者として総合認定された。宗家(清元宗家高輪会・高輪派)家元は代々清元延寿太夫を襲名する。当代で七代目である。なお、六代家元は本来ならば五世の長男、四世榮寿太夫が相続するべきであったが、五世より早世したため、四世榮寿太夫の実子(五世の孫)の清道が相続した。よって、現家元は五世の曾孫である。清元流(梅派)の家元は二代ある。近代以降のおもな名人としては、太夫に三味線方に重要無形文化財「清元節浄瑠璃」及び「清元節三味線」の保持者として各個認定された人物(いわゆる人間国宝)は以下の通りである。五十音順。略称、通称による表記。
出典:wikipedia
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